【政策提言書】 借金ワーストから考える弥富市に必要な「まちの品格」とこれからの地方自治 〜財政的危機と行政哲学の総合的検証からのパラダイム転換〜
提言の背景:弥富市が直面する構造的危機
平成の大合併から約20年が経過し、全国の地方自治体がインフラの老朽化や人口減少への対応に迫られる中、愛知県弥富市(人口約4万2000人)の市政運営には、地方行政が陥りやすい構造的な欠陥と意思決定の機能不全が極めて顕著に表出しています。
最大の課題は、将来世代へのツケを示す「将来負担比率」が悪化し、県下の市の中で実質的なワースト1位へ転落するという危機的状況にあります。市の借金(市債)現在高の総額は、単年度の一般会計予算現額をはるかに上回る約231億8,604万円に達しており、この財政逼迫の背景には以下の深刻な要因が存在します。
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特別会計に潜む巨額の負債: 利用者の少ない地域へも無秩序に拡張された下水道事業などに、総額70億円超の市債が投入され、将来にわたる莫大な維持更新コスト(負の遺産)を生み出しています。
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利用実態と乖離した過剰なハコモノ投資: 市民の7割以上が「近鉄弥富駅」を利用している客観的データがあるにもかかわらず、利用者の少ない「JR・名鉄弥富駅」の自由通路整備等に約50億円を投じるなど、投資の経済合理性が著しく欠如しています。
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公共施設の機能重複と放置: 人口規模に不適正な数の体育館や福祉センターが、旧自治体単位のまま抜本的な統廃合を経ずに維持され、ランニングコストを雪だるま式に増大させています。
根本的課題:行政における「品格」と「哲学」の不在
これらの危機は、単なる財政技術の拙劣さや一時的な税収減によるものではなく、過去から連綿と続く借金依存の体質と、「お金の使い方」に関する行政哲学の欠如に起因しています。
50億円を投じた巨大な市役所庁舎や駅の自由通路といった外形的な「ハコモノ」は、決して市の品格を保証しません。行政の真の品格とは、限られた財源を社会のすべての人のために公平・公正に使い、支援を必要とする層へ適正に資源を再分配するプロセスにこそ宿ります。目先の損得勘定や経済効果を至上命題とする「みやこの論理」から脱却し、生活の質の向上や人間らしいコミュニティの絆を重んじる「鄙(ひな)の論理」へと、行政の価値基準を回帰させる必要があります。
弥富市の再生に向けた3つの提言(パラダイム転換)
この危機的状況から脱却し、次世代へ持続可能な地域社会を引き継ぐため、弥富市に対して以下の抜本的なパラダイム転換を強く提言します。
提言1:ハコモノの拡張から「ダウンサイジングと負債の総量規制」への転換
投資の評価基準を「見栄えの良いハコモノの拡張」から即座に転換し、客観的データに基づき費用対効果の薄いインフラ事業を勇気を持って凍結・縮小すること。一般会計のみならず、下水道事業などの特別会計・企業会計を含めた全会計における「負債の総量規制」を断行し、既存公共施設の抜本的な機能統合とダウンサイジング(ファシリティマネジメント)を進めるべきです。
提言2:「ケアの社会化」を中心としたヒューマン・インフラへの集中投資
維持費ばかりがかさむ老朽化したハコモノに数十億円を投じる財源を、子育て、教育、介護、多様な個人を支える人的支援などの「ソフト事業」へと大胆にシフトさせること。個人としての尊厳を重んじる日本国憲法の価値に基づき、特定の家族形態に依存する旧態依然とした規範を脱し、誰もが社会から等しくケアを受けられるインクルーシブ(包摂的)な社会基盤への投資を最優先すべきです。
提言3:市民の当事者性を引き出す「新公共ガバナンス(NPG)」の実践
行政は、情報を隠蔽する一方的なパターナリズム(父権主義)から脱却し、不都合な財政指標であっても徹底した情報公開と説明責任(アカウンタビリティ)を果たすこと。同時に、市民は行政への依存や要求を繰り返す「消費者」としての意識を捨て、地域課題の「当事者」として立ち上がらなければなりません。企画段階から市民・NPOが参画し共に価値を創り上げる「協働(コプロダクション)」を通じて、対等なパートナーシップに基づく新しい地方自治の形を構築すべきです。
結語
「当たり前のことを、当たり前にする」という行政の普遍的な所作を回復し、限られた予算を真に必要な場所へ再分配し、全員が当事者性を持って地域を築き上げること。それこそが、現在最大の構造的危機にある弥富市に求められる「本当の品格」であり、これからの時代を生き抜くための確固たる道標です。
借金ワーストから考える弥富市に必要な「まちの品格」とこれからの地方自治:財政的危機と行政哲学の総合的検証
序論:地方自治体の構造的危機と弥富市が直面する現実
1990年代から2000年代にかけて推進された地方分権改革、とりわけ「平成の大合併」から約20年が経過し、日本の地方自治体はかつてない歴史的な転換点に立たされている。
人口減少、少子高齢化の急激な進行に加え、高度経済成長期から昭和後期にかけて全国一律の規格で整備された公共インフラが一斉に老朽化し、その更新費用が地方財政を根底から揺るがす事態となっている。
こうした全国的なマクロトレンドのなかにあって、愛知県弥富市(人口約4万2000人)における現在の市政運営には、地方行政が陥りやすい構造的な欠陥と意思決定の機能不全が極めて顕著に表出している。
弥富市における最大の課題は、極めて硬直化した財政状況と、それに付随する予算配分の歪み、さらには地方自治の根幹を成すべき「行政の品格」あるいは「哲学」の深刻な欠如である。
専門的な財政指標である「将来負担比率」の悪化に示されるように、弥富市は前年度から負債額が急増し、愛知県下の市の中で実質的なワースト1位に転落するという危機的状況に陥っている 。
この事態は、単なる一時的な税収減や不可抗力によるものではない。過去の市長時代から連綿と続く借金依存の体質、大規模なハコモノ(公共施設)建設への固執、そして費用対効果の乏しいインフラ投資に対する無批判な追認という、「お金の使い方」そのものの根本的な誤謬に起因している。
本報告書は、弥富市の財政構造、公共施設およびインフラ投資の実態を客観的データに基づき検証する。同時に、現代の公共政策において要請される分配の正義、ケアの社会化、そして市民の「当事者性」を基盤とした新公共ガバナンス(NPG)の観点から、これからの同市に必要な「まちの品格」と地方行政の新たなパラダイムについて包括的かつ理論的な分析を行う。
1. 財政指標にみる危機の深層:「将来負担比率」ワーストへの転落と隠蔽された負債
地方自治体の財政的健全性を測る上で、単年度の収支(黒字・赤字)だけでなく、将来世代にどれだけの負担を先送りしているかを示す「将来負担比率」は極めて重要なマクロ指標である。
将来負担比率は、地方公共団体の一般会計等が将来負担すべき実質的な負債の総額(将来負担額)から、充当可能な基金や特定財源、基準財政需要額に算入される見込額を控除し、それを標準財政規模で除することによって算出される。
弥富市はこの将来負担比率において、負債の急増を背景に愛知県内の市でワースト1位へと急浮上しており、同市の財政には明確な「赤信号」が点灯している 。
県内の他自治体と比較すると、その異常性はさらに際立つ。
例えば、常滑市(マイナス21.0ポイント)、南知多町(マイナス15.4ポイント)、美浜町(マイナス9.0ポイント)といった自治体は、徹底した将来負担の圧縮や基金の効果的な活用によって比率を大きく引き下げることに成功している 。
とりわけ常滑市は、かつてのワースト1位から順位を下げるなど財政再建への努力が数値に表れているが、弥富市はその逆行路線を突き進んでおり、実質的な「借金大国」へと転落しつつある 。
1.1 一般会計と特別会計(企業会計)における負債の膨張構造
行政の予算や決算に対する市民の監視の目は、どうしても規模が大きくわかりやすい「一般会計」に向きがちである。
令和5年度(2023年度)における弥富市の市債(市の借金)現在高の実態を見ると、一般会計のみならず特別会計を含む総体としての負債の深刻さが浮き彫りとなる 。
| 項目(令和5年度水準) | 金額(万円) | 備考 |
|---|---|---|
| 一般会計予算現額 | 1,827,483.3 |
同市の標準的な一般会計予算規模 |
| 一般会計にかかる借金残高 | 約 1,460,000.0 |
市民やメディアが着目しやすい一般負債 |
| 市債(借金)現在高 総額 | 2,318,604.2 |
一般会計予算を遥かに超過する市全体の総負債 |
このように、市の借金現在高の総額は231億8,604.2万円に達しており、単年度の一般会計予算現額(約182億円)をはるかに上回る水準で膨張している 。
ここで見落としてはならないのが、地方自治体の会計制度において独立して経理される下水道事業などの公営企業的事業(特別会計・企業会計)に潜む巨額の負債である 。
弥富市の下水道事業には、総額70億4,563.8万円規模の莫大な市債(借金)が投入されている 。
下水道事業は本来、利用者が継続的に支払う使用料収入によって施設整備費や維持管理費を回収し、独立採算を目指すべき性質の事業である 。
しかしながら、人口密度が低く、各家庭での合併浄化槽の設置で十分に機能と公衆衛生を担保できる地域にまで無秩序に下水道網を拡張してきた結果、初期の建設投資のみならず、将来にわたる施設の老朽化対応や更新費用(ライフサイクルコスト)を莫大なものにしてしまった。
冷静な費用対効果の検証を欠いたまま推進されたこのインフラ整備は、今や市の財政を根底から圧迫する「金食い虫」へと変貌している。
にもかかわらず、行政は未だに拡張路線を停止しようとする抜本的な見直しを行っていない。
こうした特別会計に蓄積された「負の遺産」こそが、将来負担比率を悪化させている真の要因である。
2. 過剰なインフラ投資と意思決定プロセスの歪み:ハコモノ行政の限界
弥富市の財政逼迫を加速させているもう一つの要因は、巨額の資本投下を伴うインフラ整備や公共施設(ハコモノ)建設における経済合理性の欠如と、その不透明なプロセスである 。限られた財源を市民生活の向上に向けて最適配分するという地方行政の基本原則が機能不全に陥っている事例が複数確認できる。
2.1 JR・名鉄弥富駅の自由通路整備と利用実態との乖離
現在、弥富市が最重点事業の一つとして推進しているJR・名鉄弥富駅の自由通路整備および橋上駅舎化工事は、約50億円という巨額の事業費が投じられる見込みである 。
本来、鉄道駅舎の整備や関連インフラの構築は、事業主体であり利益を享受する鉄道事業者が相応の費用負担を行うべき性質のものである。
しかし、この事業においては弥富市が費用の圧倒的大部分(一説には99%とも指摘される)を負担する極めて異例かつ不均衡な構造となっている。
過去に実施された近鉄弥富駅周辺の整備においては、市の費用負担割合を37%に留めた合理的な交渉実績があるにもかかわらず、今回なぜこのような市側の過剰な負担が容認されてしまうのか。
その答えは、当面の財源を「将来への借金(市債の増発)」によって先送りで調達できているという、財政的な錯覚に依存しているためである。
さらに深刻な問題は、この50億円規模の巨額投資が、市民の実際の交通ニーズや生活動線と著しく乖離している事実である。
弥富市が実施した「弥富市内の駅の利用状況」に関するアンケート調査(n=503、複数回答)のデータを分析すると、市内における鉄道利用の実態が明確に表れている 。
この調査結果が示す通り、市民の圧倒的多数(73.6%)は「近鉄弥富駅」を利用しており、多額の公金が投じられようとしている「JR弥富駅」の利用者は24.5%、「名鉄弥富駅」に至っては10.9%に過ぎない 。
また、同調査で各駅の利用理由を詳細に分析すると、JR・名鉄弥富駅を利用する層の理由は「最寄り駅だから」や「目的地までの移動が便利だから」が上位を占める一方で、「周辺駐車場が多く自家用車での送迎が便利だから」という回答は他駅の利用理由と比較して著しく低い割合に留まっている 。
すなわち、JR・名鉄弥富駅は現状において送迎やアクセスインフラに課題を抱えており、そもそも利用者の絶対的な母数が少ない駅である。
そのような拠点に対して、約50億円もの公費を投じて大規模な駅舎・自由通路整備を行うことは、投資の最適化という観点から経済合理性を著しく欠いている。
総事業費数十億円に上る事業が、特命随意契約に近い不透明なプロセスで鉄道会社等に発注されることに対して、行政内部からの批判的検証が機能していない事態は、市のガバナンスの崩壊を示唆している 。
2.2 新庁舎建設と機能重複の放置
インフラ投資の歪みは駅舎整備に留まらない。弥富市役所の新庁舎建設には約55億円という莫大な費用が見込まれているほか 、消防組合の新庁舎建設においても約23億円が投じられ、これが実質的に弥富市の財政負担としてのしかかる構図となっている 。
司法の確定判決が出ているにもかかわらず、市有地周辺の違法状態(マンション開発関連のインフラ整備等)に対する法的措置(行政代執行等)を長らく怠る一方で 、見栄えの良い巨大なハコモノ建設には惜しみなく借金を注ぎ込む姿勢は、行政の優先順位の完全な喪失を意味している。
3. 施設規模の不適正化と予算配分の機能不全
人口4万2000人規模の自治体において、持続可能な行政運営を行うためには、適正な公共施設の総量管理(ファシリティマネジメント)と、人口動態に応じた施設のダウンサイジングが不可欠である。
しかし弥富市では、合併(2006年)から約20年が経過した現在においても、旧自治体単位で建設された施設群が抜本的な機能統合や統廃合を経ないまま存続し続けている。
3.1 重複する公共施設の乱立
その典型例が、体育館や福祉センター機能を持つ施設の並立である。
市内には「弥富市総合社会教育センター(アリーナ)」が存在し、付随して「鍋田川グランド」「上野グランド」「木曽川グランド」などのスポーツ施設が各地域に点在している 。
その一方で、これらと機能的に大きく重複する「十四山総合福祉センター」および「十四山体育館」も並行して維持・運営されている 。
人口規模に照らして過剰な数の公共施設を保有し続けることは、毎年の指定管理料や修繕費、将来的な大規模改修費といったランニングコストを雪だるま式に増大させる。
他市町が実施しているような土木・建築系の補助金事業や、昭和・平成の時代から続く惰性的な事業への補助金がダラダラと継続される一方で、未来への投資や本当に支援を必要とするケア領域への予算配分は抑制されている。
本当に必要な事業への「メリハリ」が完全に失われている状態こそが、弥富市のお金の下手な使い方を象徴している。
4. 行政における「品格」と「鄙の論理」への回帰
上述した将来負担の増大、不合理なインフラ投資、そして施設の重複維持といった諸問題の根底にあるのは、単なる財政的・会計的な技術の拙劣さではない。
より深い次元における、地方自治体としての「哲学」や「まちの品格」の欠如である。
4.1 普遍的所作としての「品格」と分配の正義
行政が備えるべき「品格」とは、50億円を投じた巨大で立派な市役所庁舎や、全国どこにでもあるような規格化された図書館、生涯学習センター、体育館などの外形的な「ハコモノ」によって担保されるものではない。
品格とは、「限られた資源(財源)を、地域社会のすべての人のために公平・公正に使う」という、ごく当たり前の行政としての責務を、誠実かつ透明に遂行するプロセスそのものに宿るものである。
民間企業であれ行政組織であれ、普遍的な基本を徹底し続けることがいかに困難であり、また重要であるかは論を俟たない。
一過性の見栄えの良さや、政治的な実績作りのための「外連味(けれんみ)」を追求するのではなく、地道な業務を通じて住民の信頼に応える姿勢が不可欠である。
ここで言う「公平・公正」とは、すべての市民に一律同額のサービスや補助金をばらまく「単純な悪平等」を意味するものではない。
真の公平性とは、社会のなかで支援を最も必要としている層に対して、必要な資源を傾斜的に配分する「所得の再分配機能」を適正に働かせることである。
恣意的な裁量ではなく、客観的かつ公正な基準に基づいて社会的な差を補正することで、結果として社会全体の平等を達成していく。
これこそが地方行政が果たすべき本来の役割であり、結果としてその地域独自の「品格」へと結びついていくのである。
4.2 損得勘定からの脱却と「鄙の論理」の再評価
このような行政の品格を論じる上で、日本の地方自治における極めて重要な思想的背景として避けて通れないのが「鄙(ひな)の論理」である。
「鄙の論理」は、1991年に細川護煕氏(のちの首相)と岩国哲人氏による共著として出版され、その後も地方分権を語る上での重要な哲学的支柱として広く言及されてきた概念である 。
さらに遡れば、松下圭一氏らが提唱した市民自治の理論にも通底する思想である 。
この思想は、東京一極集中や目先の経済的効率性、画一的な開発至上主義を至上命題とする「みやこ(中央・都市)の論理」に対置されるものである。
対して「ひな(地方・周辺)の論理」は、生活の質の向上、自然環境との共生、人間らしいコミュニティの絆、そして何より地方自治の自律性の尊重を高らかに掲げた。
この哲学は、現代社会において深刻化する気候変動や格差問題に対応するための「脱成長(ポスト成長)」の議論や、地域内での経済循環を重んじる「ローカル経済」のパラダイムを構築する上での重要な理論的ベースとなっている。
現在の地方行政は、新自由主義的な影響のもと、あらゆる公共サービスや地域の価値を「損得勘定」や「経済効果」といった単一の貨幣的尺度で測る風潮に毒されている。
しかし、人が地域社会で人間らしく生きることの尊厳や、家族・地域間の相互扶助といった信頼関係は、契約書や金額によって定量化できるものではない。
保育、教育、消防、福祉といった対人サービス(ケア領域)は、本質的に「儲からない」からこそ、行政が市場原理から切り離して責任を持って担うべき領域である。
1990年代から2000年代にかけて進行した地方分権改革や「平成の大合併」の議論は、最終的に「補助金の配分」や「財源の移譲」といった金銭的・外形的な話ばかりが先行してしまった。
本来そこで最も深く議論されるべきであったのは、予算や施設の「量の拡大」ではなく、住民生活の「質の向上」であり、行政と住民がどのように役割を分担して地域の公共を支えていくかという「哲学」の問題であった。
弥富市が現在直面している機能不全は、まさにこの哲学の不在が生み出した必然的な帰結である。
5. ケアの社会化とインクルーシブな地域社会の構築
地方行政の価値基準を、従来の「みやこの論理(経済効率と開発)」から「鄙の論理(生活の質と人間の絆)」へと転換させる上で、不可欠となるのが「ケアの社会化」というパラダイムの導入である。
5.1 「介護の社会化」から「子育て・教育の社会化」へ
「ケアの社会化」という概念は、社会学者である上野千鶴子氏らが1990年代に強く主張し、結果として2000年の介護保険制度の制定へと結実した歴史的な政策転換の核である 。
上野の著書において、ケアとは「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係」と定義されている(メアリ・デイリーの定義の引用) 。
この学術的な定義が画期的であったのは、単に「世話をする」という行為にとどまらず、そこに「ジェンダー」「階級」、そして「社会的規範」という構造的な問題が入り込んでいることを喝破した点にある 。
かつて日本社会では、介護や育児といったケア労働は「家族(とりわけ家庭内の女性)が無償で自己犠牲的に担うべきもの」という強固な規範が存在した。
この私的領域に押し込められていたケアを、社会全体で支える公共的なインフラとして再定義し、制度化したものが「介護の社会化」であった。
現在、全く同じ学術的文脈において、「子育ての社会化」や「教育の社会化」が教育社会学や福祉社会学の領域で盛んに論じられている。
団塊の世代が後期高齢者となり終末期(終活)を迎える中、人生の最終段階において問われるのは、単なる財産の有無ではなく、「いかに人間らしい品格を保って生き切ったか」という個人の尊厳である。
一方で、これからの地域を担う若い世代は、非正規雇用の増大による経済的基盤の脆弱化に苦しみ、ひとり親世帯も普遍的なものとなった。
このような時代環境下において、「子育てや教育は親の自己責任である」という旧態依然とした規範を押し付けることは、地域社会の持続可能性を自ら破壊する行為に等しい
。医療、介護、障害者支援、そして子育てといった複合的なケアの課題に対して、行政の縦割り組織が個別に対症療法を行う旧来の手法はすでに非効率の極みであり、限界に達している。子どもを社会全体のインフラとして育むという視座の転換が急務である。
5.2 憲法的価値に基づくインクルーシブ行政への脱皮
真の意味で包摂的(インクルーシブ)な行政を展開するためには、国政レベルから波及する特定のイデオロギー的な家族観の押し付けから、地方行政が自律性を持って脱却しなければならない。「家族の絆を大切にすれば子どもが増え、少子化が解決する」といった、自民党の改憲草案などに見られる国家主義的かつ伝統的な家族観に基づく政策アプローチは、多様化する現代社会の実態と著しく乖離している。こうしたアプローチは、人口減少対策の道具として家族を扱うものであり、個人の尊厳を蔑ろにするとして憲法学やジェンダー研究の分野から強い批判を浴びている。
日本国憲法第13条は「すべて国民は、個人として尊重される」と明確に規定しており、第24条は家族関係における個人の尊厳と両性の本質的平等を保障している。地方自治体は、この憲法的価値を市民の日常生活において体現するための最前線の機関である。非正規労働者、シングルマザー、性的マイノリティ(LGBTQ)、さらには急増する外国人住民も含め、多様な背景や属性を持つ人々が、特定の家族形態に依存することなく、個人として自立し、かつ必要なケアを社会から等しく受けられる権利を徹底的に保障すること。それこそが、結果的に少子化や人口流出に対する最も有効かつ持続可能な社会基盤の構築へと繋がっていくのである。
6. 新公共ガバナンス(NPG)と市民の「当事者性」の確立
将来負担比率が県内ワーストへと転落し、これ以上の多額の負債や過剰な公共インフラの維持が不可能になりつつある弥富市が、インクルーシブなケア社会を実現するためには、行政のサービス提供手法そのものを根本から変革する必要がある。そのための理論的枠組みが「新公共ガバナンス」である。
6.1 NPM(新公共管理)からNPG(新公共ガバナンス)への移行
1980年代以降、世界の行政学および公共政策の世界では、民間企業の経営手法を公共部門に取り入れ、効率性や市場競争、業務の民間委託を重視する「新公共管理(NPM:New Public Management)」が長らく主流であった 。しかし、コスト削減と効率至上主義を突き詰めた結果、公共サービスの質の低下、社会的弱者の切り捨て、そして行政と市民との間の相互不信と断絶といった弊害が表面化した。 これに代わって現在提唱されている行政パラダイムが「新公共ガバナンス(NPG:New Public Governance)」である 。NPGは、NPMがもたらした効率化の知見を一部継承しつつも、より広範な社会的ネットワークや、多様な主体間の「協働」を重視する形へと発展した概念である 。NPGの枠組みにおいては、行政はもはや独占的なサービスの「提供者」ではなくなり、多様なステークホルダー(市民、NPO、民間企業、地域コミュニティ)を結びつける調整者(コーディネーター)としての役割を担うことになる。
6.2 当事者性とコプロダクション(協働)の不可欠性
このNPGの中核を成す実践的な概念が「協働(コプロダクション:Co-production)」である 。これは、行政が市民に対して一方的・恩恵的にサービスを提供するというパターナリズム(父権主義)を脱却し、公共サービスの企画・設計段階から市民(当事者)が直接参画し、共に価値を創り上げるプロセスを指す。
行政に対する市民の「当事者性」が失われた状態では、市民は単なる公共サービスの「消費者(カスタマー)」に成り下がる。消費者は自らの責任を放棄し、誰かが何とかしてくれるのを待つ過度な依存体質を生み出す。そして、自己の要求が満たされない場合には、行政に対する際限のない不満とクレームを繰り返す悪循環に陥る。このような依存と不満の関係を断ち切るためには、市民一人ひとりが地域の課題に対する「当事者」としての意識を持ち、実践の主体となることが不可欠であると多くの研究者が指摘している 。
このコプロダクションを成立させるための絶対条件が、行政による徹底した「情報公開」とアカウンタビリティ(説明責任)の遂行である 。現状の弥富市のように、総事業費数十億円に上る駅舎整備や市庁舎建設といった巨額の投資的経費が、不透明なプロセスによって決定され 、将来の負債リスク(将来負担比率の悪化など)に関する正確な情報が市民に十分に共有されていない状態では、市民の健全な当事者性は決して育たない。行政は、不都合な財政指標であっても包み隠さず公開し、行政の既存の枠組みからはみ出してしまうような先進的な取り組みを行う個人やNPOの活動を制度的に後押しすることで、対等なパートナーシップを構築しなければならない。
結論:弥富市の再生に向けた「本当の品格」の体現
本稿での包括的な分析を通じて、現在の弥富市が直面している課題の深刻さと、その背後にある構造的な病理が明らかとなった。将来負担比率の県下ワースト1位への急落、一般会計予算を凌駕する231億円超の市債現在高、そして特別会計に潜む下水道事業の莫大なライフサイクルコストは、同市の財政システムが限界点を超えつつあることを客観的に証明している 。さらに、利用者の7割以上が近鉄駅に集中している交通実態を無視し 、一部の利用者しか恩恵を受けないJR・名鉄駅の自由通路整備に約50億円を投じる意思決定や 、人口規模に不釣り合いな公共施設の重複維持 は、経済合理性だけでなく、限られた資源を公正に配分するという行政の「品格」を自ら毀損する致命的なエラーである。
弥富市がこの危機的状況から脱却し、次世代に持続可能な地域社会を引き継ぐための道程は、単なる表面的な予算の切り詰めだけでは達成し得ない。以下の三点に集約される抜本的なパラダイム転換が強く求められる。
第一に、投資の絶対的な評価基準を「外連味のあるハコモノの拡張」から「既存資産の統廃合とダウンサイジング」へ即座に転換することである。客観的なデータに基づき、費用対効果の薄いインフラ事業を勇気を持って凍結・縮小し、一般会計および特別会計を含めた全会計における負債の総量規制を実行しなければならない。
第二に、「鄙の論理」の哲学に基づき、地域の価値を経済効率のみで測る悪習を断ち切り、「ケアの社会化」を中心としたヒューマン・インフラへの投資へと資源を大胆にシフトさせることである。維持費ばかりがかさむ老朽化したハコモノに数十億円を投じる財源があるならば、それを子育てや教育、多様な個人を支える人的支援などのソフト事業へと再分配すべきである。これこそが、憲法第13条の「個人の尊重」を地方行政において具現化するインクルーシブなまちづくりへの唯一の道である。
第三に、行政と市民の新たな関係性としての「新公共ガバナンス(NPG)」の実践である。行政は情報を隠蔽するパターナリズムから脱却して徹底した情報公開を行い、市民は行政への依存と要求を繰り返すだけの消費者意識を捨て、地域課題の「当事者」として立ち上がらなければならない。コプロダクションを通じて、行政・市民・NPOが対等なパートナーとして地域の賑わいやセーフティネットを共に創り上げていくプロセスこそが、これからの地方自治の核心である。
立派な市役所庁舎や、誰も歩かない巨大な自由通路は、決して市の品格を保証するものではない。「当たり前のことを、当たり前にする」という行政の普遍的な所作を回復し、限られた予算を公平・公正に再分配し、全員が当事者性を持って包摂的な地域を築き上げること。それこそが、現在最大の財政的・構造的危機にある弥富市に求められる「本当の品格」であり、これからの時代を生き抜くための確固たる道標である。