まちづくりに関わってきた人たちに話を伺い、今後の市政へのヒントを探ります。

1回 三宮十五郎(さんのみや とうごろう)さん

プロフィール

昭和43(1968)年、26歳で共産党から弥富町議員に初当選。4年後の次の選挙では落選するものの、昭和51(1976)年に議員に返り咲き。以来、トータルで12期、48年間、議員として弥富のまちづくりに関わってきた。平成31(2019)年に引退。現在は、共産党の情報発信や地元の活動に携わっている。

地域の困りごとを町へ要請

三宮さんが旧鯏浦村「下の割」に引っ越してきたのは昭和42(1967)年。当時、地元では水道の水圧が低くてガス湯沸器が使えず、赤サビをガーゼで濾さないと使えないという問題に直面していた。当時の水道は最初に使う人がお金を出して水を引くという体制だったが、人口が急増し水圧が低くなったのだ。三宮さんは「これは行政の問題である」と、下の割自治会役員となって、町の予算で修理するよう働きかけ、解決に導いた。これが地元での最初の仕事である。

翌年に地元から推されて議員に立候補し、当選。次に取り組んだのが農業用排水路の問題だった。排水路は当時、木の杭(くい)と板柵で支えられていたが、生活排水が大量に流れ込むようになり腐ってきていたのだ。これを鯏浦地区に提案し、区の総意として改修を町に要請。町の予算でコンクリートの杭と板に改修させた。

このように当時は、集落の困りごとを町に要請するにも、集落で議論を重ね意思決定をし、データをまとめた上で行ってきたのである。同年、道路舗装や側溝工事なども、地元負担が5割だったものを2割に引き下げ、順番にまちの整備を進めていった。

住民の意向が反映された時代

昭和45(1970)年に弥富町では、ハードなまちづくりである区域割り(都市計画決定)を行った。そのプロセスとして、町が提案した市街化区域と調整区域の線引きに関し、当事者である住民や地元議員が集まり議論を尽くした。当時は農業や金魚養殖が盛んで、そこをどうするかという問題があったのだ。議論の結果、弥富学区は現在の西部下水以南を市街化区域とし以北は農地保全をすることに、桜学区は車新田が金魚養殖のために市街化区域に入らないことを決め、現在に至る。

当時の服部町長は、「これは町の方針ではあるが、皆さんの暮らしに直結することは皆さんで決めてください」と言って対応したという。

昭和43年からの1期目4年間は、ミニ乱開発防止の規制を要請したり、子どもの急増に対して初めての町立となる弥生保育所の新設を求めるなど、現在に繋がるまちの形をつくり上げていった時代でもある。

2回の100条委員会

佐藤町長時代に町議会に2回の100条委員会を立ち上げた(1976、1988年)。100条委員会とは、地方自治法100条に基づき、地方議会に設けられる調査委員会のこと。1度目は、町工事請負等をめぐるもので、町の諸事業発注を明文化することに繋がった。2度目は、ゴミ汚職問題について。3年分のゴミ収集委託料入札で予定価格の67%に下げさせ、当年度分を含む4年間で8千万円の町費を節約することができた。

これができたのは、共産党議員と保守系議員が協力して町政を正そうという姿勢があったからだと三宮さんは話す。

今につながる平和都市宣言のまち

平成5(1993)年、3歳未満児の医療費無料化の請願(H16年に中学卒業までに)、平成6(1994)年には総合福祉センターの建設を求める請願を可決した。弥富町は、お風呂のある福祉センターのない唯一の自治体だったのだ。こうして、平成8(1996)年に弥生児童館や多目的ホールなども併設した総合福祉センターが完成し、同時に福祉センター送迎バスとしてコミュニティーバス「きんちゃんバス」の運行も始まった。児童館はこの後も各地域に設置され、平成11(1999)年には弥富中学校の鉄筋校舎改築(海部地域で初めて)へ準備を始めた。

この頃は、福祉・子育て関係のソフトとハードの体制を徐々に整える中、平成10(1998)年には町議会で「平和都市宣言」を議決した。これは、現在の弥富市公式ウェブサイトの「弥富市の紹介」のトップで「平和都市宣言のまち」として紹介されている。そして平成23(2011)年には中学2年生全員の1泊2日広島研修や週2時間5カ月の平和学習も始まった。

しかし、これが危機を迎えたこともあった。現・安藤市長が突然、広島研修の廃止を求めたのだ。三宮さんは、市民や議会、市幹部に働きかけ、「市民と行政の信頼関係の土台を壊すことになり、やってはならないこと」と訴えて市長が取り下げることになった。

議会の劣化と議会基本条例

三宮さんは、平成11年の小渕内閣で自公連立政権となった頃から、国の政治や地方議会が変わっていったと感じている。さらに全国で市町村合併が進み、議員数が減って議会の劣化に拍車がかかった。

このような全国的風潮の中で、議会の理念や制度、市長・市民との関係を定めた「議会基本条例」を各自治体が制定する動きが出てきた。平成18(2006)年に合併した弥富市でも平成23(2011)年に議会基本条例を定め、議会の最大の使命は「行政のチェック機能と市民の要望を反映した政策の実現です」と明記している。これにより、定例議会をYouTubeで放映するなど、市民との情報共有を推進してきたが、残念ながらタウンミーティングは一部議員の反対で実現できていない。

どうやったらみんなが安心して暮らせるか

「みんなが安心して暮らせる社会」を目指し、議員活動を長年行ってきた三宮さん。その原点は幼い頃の満洲での体験にあった。

「私は高知県出身で3歳の頃、開拓団として満洲に行きました。ところが、父親はすぐに軍に招集されて、お袋と妹と私と3人が残って終戦を迎えたんです。ただ現地の人たちに助けられました。炭鉱があるところで冬越しをしたんですが、『子どもを寄越せば、石炭を運ぶ途中で落としてあげるから』と言われて子どもたちで拾いに行ったり、高熱が出た時も『私たちは唐辛子の湿布で熱を下げる』って教えてくれたり。だから高知県から行った開拓団の中で私たちは一人も欠けずに帰ってきたただ一つの開拓団だったんです。人は助け合って生きていくものだという原点はここだったかもしれません」

三宮さんが中学3年生の時、公立高校の入試選別が取り入れられようとした。その時、やめてほしいという運動が起こり、三宮さんも中学校の生徒会連合で署名を集め、県の教育委員会の前で訴えたこともある。

「中学の時、歴史の勉強をなぜやるのかわからなかった。でもその時、先生が『化学のように実験ができるわけじゃないから、なぜこんな世の中になったか、社会の仕組みや変化をちゃんと理解しながら、どうすれば、本当にみんなが安心して暮らせるかっていうことを身につけるのが歴史の勉強だ』という話を聞いたんです。そんなこともあってこういうことができたのだと思います」

「妻の支えがあったから議員活動ができた」という三宮さん。結婚の時に話し合ったことは、「子どもたちのために住み良い社会にする。そのために少しでも役立つことができれば」ということだった。

「過去から学び、どうやったらみんなが安心して暮らせるかみんなで考える」・・・地方自治の原点がここにあるように思う。

 

三宮十五郎さんは2024年11月24日にご逝去されました。

まちづくりの偉大な先輩としてここに感謝の意を尽くして弔意を表します。

参考

2016年市議会議員選挙の時の映像が残っていました

 

弥富市の住民と議会と行政の知られざる歴史(三宮十五郎さん提供)

1967年 水道の水圧が低くガス湯沸かし器が使えない、ガーゼで越さないと使えないと言う水道改善
1968年 道路舗装、側溝工事等の地元負担を5割から2割に引き下げる
1968年 生活排水が流れ込む農業用排水路を改修に公費支出
1968年 人口急増地域で生活排水が農業用水路を痛め
1968年 町長に要請し用排水路の木の杭と板柵をコンクリート杭とコンクリート板の材料費を町の負担とする
1969年 京都府城陽市などの開発指導要綱を町に提供しミニ開発を防止する
1970年 市街化区域等調整区域の線引きに関し弥富町は「弥生学区は名阪国道まで、桜学区は全域を市街化区域とする」ことを提案。現在の中六区を含む鯏浦区内のすべての議員にも出席を求めメリットとデメリットの議論を行う。結果、弥生学区は現在の西部下水以南とし、以北は農地保全とし市街化調整区域となる。
1970年 桜学区は車新田が金魚養殖のため市街化区域に入らないことを決め現在に至る。当時町長は「これは町の方針ではあるが、皆さんの暮らしに直結すること。皆さんで決めてください」と対応
1972年 吉川県会議員、佐藤町政のもとで業者との悪い噂が絶えず住民運動への圧力が強まる。
1976年 弥富町の工事請負等をめぐり弥富町議会100条委員会が設置。
1976年 弥富町の上事業発注の明文化。
1976年 決算議会で1年間の入札予定書くと落札額を公表させる。その他0.5%
1978年 白熱灯は切れやすく多くの町内では区長補助員が電柱に登って玉替えをしていた白熱電球の防犯灯を蛍光灯の防犯灯に切り替える3ヵ年計画を作らせる
1978年 道路・下水道等の地元負担を20%から10%に引き下げる
1980年 防犯灯の地元負担廃止。ほぼ全町に防犯灯設置。
1980年 排水路を改修、浸水災害対策の充実を一貫して要求。
1980年 建設業協会加入業者以外の町内業者の入札参加が実行される。
1981年 道路水路清掃等の過剰な住民負担の軽減を進める。
1984年 木曽工業有限会社を介した1億円を超える悪質サラ金保証事件を解決。
1984年 都市計画税導入の町長提案を議会が否決。
1989年 道路、側溝、下水路などの地元負担全廃
1993年 近鉄弥富駅橋上化工事実施。
1993年 自治会公民館等、300万円を限度に助成。
1997年 町が関わる公共事業単価65から86%に引き下げる。
1997年 中六公園を始めとする公園等のトイレ水洗化が始まる。
1998年 佐藤ビル、駒野の住宅等の水道基本料金2100円を760円に引き下げる。 3階建て以上のビルなども親子メーター使用の基本料金二重払いを解消する。
1998年 弥富町が関わる公共事業単価65から86%に引き下げる。
1999年 共産党国会議員団の協力で弥富中学校改築の国の補助制度活用の見通しをつけ弥富長に報告。西尾張地方で初めてで鉄筋校舎の全面改築の準備を始める。
1999年 海部地域で最初の鉄筋校舎全面改築の補助制度について国との協議に町が手をつけることができなかった。
2013年 都市計画税導入が提起されるが市民の反対の動きで計画中止となる。
2015年 防犯灯LED化へ調査費。15年使用できるものを10年のリースで。
2016年 合併浄化槽の補助金打ち切りをやめさせる。
2016年 LED防犯灯リースによる全面転換5461灯。事務事業の全てを自治会から引き上げ市の直営とする。
2017年 防犯灯5526灯、年リース料8,235,000円。
2019年 JR名鉄弥富駅橋上化事業、議会と市民への詳しい情報提供は、覚書合意の後との市の対応を「違約金が発生する協定成立後にすることなど許されることでは無い、議会と市民が判断できる時期に公表すべき」と言うと「そのようにする」と9月議会で答弁。
2006年 1月に服部視聴当選。十四山をよくする会は服部氏を推薦。旧弥富町は佐藤氏と日本共産党2名以外は川瀬氏推薦。民報弥富で公約違反の川瀬氏は許せないとキャンペーン。
1967年 収入役による汚職事件で町長選
1968年 公費による議会の飲食禁止
1968年 議員が他の常任委員会に出席し委員長の許可を得て発言出来るように改善
1969年 鍋田干拓を中心として農業所得への不当課税を撤回させる
1969年 海部郡内で1番高い保険料を4年間値上げを止める。結果として1番安くなる
1969年 津島税務署と弥富町農協の3者による課税基準の設定が大きく間違っていた
1969年 その積算資料が保守系の2人の議員から提供された
1986年 広島と長崎からのアピール署名に多数の住民が署名。町内の消防団長含む大多数の分団長も署名。平和宣言の街への流れが強まる。
1990年 2人助役制度の提案を中止させる
1990年 女性課長1名、同補佐4名となる。
1998年 平和都市宣言を議決。
2001年 万博住民投票を求める直接請求書名2577筆有権者の9%。
2005年 川瀬町町が「合併の是非は住民投票で」の公約を破って2町村合併。弥富朝は住民投票の実施を求める直接請求署名4500筆。十四山村は財政破綻すると偽りの情報で村議会解散。共産党星型議員等で十四山をよくする会を作って対抗。
1968年 文教委員会の学校訪問で栄南小学校にあるカラーテレビが学校後援会の寄付であることが判明し過大な住民負担を今後行わないことを認めさせ、全校にカラーテレビを導入
1970年 弥生保育所の新設を求める請願可決
1972年 公費による議会の飲食が再開
1972年 保育料を海部郡内で高いほうに引き上げられる。
1977年 保育料は前年の郡内平均を上回ることがないようにすると約束させる。
1977年 社会体育に小中学校体育館を無料開放。
1977年 弥生親子スポーツクラブが発足
1985年 国民健康保険税を値上げしないための町の独自負担を認めさせる。
1985年 障害者タクシーチケットの配布
1985年 移動入浴事業が始まる
1988年 全保育所にほぼ1名を増員させる
1988年 ゴミ汚職で100条委員会。
1988年 3年分のゴミ収集委託料入札で予定価格の67% に、当年度分を含む4年間で80,000,000円の節約。
1989年 国民健康保険税引き下げ。
1989年 白内障眼内レンズ手術に保険適用を求める請願と意見書、全国でも県内でも早い時期に解決可決。国の制度として実施へ。
1990年 中学生頭髪自由化。
1992年 特別養護老人ホーム輪中の郷、借入金の元利償還金分を弥富町負担で建設。
1992年 精神障害者の医療費助成。
1992年 保育料7年間据え置き。
1993年  3歳時未満児の医療費無料化の請願が可決。町長は順次拡大していくと表明。
1994年 児童館建設を求める請願可決。
1994年 防災対策の充実を求める請願採択。
1994年 総合福祉センターの建設を求める請願採択。佐藤町政で福寿会連合会で「旅行用のバスか福祉センターか」のいずれかの選択を迫られ、海部地域でお風呂のある福祉センターのない唯一の自治体となっていた。
1994年 桜児童館建設。この間の署名1200から1800筆。いずれも民報弥富で呼びかけたもの。
1996年 総合福祉センター建設。弥生児童館、シルバー人材センター、福祉授産所、デイサービスセンター、多目的ホール等を併設。
1997年 白鳥コミュニティーに白鳥児童館設置。
1997年 栄南児童館建設
2000年 さくら弥生児童館で学童保育。
2001年 南部、桜、白鳥、弥生保育所、0歳児は生後8ヶ月より7時までの延長保育。その他大藤栄南0歳時は生後10ヶ月より6時まで。
2002年 4月より5歳児未満、10月より入学前の医療費無料。
2002年 防犯灯3548灯。
2003年 4月より小学3年生まで医療費無料。
2003年 4.5歳児保育室にエアコン設置、すべての保育室にエアコン。
2003年 保育料8年間据え置き。
2003年 自立支援医療対象の精神の病気は無料に。
2003年 精神障害者福祉手帳に手当支給。
2004年 10月1日より小学校卒業まで医療費無料化
2006年 大藤児童館建設
2007年 4月1日から中学校卒業まで医療費無料に。身体障害者手帳を持っていない要介護者に、税の障害者控除認定書を発行。弥富中学校建設業22億1550万円完了
2008年 75歳以上の精神の病気による自立支援医療対象者はすべての疾病の保険診療を無償化。
2008年 74歳までの人は精神の病気による入通院費無料。
2008年 65歳以上の障害者医療の対象者窓口無料が実現。
2009年 2平成20年4月より県の制度のうち65歳を過ぎて新たに重度障害者となった人への県の手当支給廃止。
2009年 党の質問に市長も県の対応を改める必要があると認め、西尾張9市市長会の意見書を提出し市長会の総意として県に要請したが県は対応拒否。
2009年 十四山東部児童館開設。
2011年 中学2年生全員1泊5日広島研修が始まる。週2時間5ヶ月の平和学習。年間 400人。
2012年 高齢者と障害者のみの世帯、希望者に配食サービスが毎日となる。
2013年 保育料21年間据え置き
2015年 生後3ヶ月からの乳児保育実施。
2015年 児童クラブ6年生まで受け入れ。
2015年 病児病後児保育開始。
2016年 被爆者署名、市のホームページで市民に呼びかける。
2016年 タクシーチケットの追加。
2016年 十四山福祉センターで高齢者のみの世帯等の食事券使用可能に。
2017年 就学援助新一年生の入学準備金を1月に支給。
2018年 小中学校のすべての普通教室にエアコンを設置。早めの対応で予定日から33% 2億3000万円を節約。
2018年 不妊治療への助成拡大を約束。
2019年 日本共産党市議団は大企業優遇政策として一貫して反対、廃止を求めてきた固定資産税の減免制度、企業立地奨励金制度が9月で廃止された。
2019年 市公共交通便利で利用しやすいものに全面的見直しへ。
2019年 中学2年生全員の広島研修など突然の廃止を求める市長に、市民や議会市幹部に働きかけ「市民と行政の信頼関係の土台を壊すことになりやってはならないことを」と訴え、市長が取り下げる。
2019年 認知症など精神の病気を治療してる内科医に「県に届け出て医療費無料ための診断書を書けるようにしてほしい」とのと要請に対し医師会等に要請することが9月議会で約束される。
2019年 党議員団の要請を認め「弥富市市長が必要な人に障害者手帳の診断書を書いてもらえるように県の責任で医療機関への要請を」と言う趣旨の西尾張9市市長会としての意見書を提案した。
2019年 他の市長は「そんな問題があるとは聞いていない」との対応。深刻な医師不足等を背景に西尾張9市の全てで弥富と同じようなことが起こっているのに、障害者の権利と行政の責任が土台から壊されると言う深刻な事態が理解されていない。障害者支援、障害基礎年金、障害厚生年金等が必要な人が受給できない現状が広がっている。早急な解決が求められている。