愛知県立大学公開講座:「愛知県の歴史と自然」要約
サブタイトル: 平野と人 講師: 山田 正浩 先生(愛知県立大学文学部日本文化学科教授) 専門分野: 人文地理学・韓国地域研究
はじめに
本講座では、愛知県の「自然環境(地形)」と、そこで暮らす「人々の生活や生産活動」との関わりについて、「平野と人」というテーマに絞って解説します。
1. 丘陵の成り立ちと「東海湖」
平野の前に、愛知県の丘陵部について触れておきます。
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巨大湖「東海湖」の存在: 約650万年〜120万年前、愛知県から三重県にかけて「東海湖」という大きな湖が存在していました。かつての琵琶湖の南端とも繋がっていたと考えられています(伊賀上野付近では当時の象の足跡化石も発見されています)。
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陶磁器産業との関係: 現在の尾張丘陵や知多半島の丘陵部は、この東海湖の湖岸にあたります。湖岸に川から運ばれた土が堆積し、それが後世の瀬戸、多治見、常滑、高浜(三州瓦)などの陶磁器の原料となりました。
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大地の傾動(けいどう)運動: 濃尾平野から尾張丘陵にかけては、シーソーのように東側が隆起(上昇)し、西側が沈降(下降)する運動が何百万年も続いています。
2. 沖積平野と洪積台地
愛知県の平野(川が土を運んでできた堆積平野)は、形成された時代によって主に2つに分けられます。
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沖積平野(ちゅうせきへいや):
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約1万年前から現在(完新世)にかけて形成されつつある低い平野です。濃尾平野がその代表例です。
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洪積台地(こうせきだいち):
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約200万年前〜1万年前(更新世)に形成された、沖積平野より少し高い台地です。名古屋市中心部や、小牧〜春日井、西三河の「安城が原」などが該当します。
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【エピソード】 名古屋城が立派に見えるのは、お城が少し高い「洪積台地」にあり、見上げる形になる名城公園が低い「沖積平野」にあるためです。
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【開拓の歴史】 洪積台地である安城が原は、水を引きにくく開発が遅れましたが、明治時代に「明治用水」などが引かれたことで、現在のような美しい農業地帯に生まれ変わりました。
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3. 濃尾平野の地形と人々の営み
濃尾平野は、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が何度も流れを変えながら土砂を積もらせてできた巨大な平野です。上流から下流に向かって、大きく3つの地形に分かれます。
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扇状地(犬山〜一宮・岩倉周辺)
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特徴: 傾斜があり、地下に水が潜ってしまう(伏流)ため水不足になりやすく、本来は畑作に向いています。
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人との関わり: 江戸時代の人々が努力して「宮田用水」や「木津用水」を引き、水田として利用できるように開拓しました。
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自然堤防と後背湿地(稲沢〜清洲周辺)
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特徴: 洪水によって川の両岸に砂が積もった微高地(自然堤防)と、その間の低い湿地(後背湿地)からなります。
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人との関わり: 水はけの良い砂地である自然堤防は、畑や集落、交通路として利用されました。稲沢周辺ではこの地形を活かし、植木の生産が盛んに行われています。
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三角州(名古屋市中川区、蟹江、弥富周辺など)
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特徴: 一番標高が低く、平坦な泥地で、水田に適しています。
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人との関わり: 自然に陸地化するのを待たず、江戸時代初期から人工的な干拓・埋め立て(新田開発)が盛んに行われ、大規模な水田地帯が形成されました。
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まとめ:水と共生する愛知県
愛知県は豊かで広大な平野に恵まれていますが、その恩恵を受けるために、人々は江戸時代から現代(明治用水、愛知用水、豊川用水など)に至るまで、大規模な用水路を造る計り知れない努力を続けてきました。
渥美半島や知多半島など、もともと水が乏しい地域も、用水路のおかげで全国有数の農業地帯(冬野菜など)として成功しています。現在では、この平野部は農業だけでなく工業や商業の基盤ともなり、世界の一国にも匹敵する経済力を支える重要な舞台となっています。
愛知県立大学公開講座:「愛知県の歴史と自然」詳細版
サブタイトル: 平野と人 講師: 山田 正浩 先生(愛知県立大学文学部日本文化学科教授)
1. 丘陵の成り立ち:「東海湖」の壮大な歴史と大地の動き
愛知県の丘陵部は、はるか昔に存在した巨大な湖と深い関わりがあります。
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東海湖の変遷と「動く琵琶湖」
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約650万年〜500万年前、愛知県から三重県にかけて「東海湖」という湖が誕生し、500万年〜300万年前頃に最も拡大、約130万年〜120万年前に消滅したと考えられています。
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当時の日本地図は今とは異なり、瀬戸内海(大阪湾)から東へ水面が断続的に続いていました。現在の奈良盆地や京都盆地、伊賀盆地あたりは「古い時代の琵琶湖の南端」であり、琵琶湖自体が何百万年もかけて現在の位置(北)へ移動してきたのです。東海湖はそのさらに東に位置していました。
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【エピソード】 伊賀上野に流れ込む服部川の上流では、かつて琵琶湖の南端の湖岸をのしのしと歩いていた「象の足跡の化石」が15個ほど発見されています。
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やきもの街道のルーツ
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東海湖の東〜東南の湖岸にあたるのが、現在の「尾張丘陵」や「知多半島の丘陵部」です。上流から川が運んできた土が長きにわたって堆積し、それが隆起して現在の標高100m〜300mの丘陵となりました。
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かつての湖岸に堆積した土は良質な粘土となり、瀬戸(古くは猿投の古窯群)、多治見、高浜(三州瓦)、常滑へと連なる、日本有数の陶磁器生産地の基盤となりました。
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今も続く「傾動運動」
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この地域は現在も、名鉄本線(新名古屋〜岐阜)を軸としたシーソーのような動きを続けています。この線を境に、東側(尾張丘陵など)は少しずつ上昇し、西側(濃尾平野・木曽川流域)は土砂が堆積しながらも沈降し続けています。
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2. 平野の成り立ち:沖積平野と洪積台地
私たちが生活する「堆積平野」は、できた時代によって2つに分けられ、呼び名に当時の地学の歴史が残っています。
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沖積平野(ちゅうせきへいや):今まさに作られている平野
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地球の歴史の現在である「完新世(約1万年前〜現在)」に形成されつつある平野です。濃尾平野の大半がこれにあたります。
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かつてはこの時代を「沖積世」と呼んでいたため、時代名が「完新世」に変わった今でも、地形名として「沖積平野」という言葉が残っています。
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洪積台地(こうせきだいち):一段高い古き大地
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一つ前の時代である「更新世(約200万年前〜1万年前)」(※昔は洪積世と呼ばれていた)に作られた平野です。
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【エピソード:車窓からの景色】 東京から新幹線で名古屋へ向かう際、静岡を抜け豊橋を過ぎてトンネルを抜けると、西三河平野の広大な風景(安城周辺)が広がります。これが洪積台地です。
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【開拓の苦労】 台地は沖積平野より少し高いため、矢作川から直接水を引くことができず、江戸時代末まで開発が遅れました。明治時代になり、多大な資金と技術を投じて「明治用水」を、さらに難工事の末に高い台地へ「枝下(しだれ)用水」を引いたことで、現在の立派な農業地帯となりました。
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3. 濃尾平野:川の暴れと人々の知恵
木曽川、長良川、揖斐川の「木曽三川」が作った濃尾平野。とくに木曽川は圧倒的な土砂運搬量を誇り、平野を東から西へ埋め立てていきました。
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流路の変化と歴史の舞台
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木曽川の流路は何度も変わっています。1586年頃の古い地図を見ると、当時の木曽川本流は現在より北側を流れ、墨俣(すのまた)付近で直接長良川に合流していました。豊臣秀吉の「墨俣一夜城」は、まさにその急所(木曽川が東から流れ込む位置)に築かれたのです。
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平野の3つの地形と土地利用
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扇状地(犬山〜一宮・岩倉)
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山から平地に出る場所で、石ころ(礫)が堆積して傾斜があります。水が地下に潜る「伏流」が起きるため水田には不向き(昔は深く掘るボーリング技術もなかったため水不足になりやすい)で、本来は畑や原野になります。
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しかし江戸時代の人々は、旧河道を利用して「宮田用水」「木津用水」を引き、水田として利用する驚異的な努力を行いました。
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自然堤防と後背湿地(稲沢周辺など)
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洪水で川の両岸に砂が積もった「自然堤防」と、その間の低い「後背湿地」です。水はけの良い砂地の自然堤防は畑に適しており、稲沢周辺では植木の生産というユニークな土地利用に繋がりました。(※新幹線で稲沢市付近を通過する際、両側に植木畑が広がるのが見えます)
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三角州(名古屋市中川区・蟹江・弥富周辺、矢作川河口部)
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最も低く平坦な泥地で、水田に適しています。自然に陸地化するのを待てない人々は、人工的に堤防を築き、盛り土をして開拓を進めました。
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このエリアに「〇〇新田」という地名が多いのはそのためです。(※東京・武蔵野台地にも新田地帯がありますが、あちらは「暴れん坊将軍」の頃に開拓された「畑」であり、濃尾平野は「水田」という違いがあります)。
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矢作川の河口部(吉良町と一色町の境界)も、江戸時代初期に洪水防止・排水向上のために台地を開削して人工的に作られた水路であり、大規模な新田が広がっています。
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まとめ:愛知県の際立つ豊かさと人々の努力
愛知県は濃尾平野をはじめとする豊かな自然環境を持っていますが、ただ恵まれていただけではありません。
江戸時代の木曽川の扇状地における用水路開発から、明治以降の明治用水、そして現代の愛知用水、豊川用水に至るまで、「丘陵、台地、半島の部分に大規模な人工の川(用水路)を造り上げたこと」が愛知県の最大の特徴です。川のない渥美半島が、スプリンクラーで水をまきながら全国有数の冬野菜の産地となっているのは、その努力の結晶です。
(※講義当時のデータですが)愛知県単独の県民総生産は、韓国やメキシコ、オランダ一国に匹敵するほどの規模を誇っていました。先人たちの知恵と努力で拓かれたこの平野部は、現在では農業のみならず、工業や商業を支える極めて重要な舞台として発展し続けています。