地方自治の再生と「町の品格」を取り戻すための緊急提言
—— 弥富市政の構造的改革と持続可能な市民社会に向けて ——
【はじめに:本提言の趣旨】
現在、弥富市は愛知県内の市において「将来負担比率」が実質的にワースト1位へと急浮上しており、深刻な財政危機に直面しています。この危機は、人口減少社会に適応できていない旧態依然としたインフラ投資や、補助金目当ての事業推進、そして合併後の施設見直しの遅れといった「地方自治の構造的欠陥」が先鋭化した結果です。 次世代に莫大な「負の遺産」を残す事態を回避し、市民一人ひとりの尊厳が守られる真の「町の品格」を取り戻すため、以下の4本柱からなる市政の抜本的改革を提言します。
提言1:過剰なインフラ投資の凍結と厳格なアセットマネジメントの断行
「金食い虫」となっている土木建築偏重の事業を直ちに見直し、時代に即した効率的なインフラ管理へと転換すること。
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下水道事業の抜本的見直し: 人口減少下で非効率な「集合処理型の公共下水道」の無尽蔵な拡張を止め、初期投資・維持管理費が少ない「合併処理浄化槽」への転換を本格的に推進する。
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駅周辺整備事業における費用負担の是正: 約50億円を投じる「JR・名鉄弥富駅自由通路等整備事業」において、市が約99%を負担する異常な構造を是正する。本来の筋である「鉄道施設」として鉄道事業者が主体となって整備し、市は一部を補助する方式へと計画を転換する。
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公共施設の適正規模化(ダウンサイジング): 新庁舎など新たなハコモノ建設に巨額を投じる姿勢を改め、2006年の合併以降放置されている旧町・旧村エリアの重複施設(体育館、福祉施設など)の統廃合を速やかに実行する。
提言2:補助金依存からの脱却と「行政の品格」の再定義
「国が補助金を出すから」「借金ができるから」という理由で不要な事業に飛びつく中央依存の姿勢(鄙の論理への逆行)を改めること。
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恣意的な事業評価の排除: 国の補助金を得るためだけに、主観的なアンケートを用いて費用対効果(B/C)を過大に算出するようなプロセスを根絶し、客観的かつ厳格な政策評価を導入する。
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損得勘定から「公平公正」への転換: 新自由主義的な「儲かるか否か」の基準を捨て、保育・福祉・教育・消防など「採算が合わなくても必要不可欠な基礎的サービス」に資源を重点配分し、実質的な所得の再分配機能を行政の主軸に据える。
提言3:「ハコモノ」から「ケアの社会化」・インクルーシブ政策への予算シフト
多様化する家族形態や個人のライフスタイルに対応するため、人への投資(ソフト面)に財源を集中させること。
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子育てと教育の社会化: 一人親家庭の増加や若者の経済的困窮、子どもの孤立化を防ぐため、育児や教育を私的な責任に帰するのではなく、地域社会全体で支える仕組みを構築する。
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終末期の尊厳保障: 後期高齢者が急増するなか、経済的な多寡によって人間の尊厳が損なわれないよう、終末期医療や介護のサポート体制を強化する。
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包摂的(インクルーシブ)な制度の実装: 2025年9月より開始される「パートナーシップ・ファミリーシップ宣誓制度」の自治体間連携をはじめ、性的少数者や外国人住民など、すべての市民の人格を尊重し、社会の分断を防ぐ制度設計を市政の全領域に広げる。
提言4:市民と行政の「当事者性(オーナーシップ)」に基づく新たな協働
「お上(行政)がすべて解決してくれる」という昭和のパラダイムを捨て、自律的な地域社会を構築すること。
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「黒衣(くろご)」としての行政への転換: 行政がすべての事業を抱え込み、民間をコントロールするのではなく、地域で活動するNPOや民間事業者の足を引っ張らずに後方支援する「対等なパートナーシップ」を築く。
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無責任体制の打破と当事者性の確立: 首長や役人が任期中の体裁だけを取り繕う姿勢を猛省し、結果責任を負う仕組みを作る。同時に、市民側も傍観者であることをやめ、全員が「当事者」として町の未来に対する責任を共有し、信頼関係を再構築する。
【結びにかえて】
地方自治の再生は、規模の大小や外見の派手さを競うことではありません。限られた財源の中で「当たり前のことを当たり前にする」という普遍的な所作を貫き、一人ひとりの命と生活を大切にすることです。弥富市が将来負担比率ワーストという汚名を返上し、次世代に誇れる「町の品格」を取り戻すための、痛みを伴うが不可欠な決断を今ここに行うことを強く求めます。
地方自治の変容と財政的危機:弥富市政が直面する構造的課題と「町の品格」の再考
序論:財政的危機が露呈させる地方行政の哲学の不在
現在の日本の地方自治体は、急速な人口減少、少子高齢化、そして高度経済成長期から平成初期にかけて整備された公共施設の老朽化という複合的な危機に直面している。
愛知県弥富市(人口約4万2000人)の市政運営は、こうした全国的な課題を極めて先鋭的な形で体現しており、現在の地方自治が抱える構造的欠陥の縮図となっている。
同市における最大の問題は、過剰な債務(借金)の膨張である。専門的な財政指標である「将来負担比率」において、弥富市は愛知県下の市の中で実質的にワースト1位へと急浮上している。
将来負担比率とは、地方自治体が将来支払っていく必要のある負債(地方債の残高や債務負担行為など)が、標準財政規模に対してどの程度の割合を占めているかを示す指標である。
常滑市、南知多町、美浜町などが将来負担の圧縮や基金の活用により比率を大きく引き下げている一方で、弥富市の比率が悪化している事実は、同市の財政規律に重大な赤信号が点滅していることを意味する。
前服部市長の時代から継続して借金が増大しているが、問題の核心は債務の「総額」にとどまらず、その「中身(投資対効果と資金使途の適切性)」にある。
本稿では、弥富市が抱える具体的な財政課題(下水道事業、駅周辺整備事業、合併後遺症としての公共施設の冗長性)を検証するとともに、戦後日本の地方自治制度の変遷を振り返る。
さらに、1990年代に提唱された「鄙(ひな)の論理」や、現代における「ケアの社会化」「インクルーシブな社会」の観点から、地方行政が本来備えるべき「町の品格」と市民の「当事者性」について多角的に考察する。
1. 地方自治の歴史的変遷と「お金」への従属
現在の地方自治体が抱える財政問題と哲学の欠如を理解するためには、戦後日本の地方自治制度の歴史的な変遷を紐解く必要がある。
1947年(昭和22年)、戦後の新憲法のもとで地方自治法が制定され、地方自治の基本骨格が形成された。
しかし、その後の歩みは常に「財源問題」と「国の政策への従属」との闘いであった。
1970年代(昭和52年頃の地方自治法改正前後)に至ると、地方自治体の役割は、基礎的な住民サービス(戸籍、消防、教育など)の提供にとどまらず、国策と連動した都市開発や経済活性化事業へと大きく拡大した。
国は補助金を餌にして市町村に大規模な公共事業を奨励し、地方自治体はそれに追随することで「成長の果実」を得ようとした。
1980年代から1990年代にかけては、地方公共団体と民間が共同出資する「第三セクター」方式がブームとなり、リゾート開発や地域開発が乱発されたが、バブル崩壊とともにそのほとんどが破綻し、地方財政に莫大な負債を残した。
この反省から、1990年代後半から2000年代にかけて「地方のことは地方で」という地方分権一括法などの改革が議論され、平成の大合併(市町村合併)が推進された。
この時期、各種の審議会や研究会では「量より質への転換」「お金(財源)だけの問題ではなく、地方自治の品質や哲学の問題である」という議論がなされていた。
しかし現実には、合併特例債などの財政的優遇措置を目当てとした「お金の話」に終始してしまった。
2020年代を迎えた現在、地方自治はますます厳しさを増す財政制約のなかで、再び「哲学」や「町の品格」といった根源的な問いを突きつけられている。
2. 財政規律の弛緩と大規模インフラ事業の不条理
弥富市の財政問題を深掘りすると、旧態依然とした土木建築偏重の補助金行政と、一度決めた事業を止めることができない経路依存性(サンクコストの錯誤)が明確に浮かび上がる。
2.1 下水道事業という「金食い虫」と技術的選択の誤り
弥富市の下水道事業は、約70億円とも言われる巨額の借金を抱え、市の将来財政を著しく圧迫する最大の要因となっている。
さらに、今後の施設の大規模改修やC更新費(老朽化対策費)が財政計画に十分に反映されておらず、将来的に天文学的な負担を市民に強いる構造となっている。
冷静な技術的・経済的判断を行えば、人口減少と世帯規模の縮小が確実視される現代において、市全域を管渠でつなぐ集合処理型の公共下水道を拡張することは極めて非効率である。
本来であれば、個別の住宅単位で完結し、初期投資と維持管理費が圧倒的に少ない「合併処理浄化槽」への転換を本格的に図るべきであった。
弥富市でも合併処理浄化槽設置費補助金(5人槽で最大363,000円など)の制度は存在しているが、既存の下水道拡張計画を見直すことなく、多額の予算を投じ続けている。これは、将来世代に対する明白な「金食い虫」の創造であり、政策評価の欠如を示している。
2.2 JR・名鉄弥富駅自由通路等整備事業における費用負担の歪み
インフラ投資の歪みは、約50億円が投じられる「JR・名鉄弥富駅自由通路等整備事業」においてさらに顕著である。この事業の最大の論点は、費用負担の割合と整備手法の選択にある。
本来、バリアフリー化や駅舎の利便性向上は、鉄道事業者(JR東海・名古屋鉄道)が主体となって「鉄道施設」として整備し、自治体がその一部を補助する形(近鉄弥富駅の際の37%補助のような形態)が筋である。
しかし、弥富市は自らが主体となる「市道としての整備(補償方式)」を選択し、事業費のほとんど(約99%)を市が借金(地方債)で賄って鉄道事業者のために作ってあげるという、極めて異常な構造を作り上げてしまった。
さらに問題なのは、この事業が国の補助金を得るための要件である「費用対効果(B/C)が1以上」という数値を満たすプロセスである。
仮想的評価法(CVM)などのアンケートを用い、「市民1人あたり500円を支払ってもよい」といった主観的回答を積み上げて便益を過大に算出し、恣意的に数字が操作されたとの指摘が存在する。
土木建築系の補助金獲得を至上命題とし、借金ができるからという理由だけで無謀な事業が「爆走」する背景には、川瀬町長(旧弥富町)時代から続く、昭和・平成の事業や補助金行政がダラダラと継続されている「使い方の下手さ」がある。
3. アセットマネジメントの不在と合併後遺症
弥富市の非効率性は新規事業にとどまらず、既存の公共施設の維持管理(ハコモノ行政)にも色濃く表れている。
2006年に旧弥富町と旧十四山村が合併して誕生した同市は、合併後約20年が経過した現在においても、施設統廃合(アセットマネジメント)への着手が完全に遅れている。
3.1 人口規模に不釣り合いな施設の冗長性
人口約4万2000人の規模に対して、同市には不釣り合いな数の公共施設が並立している。
市町村合併の最大の目的は、スケールメリットを活かした行財政の効率化と施設の最適配置にあるが、弥富市では旧町村時代の施設がそのまま温存されている。
| 施設カテゴリ | 旧弥富町エリアの主要施設 | 旧十四山村エリアの主要施設 | 施設の現状と課題 |
|---|---|---|---|
| 体育館・スポーツ施設 | 総合社会教育センター(総合体育館) | 十四山体育館 / TKEスポーツセンター |
アリーナや会議室が重複。それぞれ独自の使用料体系を持ち、維持費が二重に発生。 |
| 福祉センター | 総合福祉センター | 十四山総合福祉センター |
同一機能を持つ福祉拠点が近接して存在。休館日(日・月・祝)の運用等で非効率が生じている。 |
| 屋外グラウンド | 鍋田川グラウンド / 亀の子グラウンド | 子宝グラウンド |
各エリアに分散配置されており、利用率の偏りや管理コストの増大を招いている。 |
それぞれの地区に適正規模の施設があることは一見すると住民サービスの手厚さに見えるが、実際には「大きすぎる、多すぎる」状態が放置されている。
こうした状態にメスを入れず、他の県下市町村の動向を横目で見ながら「ぼちぼち検討する」といった態度に終始しているため、行政運営にメリハリと魅力が失われている。
3.2 巨額の庁舎建設と「品格」の欠如
このような既存施設のリストラが進まないなか、50億円とも55億円とも言われる巨額を投じて新たな弥富市役所庁舎が建設された。
全国どこにでもあるような図書館、生涯学習センター、体育館、福祉センター、子育て支援施設、小中学校、保育所といったハコモノを次々と建設・拡張していく姿勢には、明確な都市のビジョンが欠如している。
行政における「品格」とは、外連味(けれんみ)のある派手な施設を建てることではない。
限られた財源を市民全員のために適切に使い、「当たり前のことを当たり前にする」という普遍的かつ骨格的な所作のことである。
民間企業であれ行政であれ、この「当たり前」を継続することがいかに困難であり、かつ重要であるかは論を俟たない。
4. 地方自治の哲学:「鄙の論理」から読み解く行政の使命
前述したお金の使い方、施設整備のあり方を根本から問う概念として、1991年に細川護煕氏(元熊本県知事)と岩国哲人氏(元出雲市長)によって著された『鄙(ひな)の論理』が存在する。
4.1 「鄙の論理」と補助金依存への警鐘
『鄙の論理』は、東京一極集中や中央官庁に対するコンプレックスを払拭し、地方独自の価値観と文化(田園文化圏)をエキサイティングに構築することを提唱した地方自治論の金字塔である。
同書のなかでとりわけ強調されたのが、「補助金は諸悪の根源である」という鋭い指摘であった。
地方行政の面白さは、冒険やチャレンジが可能な点にあるにもかかわらず、国の補助金メニューに飛びつき、借金を重ねて不要な土木事業を行う姿勢は、地方自治の本来の姿である「自律」と「自主」から大きく逸脱している。
弥富市が国の補助金を引き出すためにB/C(費用対効果)の数値を操作し、結果として市に莫大な借金を残す構造は、まさに『鄙の論理』が30年以上前に警告した「中央依存の病理」そのものである。
何でもお金で測り、損得勘定ばかりが先行する時代だからこそ、物事の判断基準を「お金の損得」ではなく「人が人としてどう生きるか」「地域社会の信頼関係をどう築くか」に置かなければならない。
4.2 損得勘定を超えた「行政の品格」とは何か
現代の地方行政は、すべてを金銭的な「損か得か」で測る新自由主義的な評価軸に毒されている。
しかし、市町村が担うべき基礎的な業務—戸籍管理、保育所、学校教育、消防、警察、福祉など—は、本来「儲からない仕事」である。儲からない、採算が合わないからこそ、行政(公法人)が担う社会的意義がある。
行政に求められる「品格」の基盤は、「公平公正」を通じた平等社会の実現にある。
ここでの公平公正とは、市民全員に均等に予算をばらまく形式的な平等ではない。
行政の目的や市民の状況(所得の多寡など)に応じて、必要なところに重点的に資源を配分する「所得の再分配」機能こそが本質である。
恣意性を排除し、公正なプロセスを経て生じる「差」が、結果として社会全体の実質的な平等を担保する。
この基礎的な哲学が揺らいでいることこそが、弥富市が直面する危機の深層である。
5. ケアの社会化とインクルーシブ行政の構築
1990年代の地方分権改革の議論と時を同じくして、日本社会で大きなテーマとなったのが「介護の社会化」である。
家族(特に女性)の無償労働に依存していた高齢者介護を、介護保険制度という社会全体で支える仕組みへと移行させた歴史的転換であった。
そして2020年代から2030年代に向けて最も深刻な課題となるのが、「子育てと教育の社会化」である。
5.1 「子育て・教育の社会化」の最前線
子どもの社会化とは、個人が所属する集団の規範や価値観を身につける過程であるが、現代社会においては子どもが他者との関わりを断たれる「非社会化」の傾向が強まっている。
これを防ぐためには、育児や教育を私的・個別的なものから、地域全体で共同・集団的に担う「社会化」のプロセスが不可欠である。
現在の若者たちは非正規雇用による経済的困窮に苦しみ、離婚率の増加により、かつては少数派であったシングルマザー(一人親家庭)が多数派を形成しつつある。
このような社会構造の変化に対し、地方自治体が果たすべき役割は極めて大きい。
例えば、長野県南箕輪村では、保育園から大学院まで教育機関が充実しており、子育て世代へのサポートを手厚くすることで、「子育てするなら南箕輪村」というブランドを確立し、人口増加と高い住民満足度を達成している。
国も「こども未来戦略」に基づき、地方自治体が地域の実情に応じて独自に行う子育て政策(ソフト事業)に対して地方交付税措置を拡充(一般行政経費単独分を1,000億円増額など)し、児童福祉司や児童心理司の増員を図るなど、教育・子育ての社会化を強力に後押ししている。
地方自治体はこれまでも、15歳未満や18歳未満の医療費無料化など、子育て政策において国に先行する役割を果たしてきた。
保育所や学校、子育て支援は結局のところ現場(地方自治体)の仕事であり、ハード(ハコモノ建設)への投資から、こうしたソフト(人材投資・ケア)への予算の転換が強く求められている。
5.2 終末期の尊厳とインクルーシブな社会制度
一方で、団塊の世代が後期高齢者となり、「就活(終活)」すなわち終末期医療や介護が極限の負担を迎えるなか、高齢者が「どのような生きざまを残し、死を迎えるか」という尊厳の保障もまた、地方自治体の最重要課題である。
お金を持って死ねるわけではない以上、人生の最後に何を残すかが問われる。お金の有無によって人間の品格や人格が損なわれることがあってはならない。
さらに現代社会は、LGBTQなど多様な性のあり方や、外国人労働者の増加など、社会の構成員が急速に多様化している。
個別バラバラに縦割りで事業を行う非効率を排し、役所そのものが「インクルーシブ(包摂的)」な設計に生まれ変わらなければならない。
これに対応するため、弥富市は2025年(令和7年)9月より、愛知県内の38の連携自治体(名古屋市、豊橋市、一宮市、武豊町など)とともに「パートナーシップ・ファミリーシップ宣誓制度」の自治体間連携を開始する。
これは、婚姻制度とは異なり法律上の効力はないものの、性的少数者や事実婚のカップル、そしてその子どもを含めて「家族(ファミリーシップ)」として市が証明する制度であり、転入・転出時の手続き負担を大幅に軽減するものである。
このようなインクルーシブな制度的承認の実装こそが、1人ひとりの人格を尊重し、社会の分断を防ぐ「行政の品格」の具体的な実践例と言える。
6. 人口減少社会における「当事者性」の回復と協働
社会が成熟し、かつ財政的余力が失われるなかで、戦後の中央集権的な「お上(行政)がすべてを解決してくれる」というモデルは完全に限界を迎えている。
6.1 行政の役割の再定義:黒衣(くろご)としての支援
1990年代後半に特定非営利活動促進法(NPO法)が成立し、市民活動の基盤が整備された。
現代の基礎的自治体に求められているのは、すべての事業を抱え込むことではない。地場産業の担い手や、新しい祭りや賑わいを創出しようとするまちづくりのプレイヤーなど、地域で頑張っている人々(民間セクターやNPO)の「足を引っ張らず、みんなで応援する」ことである。
行政のテリトリーからはみ出すような「アクロバティックな」市民の挑戦に対し、行政は直接介入してコントロールするのではなく、最低限の情報公開を行い、対等なパートナーシップを築く黒衣に徹するべきである。
これが、これからの時代における協働(ガバナンス)の基本姿勢である。
6.2 「個人の尊重」と当事者性(結びにかえて)
最後に、国政レベル(例えば自民党の改憲案など)に見られる「家族を大切にし、家族の助け合いを義務化すれば少子高齢化は解決する」という復古的な国家観は、地方自治の現場が直面している現実とは逆行している。
子どもの数が減少し、伝統的な家族という枠組みが脆弱化しているからこそ、「今の子供たちが少ないからといって何が悪いのか、1人ひとりを大切に生きていけばよい」という個人の尊重のパラダイムへ転換しなければならない。
これからの2030年代を見据えたとき、どんなに深刻な少子高齢化社会になろうとも、大政翼賛会的な全体主義に陥ることなく、弥富市を含めた地方自治体に最も必要とされるのは、住民と行政の双方が持つ「当事者性(オーナーシップ)」の確立である。
「誰かが何とかしてくれるだろう」と傍観し、当事者性を持つ者が損をするような社会構造であってはならない。
一部の政治家や役人が自己の任期中だけの体裁を取り繕い、結果責任を負わない「無責任」な姿勢が、結果として現在の下水道債務や過大な駅舎建設費、重複する公共施設といった「負の遺産」を生み出した。全員が当事者性を持ち、損得勘定のギラギラした利害対立を越えて、人と人との信頼関係を再構築すること。
巨額のハコモノや土木インフラの規模を競うのではなく、1人ひとりの命と生活を大切にし、「公平と公正」を貫くこと。それこそが、将来負担比率ワーストという汚名を返上し、次世代に引き継ぐべき真の「町の品格」である。地方自治の再生は、この哲学的な覚悟を取り戻すことから始まるのである。