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日本では昔から、みんなで協力し合うことを大切にする風土があります。だからこそ、教育の形も「寺子屋」のようなスタイルが合っているのではないでしょうか。
「寺子屋」の知恵と現代の教育
明治維新の際、日本が欧米列強の植民地にならなかった大きな理由の一つに、一般庶民にまで広く識字率や教養が浸透していたことが挙げられます。これを支えたのが寺子屋でした。寺子屋では、先生が一斉に教え込むのではなく、子どもたちはそれぞれのペースで、与えられた目標に向かって自ら調べ、考えて学んでいきました。藩校や適塾なども同様の方式だったようです。
このような「子どもが自ら学ぶ」教育は、現代の公立小学校でも実践されています。例えば長野県伊那市の伊那小学校は、明治5年以来の歴史の中で、子どもたちが自ら問いを見つけ、学ぶことを尊重してきました。文部科学省の指導要領も骨格を示しているだけで、その骨格を守りながら認可された枠内で私立校「きのくに子どもの村学園」が設立運営され、子どもたちが主体的に学び、自ら道を切り開ける大人を育てています。そこでも、異年齢の子どもたちが一緒に調べ、学び、議論する「縦割り」の学習が取り入れられています。
私たちの過去と未来への提言
私が子どもの頃、確かに一斉授業はありましたが、この地域では名古屋大学の先生が指導した「バズ学習」という、生徒の主体性を重視する教育研究が行われていました。みんなが活発に話し合い、教え合うその様子は、まるでミツバチがブンブン飛び交うようだったと言います。今思えば、それは現代の探究学習にも通じるものがありました。
その後、詰め込み教育に移行してしまったのは残念ですが、当時は家庭や地域、商店街、農村といった「まち全体」が学びの場でした。大人が働く姿を見たり、山や川で体験したり、家畜を育てたりといった経験を通じて、子どもたちは自ら調べて学び、考える機会を得ていたように思います。まさに、町中が寺子屋だったのかもしれません。
町中を「寺子屋」に
これからの教育では、縦割り学習や探究学習が大いに進むことを期待します。しかし、何よりも重要なのは、私たち大人の意識改革です。大人自身が、もう一度「町中が寺子屋」になる意識を持つべきです。
町全体が、自ら調べ、学び、考え、行動する「寺子屋」になってほしい。そうでなければ、日本の没落を招くだけでなく、若者たちが未来を危惧する地球温暖化や生物多様性の危機、気候変動といった地球規模の課題に対し、私たちが自ら考え行動できなければ、地球そのものが滅んでしまうかもしれません。
だからこそ、町中を寺子屋にしましょう!