★戦前史が教える、『新しい戦前』にならないための思考レッスン★加藤陽子講演会(九条医療者の会かごしま総会記念講演から)
2023年7月30日に鹿児島市で行われた九条医療者の会かごしま総会記念講演
ミッドウェー海戦と「鹿児島の海軍」
鹿児島周辺にお住まいの方々に向けて、少し地域に縁のあるお話をさせてください。鹿児島といえば、西郷隆盛をはじめとする薩摩藩の拠点であり、日本海軍のベースとなった場所です。
皆様は、1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦をご存知でしょうか。東太平洋のミッドウェー島沖で行われ、「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」という4隻の主力空母が沈没し、日本の敗戦を決定づけた戦いです。
ノンフィクション作家の澤地久枝さんが著書『記録 ミッドウェー海戦』の中で、この戦いで亡くなった3,000人余りの搭乗員や乗組員(船を操舵する人々)の「出身県」を調べたデータがあります。 それによると、一番多くの戦死者を出したのは鹿児島県(186人、全体の6.1%)でした。(福岡県が1名差で次に多い数字でした)。このデータからも、海軍や空母の乗組員にいかに鹿児島出身者が多かったかが分かると思います。
なぜ陸海軍は対立したのか:明治国家の「人為的な構造」
なぜ日本の陸軍と海軍は、作戦のすり合わせもできないほど喧嘩ばかりしていたのでしょうか。これは、明治期に軍隊が作られた際の構造に原因があります。
通常、ドイツやロシアは「陸主海従(陸軍中心)」、イギリスやアメリカは海軍国家ですが、日本は「長州の陸軍、薩摩の海軍」と、地域的な武力をベースに両軍が形成されました。山縣有朋(長州)や西郷従道・西郷隆盛(薩摩)といった人物が各々の軍を率いていたのです。
明治10年(1877年)、西郷隆盛が西南戦争(反乱)を起こしました。文人として政府トップの「参議」を務め、同時に武人として軍令部のトップ(近衛都督)も務めた「文武両道の権力者」が反乱を起こしたことは、クーデターで誕生した明治国家が「土のように崩れる(瓦解する)」ほどの脅威でした。政府側は旧武士たちを動員し、田原坂の戦いなどでようやく勝利を収めました。
この強烈な経験から、当時の政府は「西郷のような強力な人物が再び現れて国家を倒そうとする」ことを恐れました。そのため、天皇を「陸海軍両軍のトップ(大元帥)」として人為的に据えることで、軍を統制しようとしたのです。天皇自身には実質的な力がなくても、権威によって陸海軍を並立させる必要がありました。これが、日本が陸軍と海軍を同列に扱わざるを得なかった理由です。
現代の「統合司令部」が意味するもの
ここで、現在の安保3文書の話に戻ります。 1907年、田中義一らは「陸海軍合同の統帥機関(大本営)を作る」という案を諦め、代わりに天皇の裁可による「帝国国防方針」で軍を縛りました。
しかし、今回の安保3文書(2022年改定)では、2027年までに市ヶ谷(防衛省)に「統合司令部」を創設することが決まりました。これは陸・海・空の自衛隊と海上保安庁を一元的に指揮するものであり、戦前の山縣有朋や田中義一が実現できなかった「統帥機関の合同」を、今回の改定が成し遂げてしまったことを意味します。この事実だけでも、今回の改定がいかに大規模な構造改革であるかがお分かりいただけるでしょう。
西園寺公望の「抵抗」:文民首相はいかに軍部に対峙したか
1907年の「帝国国防方針」は、軍部(統帥部、陸海軍省など)が秘密裏に策定し、天皇の権威を利用して作られました。しかし、これに対して真っ向から反論したのが、当時の首相・西園寺公望(さいおんじ きんもち)でした。
西園寺は自由党の流れを汲む政友会の総裁であり、フランス留学経験もあるリベラルな人物でした。(後にパリ講和会議の全権を務め、鹿児島に縁のある牧野伸顕らと共に協調外交を推進しました)。
明治天皇は西園寺を呼び、「軍部がこのような国防方針を作った。あなたに見せられるのは『所要兵力』の部分だけだ。陸軍は25個師団、海軍は八八艦隊(戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻)を作るらしい」と伝えました。 しかし、国民から税金を集め、法律を作るのは内閣の責任です。莫大な軍事予算を突きつけられた西園寺は驚愕し、天皇に対して「上奏文(奉答)」という形で明確に反論しました。
「帝国の国力をもって、欧米列強の同盟・連合に対し軍備の優越を望むのは、誠に困難です。我が国の財政は、日露戦争(大戦役)の後遺症を受け、にわかにこの計画を遂行することはできません。願わくは、しばらく時間(猶予)をいただき、国力と相まって緩急を策定させてください」
日露戦争は、国民に年2回の重税を課し、多額の外債(借金)を抱えながら、ロシアから賠償金を取れずに終わりました(これが日比谷焼打事件の暴動につながります)。西園寺の反論は、当時の財政状況を踏まえた極めて説得力のあるものでした。
私たちがここから学べるのは、「軍部から何も知らされないまま計画だけを突きつけられても、文官の首相は『待った』をかけることができる」ということです。
現在の政治状況を考えると、防衛政策の大きな転換を止めるのは容易ではありません。しかし、だからこそ野党が結束し、「政権交代」という形で自民党に一時お休みいただくような政治体制(二大政党制など)を築いていかなければ、防衛方針の暴走を食い止めることは難しいでしょう。
ご提示いただいたデータには、戦前の専門用語や歴史的事実、そして現代の安保戦略を対比させる重要な部分が含まれていますが、音声認識特有の誤変換(例:「アキラ白くなるべし」→「明らけくなるべし」、「ロコック」→「露国」、「公正」→「攻勢」、「含有」→「外遊」、「全然着ればゾルゲ」→「戦前期でいえばゾルゲ」など)が多数見受けられます。
これらを修正し、加藤先生の歴史的洞察が論理的に伝わるよう整理しました。
1907年「帝国国防方針」の中身と、陸海軍の際限なき軍拡
現在の「安保3文書」について、我々が情報公開請求をしても黒塗り(のり弁)で出てくるでしょう。しかし、文民首相(西園寺公望)でさえ全容を知らされなかった戦前期の歴史を紐解けば、現代の文書の裏にある意図も推測することができます。
現在、内閣府の安全保障担当の課長級(40代前後)が「国家安全保障戦略」などを作成していますが、彼らはおそらく過去の「帝国国防方針」などの文書の作り方を踏襲しています。なぜなら、国家機密を制限しながら政策文書を作るための基本フォーマットだからです。
では、1907年(明治40年)の「帝国国防方針」には実際に何と書かれていたのでしょうか。そこにはこう記されていました。
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「有るべき敵国 明らけくなるべし(仮想敵国を明確にする)」
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陸軍の目標: 「露国(ロシア)が極東に使用しうる兵力に対し、攻勢をとること」
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海軍の目標: 「米国の海軍に対し、東洋において攻勢をとること」
田中義一や山縣有朋は、天皇の裁可を得た方針を作ることで「陸海軍が勝手に軍拡競争をしないよう、合理的な戦略のもとで仲良くさせる」ことを狙いました。しかし結果は真逆でした。陸軍はロシアを、海軍はアメリカ(太平洋全域に展開する米海軍)を仮想敵国に設定し、陸海軍それぞれが目一杯の軍拡を要求するという最悪の事態を引き起こしたのです。
実際の安全保障環境との矛盾:「日露協約」による分割
さらに面白い(というより異様な)ことに、当時の実際の安全保障環境は、この国防方針と矛盾していました。
日本は日露戦争後の1907年から数回にわたり、ロシアと「日露協約」を結んでいます。これは帝国主義国家特有の極めて嫌らしい取り決めで、弱体化していた清朝や中華民国(中国)の領土に「ここまでは日本の勢力範囲、ここから先はロシアの勢力範囲」と勝手に線引きをして分割したのです。
つまり、日本とロシアは裏で手を結んでおり、日本にとってロシアと戦う現実的な脅威など無かったのです。それにもかかわらず、陸軍は「ロシアの極東兵力を上回る軍備」を要求し続けました。
イギリスの無茶な要求:陸軍兵力をインドへ送れ
また、この時代に山縣有朋が国防方針を作らざるを得なかった別の理由もあります。それが「日英同盟」です。(山縣は生涯に3度も外遊をした国際感覚のある人物でした)。
日露戦争を戦い抜けたのは日英同盟のバックアップがあったからですが、1907年を前にした同盟改定の際、イギリスは日本に無茶な要求を突きつけてきました。 これまで日本の防衛担当エリアは「極東海域(ロシア・中国・朝鮮)」でしたが、イギリスは「防衛範囲をインドまで拡大しろ」と求めてきたのです。
当時、世界第1位の海軍国イギリスと、第3位の日本が結んだ日英同盟は、世界最強の海軍同盟でした。イギリスの海軍力は十分でしたが、彼らに足りなかったのは「陸軍兵力」です。 つまりイギリスの真の狙いは、「日本の陸軍兵力をインドまで輸送・派遣させること」でした。当時、イギリスとロシアは戦争状態になかったにもかかわらず、日本は自国に何の利益もない「インドへの陸兵派遣義務」を負わされそうになったのです。
歴史から推測する「現在の陸上自衛隊」が抱える重圧
この歴史を踏まえて、2022年12月の「国家安全保障戦略」を考えてみましょう。
日本政府とアメリカの最高機密レベルの協議の中で、アメリカから日本に対して「何が要請されているか」想像がつくのではないでしょうか。それはおそらく、陸上自衛隊の兵力をどこかへ(遠方へ)展開させることです。
近年、陸上自衛隊で相次ぐヘリコプター事故や銃撃事件、ハラスメント問題などをただの不祥事として片付けるべきではありません。表には決して出てきませんが、防衛力再編という巨大なプレッシャーの中で、自衛隊内部に極めて強い緊張とストレスがかかっているのだと私は推測しています。 スパイやOSINT(公開情報調査)を使わなくても、戦前期の歴史的構造(リヒャルト・ゾルゲのような優れた分析)を理解していれば、現在の公開文書からある程度の推測がつくのです。
安保3文書における「中国・ロシア」の記述と「インド」という言葉
最後に、2022年の安保3文書(国家安全保障戦略・国家防衛戦略)における実際の記述を見てみましょう。
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中国について: 「これまでにない最大の戦略的挑戦である」
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ロシアについて: 「中国との戦略的な連携と相まって、安全保障上の強い懸念である」
これはまさに、1907年の国防方針で「有るべき敵国は露国」と定めたのと同じ構図です。
さらに、現在の戦略文書には「インド太平洋地域」という言葉が頻繁に登場します。歴史家から見れば、「アジア太平洋」ではなく「インド」という言葉が組み込まれた時、そこにはかつてイギリスから「インドまで軍を出せ」と要求された歴史との不気味な符合を感じずにはいられません。
そして、「国家防衛戦略」にはこう記されています。
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「米国は中国との競争において、今後の10年が決定的なものになるとの認識を示している」
これは、「アメリカが今後の10年を危機と捉えており、日本にもそれに応じた役割を求めている」という強力なメッセージなのです。
ご提示いただいたデータは、講演の結びに向かう非常に重要な部分です。音声認識特有の誤変換(例:「石田敦純」→「石田淳」、「生還費」→「建艦費」、「未開・衝撃の地」→「瘴癘(しょうれい)の地」、「疾病気が」→「疾病飢餓」、「宇宙味化」→「内海(うちうみ)化」、「新居」→「新京(満州国の首都)」、和歌の誤変換など)を修正し、論理展開が明確になるように整理しました。
「10年」という期間と、抑止力のジレンマ
日本の防衛戦略では、「中国との戦争に備えて、今後10年間で軍備の優位を確保する」といった想定がなされています。しかし、「中国がこの10年間で国防力を2桁増、三十数倍にも増強している中で、果たして日本が準備できるまで10年も待ってくれるのか?」という当然の疑問が浮かびます。
国会の答弁などで繰り返されるキーワードに、「脅威は、能力と意思の組み合わせで顕在化する」というものがあります。「相手に侵略する意思を抱かせない」ための抑止力に関する議論ですが、オックスフォード大学などで抑止論を学んだ専門家の石田淳(いしだ あつし)氏などは、「抑止とは、相手に軍拡の意思を与えてしまう(軍拡競争を引き起こす)ものでもある」と指摘しています。
歴史からも学べることがあります。ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーや法学者カール・シュミットは、「アメリカという国は、無限に戦争をし続けられる国だ」と指摘しました。現在、無限に戦争をし続けられる国は、アメリカと中国です(ロシアなどの独裁国家は、国民の犠牲が政権の決定に届きにくいため別の次元にあります)。
これに関して、戦前の日本に教訓となる事例があります。 1930年代、海軍軍縮条約からの脱退を主導した海軍軍令部の石川信吾(いしかわ しんご)というエリート参謀は、こう主張しました。 「アメリカは今、大不況で孤立主義だ。著しく建艦費(軍艦を造る費用)を膨張させることなく、1937年以降の10年間なら日本も軍拡競争に耐えられる(だから軍縮条約から脱退しても構わない)」と。 さらに「アメリカのパナマ運河を通れないような超弩級戦艦(大和・武蔵)を造れば、アメリカもすぐには追いつけない」と甘く見積もったのです。
しかし、現実はどうだったでしょうか。アメリカは1938年(第2次ヴィンソン計画)、1940年(第3次ヴィンソン計画)と圧倒的な軍拡を行い、日本の連合艦隊に匹敵するような艦隊を丸々もう一つ作り上げてしまいました。日本が軍縮条約を脱退したことで、アメリカに「日本の脅威」を強く意識させ、凄まじい軍拡競争を引き起こしてしまったのです。
陸海軍の不一致が生んだ悲劇:河辺虎四郎の警告
私がここで「憲法9条を堅持すべきだ」と申し上げるのは、アメリカとの防衛分担を危惧しているからだけではありません。日本という国は、陸・海・空(および海上保安庁)の連携をすり合わせて、戦争を完遂できるような組織構造になっていないからです。戦前の1907年の時点でさえ無理だったのですから、現代においてもそれは極めて困難であり、だからこそ日本は「戦争をしてはいけない国」なのです。
軍の連携の不一致がいかに恐ろしい事態を招くか、一つ例を挙げます。 1930年、海軍が「予算を節約しながらアメリカに対抗するため、日本に特化した軍備を作ろう」と息巻いていた時、陸軍参謀本部の作戦課長だった河辺虎四郎(かわべ とらしろう)は、海軍に対して次のような厳しい警告(上申文書)を突きつけました。
「もし海軍が自信を持ってアメリカと戦い、その結果として敗れるようなことがあれば、陸軍はかの至難なる作戦を決行し、瘴癘(しょうれい:熱帯の病気などが発生する悪環境)の地に多くの陸兵を送ることになる。そして、疾病や飢餓によって敵陣の前に兵士を全滅させるような事態は、断じて避けなければならない」
これはまさに、後にガダルカナル島やニューギニア、ビルマなどのジャングルで、日本の陸軍兵士が飢餓とマラリアなどの病気に苦しみ、全滅していった歴史(事実)を予言するものでした。 そして歴史の皮肉なことに、この警告を発した河辺虎四郎自身が、1945年9月2日(降伏文書調印)に先立つ8月下旬、激しい台風の中でフィリピンのマニラ(マッカーサーのGHQ司令部)へ飛び、日本軍の降伏を申し入れる使節を務めることになったのです。
「海を制するに陸を用いる」:地政学的な戦前戦後の連続性
日本は日中戦争という侵略戦争を行い、英米から経済封鎖を受け、最終的にアメリカと戦争をしました。
アメリカの対日戦略(オレンジ・プラン)は、最終的に「空と海から制空権・制海権を奪って日本を降伏させる」というものでした。 これに対抗するため、日本がとった戦略は「海を制するに陸を用いる」というものです。中国大陸と朝鮮半島を抑え、日本海を内海(うちうみ)化してアメリカに対抗しようとしました。もし硫黄島、サイパン、沖縄、そして東京が陥落したら、「天皇陛下をお連れして満州国の首都・新京(現在の中国東北部)に退き、そこで徹底抗戦する」というプランまで陸軍は持っていました。
現在、中国は戦前の日本軍の作戦計画を一生懸命に研究しています。なぜなら、それが現在でも地政学的に「使える」からです。中国大陸の目線から見れば、日本列島は自国を取り囲む「第一列島線」の一部に過ぎません。
現代の安全保障や地政学について、私は最新の専門家のようなスマートなコメントはできないかもしれません。しかし、戦前の歴史的構造を徹底的に考え抜けば、現在の状況がどこへ向かっているのか、かなりの部分で推測がつきます。
結び:変わらない人間の感覚と歴史の教訓
古今和歌集に「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(藤原敏行)という歌があります。目で見て秋が来たと分からなくても、風の音で秋の気配にハッと気づく。この1000年以上前の人間の感覚が今も変わらないのと同じように、「国家がどういう時に脅威を感じ、どういう時に軍拡へ走るのか」という本質も、実は歴史を研究すればはっきりと分かってくるのです。
鹿児島は、太平洋戦争において、ミッドウェー海戦をはじめとする大きな犠牲を出した県です。同時に、西郷隆盛をはじめ、日本の海軍や近代国家の礎を築いた地域でもあります。
そうした歴史的な背景を持つ皆様には、本日お話ししたような歴史の連続性や教訓を深くお考えいただき、若い世代へと語り継いでいっていただきたいと切に願っております。
本日はご清聴いただき、誠にありがとうございました。