1. キーワード抽出
全体・背景に関するキーワード
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安保関連3文書(国家安全保障戦略、国家防衛戦略、防衛力整備計画)
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戦後を終わらせない(講座のメインテーマ)
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不意打ち感(国民の目が行き届かない時期・プロセスでの閣議決定)
石田淳氏(国際政治)のキーワード
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専守防衛の例外化(例外の範囲が限定されなければ原則は無意味)
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安全保障のジレンマ(自国の防衛力増強が相手の不安を煽り、軍備競争を招く悪循環)
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安心供与(相手に不安を与える行動を自制し、現状を維持する働きかけ)
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同盟のジレンマ / 期待の調整(日米間で守るべき価値や払うべき犠牲は完全には一致しないという現実)
加藤陽子氏(政治史)のキーワード
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帝国国防方針(明治期から続く、現場の調整困難を「大きな方針」で縛る日本特有の構造)
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コンセンサス・マニュファクチャリング(合意の捏造)(メディアを利用して特定の議論をアジェンダ化する手法)
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広義国防と狭義国防(軍備増強だけでなく、国民生活の安定や社会改革を含む国防のあり方)
蟻川恒正氏(憲法)のキーワード
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9条への「不言及」(あえて言及しないことによる、規範の軽視)
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死文化ではなく「反故(ほご)」(自然に死んだのではなく、政権が意図的に破棄した責任を問う言葉)
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道理と道義(立憲政治の根幹である「道理」と、過去の反省から生まれた日本社会の「道義」)
2. 刺さる言葉(名言・核心を突くフレーズ)
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「例外の範囲が明確に限定されなければ、原則的立場を堅持すると言ったところで意味がありません」(石田氏:言葉遊びに対する痛烈な批判)
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「立憲デモクラシーを立憲デモクラシーで守る」(石田氏:政府の権限発動に国会承認などの縛りをかけることの重要性)
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「相手国の『意思』がどこに向いているかを全知全能をかけて推測するのが外交であり安全保障です。それを放棄して相手の『能力』に合わせて自国も能力をつけるというのは、外交による力を放棄したと言わざるを得ません」(加藤氏:防衛力偏重への警鐘)
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「際限なく物を作れ、金を使える国と軍拡競争をしてはいけません」(加藤氏:歴史的教訓から見た対中軍拡競争の無謀さ)
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「『死文化した』と言うと、現実に合わせて憲法を変えようという議論に流れてしまう。私は『反故(ほご)にされた』という言葉を提案します。約束を反故にした者(政権)の責任を明確にする力があるからです」(蟻川氏:言葉の選び方が持つ政治的意味)
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「防衛力の強化という極めて重い問題を、『端的に申し上げれば』と言ってはいけないのです。道義があれば、こんな言葉は口にできません」(蟻川氏:為政者の言葉の軽さ・見識の欠如に対する憤り)
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「決める人を決める(選挙)というところで国民の役割が終わってしまい、あとは権力を託された内閣が滅茶苦茶をやってしまうという状態になっています」(山口氏:現代日本の民主主義の機能不全)
3. 論点整理(議論の全体構造)
今回の講座における議論は、大きく以下の3つの論点に整理されます。
論点1:軍事偏重による「安全保障上のリスク」と「外交の放棄」
安保3文書がもたらす最大の懸念として、抑止力への過度な傾斜が挙げられています。
国際政治学の視点(石田氏)からは、自国の軍備増強が「安全保障のジレンマ」を引き起こし、かえって軍備競争や偶発紛争のリスクを高めることが指摘されました。
また歴史学の視点(加藤氏)からは、相手の「意思」を推測する外交努力を放棄し、相手の「軍事能力」のみに着目して際限のない軍拡競争に付き合うことの愚かさが、戦前の歴史(対米軍拡競争での敗北と財政破綻)と重ね合わせて批判されています。
論点2:対米追従と「自己決定の自由」の喪失
日本がアメリカと「戦略体系をすり合わせる」ことの危うさも重要な論点です。
「立憲的な国同士」であっても、日米間では「限定戦争」の意味合いが異なります(アメリカにとっては遠方の紛争でも、日本にとっては本土の危機)。
同盟国間で「期待の調整」が極めて困難であるにもかかわらず、在日米軍基地からの出撃や有事の共同行動に関して、日本側の自己決定権(拒否権)がどこまで担保されているのか不透明なまま踏み込んでいる点が指摘されました。
論点3:手続きの空洞化による「立憲主義・民主主義の破壊」
内容の是非以前に、この大転換が「閣議決定」という不透明なプロセスで進められたことへの強い危機感が共有されています。
国会審議を軽視し、憲法9条をあえて無視する(不言及)岸田政権の姿勢は、日本社会を支えてきた「道理」や「道義」を意図的に「反故(ほご)」にする行為であると位置づけられました(蟻川氏)。
戦前の帝国議会が軍の独走を止められなかった歴史的教訓を踏まえ、現代においても内閣の強大化(化け物化)に対して、市民や国会がいかに歯止めをかけるかが最大の課題として提起されています。
【開会の挨拶】
講座を始めたいと思います。私は「立憲デモクラシーの会」の事務局を預かっております、早稲田大学の小原と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
今日は皆さん、お休みの大事な日にこのようにたくさんお越しいただきまして、本当にありがとうございます。私たち「立憲デモクラシーの会」はずっと講座を続けてまいりましたが、残念なことにコロナ感染拡大ということがあり、最後にこうした実際の会場を使ってリアルで開催したのは2020年の2月か3月でしたでしょうか。それが最後ですので、およそ3年間、実際のこうした形での講座はしておりませんでした。
【講座再開の背景】
しかし、路上やその他いろいろな形で「実際のリアルな講座を開いてほしい」「再開してほしい」という声を何度かお聞きしました。
それから、今日のテーマに直接関連することですけれども、最近の政治状況で座視できないものがあるということで「ぜひ始めよう」と世話人の間で集まり、再開ということにいたしました。
「立憲デモクラシーの会」として、昨年の12月に我が会としてはやや異例のことではございますが、声明を1ヶ月の間に2回出すということをいたしました。言うまでもございませんけれども、安保関連3文書の閣議決定ということがあり、それについて黙っているべきではないという形で声明を出し、またこの講座を開くことにしたということであります。
タモリさんが「新しい戦前の始まりでしょうか」と言ったという話は非常に有名でございますけれども、私たちが大切に育ててきた、守ってきた「戦後」をこのまま終わらせるわけにはいきません。
【本日のテーマと登壇者】
そこで、「戦後を終わらせない」というシリーズタイトルで、今回がその第1回目となります。 (※第5回のシリーズということですが、この「エピソード5」というのは、スター・ウォーズ好きの私の趣味で付けただけなんですけれども)
第1回目のタイトルは、あそこにございます通り『戦後の現在』です。 ご登壇いただくのは順番に、以下の先生方となります。
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国際政治: 東京大学 石田淳 先生
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政治史: 東京大学 加藤陽子 先生
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憲法: 日本大学 蟻川恒正 先生
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【ご挨拶と本日のテーマ】
ご紹介いただきました、東京大学の石田淳です。本日は「周辺国の関心事項という観点から日本の戦後の現在を考える」というタイトルで、25分間お話ししたいと思います。
普段の講義では少しゆっくり話すため、学生から「先生の話は1.5倍速で聞くと緊張感があっていい」と言われたりもしますが、今日は時間が限られておりますので、冗談はこれくらいにしてどんどん進めたいと思います。
「戦後の現在を考える」というテーマですが、私の場合は「戦後の平和国家・日本の専守防衛政策の現在を考える」という観点でお話しします。
【本日の3つの論点(結論)】
時間が限られているため、結論まで到達しなかった場合に備え、本日の第2節〜第4節の最終的なポイント(結論)から先にお話しします。
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論点1:専守防衛の「例外」の範囲 「平和国家の基本方針としての専守防衛」という原則的立場を堅持すると言ったところで、その「例外の範囲」が明確に限定されなければ意味がありません。
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論点2:軍備競争とリスクへの楽観的視点 反撃能力の整備などは、国際政治学の有力説から見ても「軍備競争の激化」や「偶発紛争のリスク増大」につながります。それにもかかわらず、なぜ「それはない」と楽観視できるのでしょうか。軍備競争が起きれば財政的負担も大きくなり、現段階の負担すら容易に負えるものではありません。
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論点3:同盟国との「期待の調整」と同盟のジレンマ 「存立危機事態」という曖昧な概念で、国家間(特に同盟国間)の「期待の調整」ができるのでしょうか。普遍的な価値(デモクラシーもその一つです)を守ると言いますが、デモクラシー国家間で同盟を形成した場合に、それぞれの「自己決定の自由」が制約を受けないと考えるのは、政治的に非現実的です。
【はじめに:国際政治学の観点から】
国際政治学の観点から考えるとはどういうことか。政治とは「関係者の同意の確保を通じて、現状を維持したり変更したりする営み」です。そして関係国の同意を確保するための手段が「意図の伝達」であり、それを通じた安全確保について考えます。
守るべき価値とは何か? ウクライナ戦争を例にとると、領土の争奪戦に見えますが、実は「国内の憲法体制(NATOへの加盟や特定地域の自治など、統治のあり方)」も国際的な争点になっています。
価値をいかに守るかは、関係国(当該国)の予見される行動次第です。「どの局面でどう行動するのか」という行動計画を関係国間で共有すること(意図の伝達)があって初めて、行動に予見可能性が生まれます。安全保障においては、武力行使を慎む「約束」や、違反国に対する措置(積極的な安全保障)、または自衛権を根拠とした武力行使といった形で、国際社会の安全が確保されてきました。
1. 安保3文書について
これまでの体系とこれからの体系(安保3文書)の違いにおける最大のポイントは、「アメリカと戦略体系をすり合わせる」ということです。 アメリカの「国家安全保障戦略」や「国防戦略」に対応するものを日本も備えることになりました。
新しい国家安全保障戦略では、外交・防衛に限定されない「総合的な国力」が強調されていますが、非常に「抑止」に傾斜しており、「威嚇と約束のバランスを欠く」点が大きな問題だと考えます。また、国家防衛戦略においては、政府の責務として「国民と領域の防衛」が挙げられていますが、守るべきものとして「憲法」が出てこない点は非常に重要です。
2. 戦後の専守防衛の大転換
専守防衛は、「日本への武力攻撃が存在すること」「代替手段がないこと」「武力の均衡性」という「旧三要件」を基盤とした、受動的で抑制的な防衛体制です。しかし、昭和30年代から「防衛力の限界は、変化する国際情勢や軍事技術に対応して動くもの」という制限解除のレトリックが存在していました。
戦後の防衛論争は、常にこの「範囲の設定(自衛権の範囲、武器輸出の範囲など)」をめぐって行われ、徐々に解除されてきました。例えば、武器輸出三原則は例外が膨張しすぎたため、2014年に新たな「防衛装備移転三原則」が設けられました。これは「例外が膨張すれば原則の堅持に意味がなくなる」と政府自身が認めた例です。
立憲デモクラシーで守る 例外の範囲の不明確性は、行動の予見可能性を損ないます。(例:敵基地攻撃能力における「着手」の曖昧さ)。重要なのは、「例外の範囲の限定を恣意的に解除できない仕組み(国会の事前承認や事後検証など)」を作ることです。政府の権限発動に縛りをかけることこそが「守るべき価値」であり、攻撃自制の約束に説得力を生みます。つまり「立憲デモクラシーを立憲デモクラシーで守る」ということです。
3. 安全保障のジレンマ
安全確保のために「約束」を通じて相手国の不安を払拭することを「安心供与」と呼びます。これは「安全保障のジレンマ」の解決策です。
安全保障のジレンマとは、一方が自国防衛のために軍備を増強すると、相手国が不安を覚え、結果として軍備競争を生み出してしまう状況です。近年のミサイル防衛システムの導入も、「専守防衛に資する」として導入されましたが、それが結果的に相手の突破能力の向上を招き、さらなる「反撃能力の整備」へと至る通説通りの軍備競争(アクション・リアクションのダイナミクス)を引き起こしています。
これに必要なのは以下の2点です。
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相手に不安を与える行動を自制する(安心供与)
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軍事的な緊張が高まる中であっても、共通利益の追求を積極的に行う(経済安全保障による制限の発想を逆転させる)
4. 同盟のジレンマ
日本の安全保障は、中国や北朝鮮だけでなく、アメリカからの観点でも見る必要があります。同盟国間においても、守るべき価値や払うべき犠牲は完全に一致しないため「同盟のジレンマ」が生じます。
NATOのように共同防衛行動をとる「条約地域」を限定することで期待を調整する例がありますが、日米安保の場合、条約地域は「日本」であるのに対し、米軍の行動範囲はそれに限りません。
「存立危機事態」の曖昧さと自己決定の自由 「存立危機事態」という曖昧な概念で、同盟国間で本当に期待の調整ができるのでしょうか。日本は本当に戦闘作戦行動を拒否できるのでしょうか。 1960年の安保改定時、岸首相は「事前協議で戦闘作戦行動を拒否できる」と明言しましたが、アメリカの国防総省の公的な理解では「事前協議は日本に拒否権を与えるものではなく、アメリカの行動の自由は確保されている」とされています。
デモクラシー国家同士が同盟を組む以上、アメリカが自国の行動の自由(自己決定)を強調する一方で、カウンターパートである日本の自己決定の自由がどうなるのかは非常に大きな問題です。
台湾有事と「ウクライナモデル」 台湾有事において、アメリカはウクライナのように「武器供与のみ」を行うウクライナモデルは想定しておらず、「米軍が即時に参戦する」というシミュレーションがあります。これは在日米軍基地からの出撃を意味し、事前協議の対象となります。
なぜ日本から出撃するのか。それは軍事的なリアリズムだけでなく、「戦争のエスカレーションを限定し、アメリカ本土を戦域としないため」という政治的なリアリズムが背後にあるのではないかと考えます。
少し時間を超過してしまいましたが、以上で終了いたします。
音声認識特有の誤変換(「所要兵力」→「所要兵力」、「傭兵交流」→「用兵綱領」、「第2次便総案」→「第2次ヴィンソン案」、「エルズバーグ」→「エルズバーグ」、「英雄」→「円安」など)を修正し、文脈が通るように整理しました。
【ご挨拶とレジュメについて】
皆様、配信中に横切ってしまい申し訳ありません。2番手の加藤陽子です。会場にいらっしゃる方は、お手元のレジュメをご覧ください。
私は「紙派」でして、別にマッカーサーの言うことを聞いているわけではないのですが、1944年のニューギニアの戦いにおいて、マッカーサーは「日本兵は耳から聞いた情報は信用しないが、紙で読んだ情報は信用する」と考え、非常に精緻なビラを配ったそうです。ですから私も皆様に信用していただけるよう、精緻なビラではなく、レジュメをご用意いたしました。 25分間お話ししたいと思います。
1. はじめに:安保3文書における「不意打ち感」
まず、今回の閣議決定について「不意打ち感」が生じた背景を考えます。 12月や2月(受験シーズン)など、国民が忙しい時期に国の大きな決定をされると、即応ができず大変困ります。
12月16日の閣議決定の前に、自民・公明の両党で「与党協議会」や「実務者ワーキングチーム」が何度も協議を進めました。これは「協議を進めた」というアリバイ作りでしょう。
また、「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」が4回開かれました。しかし、議事録が公開されたのは年が明けた2023年の1月24日です。さらに、最後の会議で配布された報告書案には「席上回収」の赤いスタンプが押されており、委員の方々でさえ、最終的にどのような文章になるのか確認できないまま進められました。 委員の一人である中西寛さん(京都大学)は、「意思決定に誰がどう関わっているのか、国民に見えず、世論の支持を得る点で十分なプロセスだったのか」と苦言を呈しています。
このように、「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」の3文書が、有識者のチェックをどう受けたのかは不透明です。 そしてメディアの特性として、政府が「緊急事態」「防衛」といったアジェンダを投げ込むと、野党に聞きに行き、議論が作られてしまう「コンセンサス・マニュファクチャリング(合意の捏造)」や「猫じゃらし効果」に我々も踊らされてしまう点に注意が必要です。
2. 歴史家から見た「3文書」の立て付け
歴史家としては、誰がこの文書を書くのかに興味があります。 今回の「3文書」の構成はアメリカに合わせたものと言われますが、実は明治時代(1907年)の「帝国国防方針」も、「国防方針」「用兵綱領」「所要兵力」という3つの文書から成り立っていました。
なぜ3つに分けたのか。それは機密の度合いや作成者が違うからです。 たとえ政党内閣のトップであっても、見せてもらえるのは「国防方針」と「所要兵力」の概要だけで、参謀本部や軍令部が作る具体的な「用兵綱領」は見せられない、という立て付けでした。
戦前の国防方針を分析することには意味があります。 例えば、伊藤博文に「権力分立の憲法」を教えたウィーンの学者ローレンツ・フォン・シュタインは、その数年後、山県有朋に「主権線・利益線」という概念を教えました。憲法の理論を教えた同じ人物が、日本の外交戦略や大陸進出の根拠となる概念を教えたことは、歴史的に非常に重要な事実です。
3. 日本における「陸海軍」のジレンマ
「帝国国防方針」は、後に首相となる田中義一が日露戦争後の危機感から考え抜いたものです。日本には平時に陸軍と海軍の戦略を統一する機関がなく、戦時に大本営を設置して初めて調整が行われるという欠陥がありました。
陸軍と海軍がそれぞれ独自に戦略を描くため、意見を統一するには天皇の裁可を得て「動かすべからざる基準(帝国国防方針)」を作るしかありませんでした。
現在、日本は2013年に国家安全保障会議(NSS)を作り、今回それを改定して「国家安全保障戦略」などを作りました。これも、自衛隊の陸・海・空(さらに宇宙など)を統合して現場で調整することが難しいという、日本の実情を反映しているように見えます。アメリカのように現場のスタッフ会議で柔軟に戦略を変えていく仕組みとは異なり、日本は最初に「大きな方針」を作って縛る形になりがちです。
4. 国家安全保障戦略と国家防衛戦略を読む
① 国家安全保障戦略について 石田先生もご指摘の通り、「憲法」が出てこないことは大きな問題です。 通常、国家の「基本利益(ナショナル・インタレスト)」とは、憲法(日本の場合は前文にある平和主義や基本的人権など)を守ることです。それがトップに書かれていないのは問題です。 また、ロシアと中国の「戦略的連携」への言及があります。日本は過去にも、日清戦争時に清と韓国、日中戦争時にソ連を同時に相手にする作戦計画を立てていました。二正面作戦への警戒が今回も現れています。
② 国家防衛戦略について 私が注目したのは「今後の10年が決定的なものになる」という記述です。(※この点は後述します) また、「脅威は能力と意思の組み合わせで顕在化するが、他国の意思を正確に把握することは困難である。だから相手の『能力』に着目して自らの『能力(防衛力)』を構築する」という記述がありました。
これは「外交による力を放棄した」と言わざるを得ません。 相手国の「意思」がどこに向いているかを全知全能をかけて推測するのが外交であり安全保障です。それを放棄して「相手の能力(軍事力)に合わせて自国も能力をつける」というのは間違っています。
5. 歴史から学べること(軍拡競争の危険性)
① 決定的な10年と軍拡競争 1930年代、日本はワシントン・ロンドン海軍軍縮条約から脱退しました。 当時の軍令部の石川信吾などは、「大和型などを建造し、今後10年間頑張ればアメリカの軍拡は間に合わない。7割の戦力は確保できる」と考えました。 しかし歴史は残酷です。アメリカは莫大な予算を投じ(ヴィンソン案など)、日本の連合艦隊に匹敵する艦隊をあっという間に複数作り上げました。
際限なく物を作れ、金を使える国と軍拡競争をしてはいけません。現在のそれは中国です。中国がスーパーパワーになるかどうかの「決定的な10年」に、日本が軍拡競争で付き合ってはいけないと私は思います。
② 財政危機と安全保障 現在の日本は、GDPに対する債務残高の比率が非常に高い国です。もし専守防衛の戦いで国がめちゃめちゃになった時、「日本売り(円安・国債暴落など)」が起きるでしょう。そのような国が、戦時下で必要な装備を買い続けることができるでしょうか。 有識者会議でも、経済関係の委員がこの財政問題を批判していましたが、まだ理性があるうちに、この危険な文書に対してしっかり批判し、打ち返しておかなければならないと思います。
少し時間をオーバーしてしまいました。ありがとうございました。
音声認識特有の誤変換(「三文章」→「3文書」、「特段の言及をしなかった」→「言及しなかった」、「不減給」→「不言及」、「剛健」→「合憲」、「保護」→「反故(ほご)」、「主になった」→「死語になった」、「道着」→「道義」など)を修正し、論旨が明確になるよう整理・要約しました。
【はじめに:岸田首相の記者会見から読む安保3文書】
3人目ということで皆様もそろそろお疲れかと思いますが、短くお話しいたします。 今回の企画は「安保関連3文書を読む」ということですが、私からは、3文書そのものではなく、昨年(2022年)12月16日の岸田首相の記者会見の言葉を読むことで、間接的に3文書の持つ意味を考えたいと思います。
今日お話しするポイントはただ1点、岸田首相が「憲法9条に対して(特段の)言及をしなかった」という点です。
第1の柱:憲法9条への「不言及」
岸田首相の会見を見ると、実は「憲法について」語っている箇所はあります。 「この3文書とそれに基づく安全保障政策は、戦後の安全保障政策を大きく転換するものであります。もちろん、これは日本国憲法、国際法、国内法の範囲内での対応であることは言うまでもありません」と述べています。 これを見て「『憲法の範囲内』と言っているのだから、9条に言及していないというのは言い過ぎではないか」と思われるかもしれません。しかし、私は以下の3つの理由から、やはり「9条に言及していない(9条を念頭に置いていない)」と考えます。
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「9条」という言葉が出てこない 憲法とは言っていますが、「9条」とは直接言っていません。
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憲法を「国際法・国内法」とただ並列している 憲法は国内法の最高法規であり、9条は単に先制攻撃を禁じる以上の特別な規範です。それにもかかわらず、他の法と同列に扱っており、憲法固有の意味に注目しているとは思えません。
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「もちろん」「言うまでもありません」という言葉 これが一番強調したい点です。人は「もちろん」「言うまでもありません」と言う時、往々にして本気でそのことを考えていません。これはただの飾りの言葉であり、実質的に9条と向き合っていないことの表れです。
「死文化」ではなく「反故(ほご)」という言葉を使うべき 「合憲と言っていないだけマシだ」と思う人もいるかもしれませんが、それは違います。「合憲」と主張するなら「違憲だ」と戦えます。しかし、そもそも言及すらしないというのは、「9条をまともな規範(役に立つもの)だと思っていない」ということです。 最近「憲法9条は死んだ(死文化した)」と言う人がいますが、私はそれに反対です。9条はまだ死んでいません。敵基地攻撃能力などが議論される今こそ、最も大事な役割を果たすべき時です。「死文化した」と言うと、現実(軍拡)に合わせて憲法を変えようという議論に流れてしまいます。 私は「反故(ほご)にされた」という言葉を提案します。「反故」とは「役に立たない紙切れにする」という意味ですが、この言葉には「約束を反故にした者(政権)の責任」を明確にする力があるからです。
第2の柱:道理が引っ込む時勢を「愕く(おどろく)」
この講演の副題である「道理が引っ込む時勢を愕く」という言葉は、私の言葉ではなく、憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄の言葉をもじったものです。元々は「無理が通れば道理が引っ込む」ということわざから来ています。
尾崎行雄は戦前から戦後まで62年以上も衆議院議員を務めた人物です。彼が新聞記者時代、保安条例(検閲立法)によって東京から追放された際、「自分がひどいことをしたわけでもないのに、道理が引っ込む時勢に愕然とした」という意味で、自身の雅号を「学ぶ」の『学堂』から、驚愕の「愕」を使った『愕堂』に変えました。
尾崎は一貫して「立憲政治は『道理の政治』であるべきだ」と主張しました。当時、まだ「法の支配」という言葉が伝わりにくかったため、「道理の支配」という言葉で権力の暴走を止めようとしたのです。
立派な憲法があるのに「道理」が壊されている現代 尾崎の時代は憲法が不十分でしたが、現在は立派な日本国憲法があります。それにもかかわらず、第2次安倍政権以降、憲法だけでなく「道理」そのものが壊されています。 例えば、憲法53条(野党の臨時国会召集要求)を無視し続けたり、国際法上の「侵略の定義」が存在するのに「確立した定義はない」とごまかしたり、社会の根幹である「定義」を恣意的に歪めてきました。 この20年近く、政権が法や道理を「あってなきもの」として扱ってきた結果が、今回の「安保3文書における9条への不言及」に真っ直ぐつながっているのです。
第3の柱:道義の衰退
憲法9条は、単なる「道理」ではなく「道義」を体現したものです。 15年戦争で世界と自国に甚大な損害を与えた結果として生まれたのが9条です。したがって、9条を守ることは「日本社会の道義の根幹を守る」ということです。
「道義観念を伴わない愛国心」 ここでも尾崎行雄の言葉が重く響きます。彼は「日本人は個人としては道義心があるが、国家のことになると道義がなくなり、もっぱら自国が勝てばいいという『道義観念のない愛国心』になってしまう」と警告しました。 これを象徴するのが、岸田首相の記者会見での次の言葉です。 「防衛力を抜本的に強化するということは、端的に申し上げれば、戦闘機やミサイルを購入するということです」
平和憲法を持つ国の首相として、絶望的な無見識の言葉です。ここでのキーワードは「端的に申し上げれば」です。防衛力の強化という極めて重い問題を、端的に言ってはいけないのです。道義があれば、こんな言葉は口にできません。
9条を語らずして安全保障の転換はない 防衛には軍事力だけでなく、外交が不可欠です。そして外交の芯になるのは「日本がどういう国家としてあろうとするのか」を対外的に表明することであり、その鍵となるのが憲法9条です。それなのに、9条を語らずに敵基地攻撃能力を持つという大転換をしてしまったのが現在の日本です。
もちろん、自衛のための必要最小限度の実力は認めるべきでしょう。しかし、それを超える部分は「実力ではないもの(外交や平和主義)」に託したのが9条であり、それが日本社会の最後の道義を支えているのです。
息の長い戦いを(ただし無理はせずに) 道理も道義も打ち捨てる政権と戦うのは大変なことです。 尾崎行雄は50代半ばで雅号の「愕」の字からりっしんべん(心)を取り、再び『学堂』に戻しました。心が疲れたからだと言いますが、彼は決して衰えたわけではなく、そこから40年近く、93歳まで国会議員として軍部などと戦い続けました。
私たちも息の長い戦いをしなければなりません。しかし、無理をしてはいけません。それぞれの持ち場で、無理のない範囲で考え続け、声を上げていただければと思います。 なぜなら、「無理を通せば道理(道義)が引っ込む」からです。
以上で私の話を終わります。ご清聴ありがとうございました。
【鼎談・座談会】
山口二郎(司会・立憲デモクラシーの会共同代表): 3人の先生方、どうもありがとうございました。 ちょっと本筋から外れた話で恐縮ですが、やはり歴史家(加藤先生)は「3文章」ではなく「3文書」と仰るのだなと思いました。歴史的なドキュメントとしては「文書」がしっくりきますね。 また、先ほどの蟻川先生のお話に無理やりつなげると、「安保3文書」というのは保護(ほご)されるべきものではなく、反故(ほご)になっていただくのが一番の落ち着きどころかと思いました。
皆様、大変熱のこもったお話をしていただき予定時間を押しておりますが、会場は17時まで確保しておりますので、ご都合の許す限りお付き合いいただければありがたく存じます。
今回の「戦後を終わらせない」というテーマに関して、私から一言だけ申し上げます。 私は自分の大学で「戦後政治学説史」という授業を担当しており、先日の最後の講義で「戦後の政治学は、戦争で死んだ学徒兵の無念を背負って始まったんです」という話をいたしました。政治学もそういう意味で「戦後を終わらせてはいけない(なぜあのような戦争をしたのかを常に考え続ける)」というふうに思っております。
本日はお三方から大変興味深いお話を伺いました。もっと聞きたいことが色々あるかと思いますので、私から3人の先生方に質問をさせていただく形で進めたいと思います。
質疑応答:司会から登壇者へ
① 石田先生へ:「抑止力」と「安全保障環境の悪化」について
山口: 政府の説明では「抑止力」がキーワードになっています。日本がミサイルや戦闘機を買って軍備を増強すれば、それに比例して抑止力は強まるのでしょうか?相手国が「手出しするとひどい目に遭うから」と自制を働かせてくれるものなのか、抑止力の概念についてもう少し詳しくお願いします。
石田: 「抑止」とは「反撃の威嚇によって攻撃を思いとどまらせる政策」というのが標準的な定義です。しかし、反撃に使える能力は先制攻撃にも使えます。 こちらがその能力を何のために備えたのかという「意図」が明確に伝わっていない限り、相手は「先制攻撃に使われるのではないか」、あるいは「武力行使をチラつかせて何らかの政治的譲歩を迫るために使われるのではないか」と警戒します。 それを防ぐために相手も軍備を備えることになり、結果として安全を確保できなくなる。これが「安全保障のジレンマ」であり、国際政治学ではほぼ通説として受け入れられています。
山口: 関連して、今の政府の議論は「中国の軍拡」「台湾海峡問題」「ウクライナ問題」などを一緒くたにして国民の不安を煽っているだけではないかという印象を受けます。よく言われる「日本を取り巻く安全保障環境の悪化」をどうご覧になっていますか?
石田: 国際政治学では、自国の置かれている「環境」を所与のもの(最初から固定されたもの)として、それにどう対抗するかという発想はしません。日本の行動(軍備増強など)を前提として周辺国も行動しているからです。あたかも「日本の行動とは無関係に周辺国が軍備を増強しているから対抗策をとる」と考えるのは適当ではありません。 また、ウクライナ戦争の報道を見て「防衛的な兵器を整備してほしい」と考える国民は多いでしょう。しかし、それによって「軍備競争が激化する」「偶発戦争が起きる」といったリスクについて一切説明せず、「国民の生命を守るために必要ですが、どうですか?」とだけ尋ねて支持を得ようとするのは、いささか説得力に欠けると思います。
② 加藤先生へ:「広義国防」と「狭義国防」について
山口: 坂野潤治先生のご著書等で、1930年代に「狭義国防(軍備増強)」と「広義国防(国民生活の安定)」という論争があったと学びました。人口が減り、経済も停滞している今の日本において、歴史家の観点から「本当の意味での国防」とは何だとお考えになりますか?
加藤: 1930年代半ばに「広義国防」が言われた時は、近衛文麿などが社会大衆党(無産政党)を政権に取り込む際、国家が経済に介入して農民の借金返済を助けるなど、社会改革的な政策(国民への配慮)をどう進めるかという争いがありました。 今問題になっているのは、「トマホークを買うか」「陸上兵力に予算をどう振り向けるか」といった「狭義国防」だけでなく、経済安保や「10兆円ファンド(大学ファンド)」の名の下に、本来の文教予算や産業予算を、防衛的な文脈でどう奪ってくるかに注力している人たちがいる点です。 本来の意味での「広義国防」であれば、「女性が安心して子供を預けられ、力を発揮できる社会(保育園の充実など)」が考慮されるべきですが、今は各産業界や大学界が「打ち出の小槌」をどこから持ってくるかという話になってしまっており、真の広義国防の議論にはなっていない気がします。
③ 蟻川先生へ:国会軽視と民主主義について
山口: 今回の安保3文書のような大転換が、閣議決定だけであっという間に決まり、岸田首相が正月に欧米を歴訪して「もう決まったことです」とバイデン大統領に報告して喜んでいる。この国会軽視の状況に対する憲法学者としてのフラストレーションをどう説明されますか?
蟻川: 本当に戦後の大転換ですから、これを国会で審議しなくて何を審議するのかと思います。形式上は行政(閣議決定)で決められることだとしても、やはり最後は「国会議員一人ひとりの矜持(きょうじ)に問う」しかないというのが、弱いですが私の答えです。 安保法制の反対運動の時も、人々が声を上げることで野党議員が「これは大変な問題だ」と気づき、国会で踏み込んだ審議が行われた経験があります。国会議員の矜持を呼び覚ますのは、我々市民側の仕事なのかもしれません。
質疑応答:登壇者同士のクロストーク
① 加藤先生から石田先生へ:日米の「すり合わせ」の実現性
加藤: 3文書の中で日本は「普遍的な価値観を持つ立憲的な国」と誇らしく書いていますが、立憲的な国同士(日米)で「国家の最高の基本利益」を本当にすり合わせることができるのか、という石田先生の指摘に感銘を受けました。 例えば、有事の際に日本の法執行機関である海上保安庁などにアメリカが圧力をかけてくる不安はないのでしょうか?「日米の2+2」のような協議で進めている想定を、日本は本当に実行・実現できるのでしょうか?
石田: 実現性は非常に低いのではないかと思います。 アメリカ側からすれば「自国の行動の自由」は確保されており、日本に認めるものではありません。例えば、在日米軍基地から台湾有事のために戦闘作戦行動を行えば、その基地は当然攻撃の対象になります。 アメリカ本土に戦争が及ばないという意味で、アメリカにとっては「限定戦争」ですが、日本にとっては限定戦争にはなりません。守るべき価値や払うべき犠牲について、同盟国間でも意見は完全に一致しません。それなのに、その「すり合わせ」や「期待の調整」が十分になされているのか、国民に説明されているのか、非常に不十分だと思います。
② 石田先生から加藤先生へ:為政者の「時間的責任」の感覚
石田: 現在の政治家は、将来「軍備競争」が起きるとしても「自分の任期後のことだから責任はない」という感覚があるのかもしれません。戦前の政治家の場合、この「責任の時間的な感覚」はどうだったのでしょうか?
加藤: 戦前期は「政軍関係(文民と軍の関係)」において、軍と政党内閣の独自性(テリトリー)が強く分けられていました。軍事予算や軍縮条約に、政府(国務大臣)や帝国議会がタッチできる範囲が極めて限られていたのです。だからこそ、山県有朋などにしろ「10年後、5年後」の計画を軍主導で立ててしまうことができました。 逆に言えば、戦後は「防衛費増額のための財源確保を法律で作らなければならない」など、国会が予算や法律で確実に制限をかけられるようになっています。これは非常に大きな歯止めです。
③ 加藤先生から蟻川先生へ(視聴者質問含む):内閣の強大化について
加藤: 蟻川先生にお伺いしたいのですが、日本国憲法前文の「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」という一文は、戦前の帝国議会が軍事予算などにタッチできなかったことの反省を踏まえて「国会頑張れ」という意味も込められているのでしょうか?
山口(司会): YouTubeの視聴者からの「閣議決定はいつからこんな化け物になったのか(内閣と国会のバランス崩壊)」という質問も併せてお願いします。
蟻川: おっしゃる通り、前文の「正当に選挙された国会」という言葉には、帝国議会が不十分だったことの反省と期待が託されていると思います。 「いつから内閣が化け物になったか」についてですが、「安倍1強」と呼ばれた時代以降、国会よりも内閣があまりにも強くなりすぎてしまい、いかんともしがたい状況になってしまったのだと思います。もちろんそれ以前からの流れはありますが、やはり「この10年間は特殊に異常だった」ということは認める必要があると考えています。
【閉会の挨拶】
山口: 日本の民主政治が、特に安倍政権以降「決める人を決める(選挙)」というところで国民の役割が終わってしまい、あとは権力を託された内閣が滅茶苦茶をやってしまうという状態になっています。これを変えるには、選挙で意思表示をして世論を作るという、お決まりの話に戻ってしまいますが、そこをやるしかありません。
非常に短い時間でまだまだ議論すべきことはありますが、予定時間が来ましたので、本日の緊急企画・講演会はこの辺りで閉じたいと思います。
「立憲デモクラシーの会」では、来月以降(3〜6月)もこのテーマに関して早稲田大学で連続講座を開催いたします。皆様奮ってご参加いただき、世論を作る取り組みを頑張ってまいりましょう。
本日はお忙しい中、3人の先生方に貴重なお話をいただき、また市民の皆様も日曜日に集まっていただきまして誠にありがとうございました。心から御礼申し上げます。 (会場には約100名、YouTube等の配信では約500名の方々にご視聴いただきました。今後の講座も、柳澤協二さん、遠藤誠治さん、高原明生さんらにご登壇いただく予定です)
本日はどうもありがとうございました。お忘れ物のないようお気をつけてお帰りください。