名もなき民の「矜持」に学ぶ、人生後半の歩き方
2026年4月30日、中日新聞の文化面に掲載された歴史小説家・飯嶋和一さんのインタビュー記事が、私の心に深く刺さりました。
飯嶋さんの新刊『虚空蔵の峯』(小学館)は、江戸時代に岐阜県で起きた「郡上一揆」を題材とした長編小説です。
記事の中で飯嶋さんは、農民たちが命を懸けて権力に立ち向かった根底には、霊峰白山への深い信仰があったと語られています。
「自分が汚いことをすれば、山に眠る先祖の霊魂が悲しむ。先祖の名誉にならない」――。
そうした、現代では薄れつつある「先祖への恥」や「魂の清廉さ」という倫理観こそが、彼らを突き動かす原動力だったというのです。
歴史の表舞台に名が残ることはなくても、間違ったことに対して「おかしい」と声を上げ、人間としての尊厳を守り抜く。
その高潔な姿は、超高齢社会を生きる私たちに、一つの大きな問いを投げかけているように感じます。
「最後の二十年」をどう手仕舞うか
現代は長寿化が進み、現役を退いてからも「老後」と呼ばれる時間が二十年、あるいはそれ以上続く時代になりました。
人生を二十年ごとの区切りで考えるなら、誕生から成人までと同じだけの時間が、人生の締めくくりとして用意されていることになります。
思えば、若かりし頃は何事も貪欲に吸収し、成長することに無我夢中でした。
その後、社会人として自分の持ち場を守り、家族を支え、役割を果たしていく時期が続きます。
私たちは皆がスーパーマンではありません。
しかし、ごく普通の職業人として、あるいは家庭人として、誠実に日々を積み重ねてきたこと自体が、一つの立派な「生きた証」であるはずです。
そして訪れる人生の終盤戦。
ここからは、これまで得てきたものをどう社会に還元し、この肉体という存在をどう「手仕舞って」いくかが問われる時期ではないでしょうか。
「おかしいことは、おかしい」と言える誇り
郡上一揆に身を投じた名もなき農民たちは、もはや自分の命はないと腹をくくっていたといいます。
武士道における「死ぬことと見つけたり」という覚悟にも通じる、凄まじい精神性です。
今の時代、そこまでの決死の覚悟が必要な場面は少ないかもしれません。
しかし、いつの時代も「搾取する側」と「虐げられる側」の構造は形を変えて存在し続けています。
権力におもねり、保身のために沈黙することは容易です。
しかし、飯島さんが小説を通して問うように「人間が人間であるために」は、譲れない一線があるはずです。
私自身の残された時間もおそらく、過ぎてみれば一瞬のことでしょう。
派手な功績を残す必要はありません。
ただ、郡上の一揆勢が抱いたような誇りを胸に、たとえ損をしたとしても、おかしいことには「おかしい」と言い続けたい。
少なくとも、権力に魂を売った人間だと思われたまま人生の幕を引くことだけはしたくない――。
新聞の小さな記事から始まった思索は、私の中にささやかな、けれど揺るぎない「残り二十年」の指針を刻んでくれました。
名もなき先人たちの生き様に恥じぬよう、真っ直ぐに前を向いて歩いていこうと思います。
