愛知県弥富市は今、かつてない歴史的な転換点に立たされています。
江戸時代の新田開発から戦後の大型公共事業に至るまで、常に「新たな土地」と「外部からの資金」をエンジンに発展を続けてきた私たちのまちは、いつしか「右肩上がりで成長し続ける」という幻想(成長神話)に深く囚われてしまいました。
しかし、人口減少と財政難という現実が突きつけられ、もはや「開拓すべきフロンティア」が消滅した現在。その無理な成長のツケは、一般会計だけで113億円に上る巨額の市債(借金)や、2026年に表面化した前代未聞の官製談合事件といった深刻な行政の機能不全となって現れています。
なぜ、弥富市は無責任なハコモノ行政を止められないのでしょうか? そして、次世代にこれ以上の借金を押し付けないために、今私たちが直視すべき「不都合な真実」とは何なのでしょうか。本記事では、専門的な視点から弥富市の成り立ちと現在の病理を紐解き、「持続可能な新しいまちづくり」へ舵を切るためのヒントを分かりやすく解説します。
【サマリー】さよなら「右肩上がり」の幻想。弥富市が直面する危機と、未来のための新しいルールの話
私たちの住む弥富市が今、歴史的な曲がり角を迎えています。これまでの「どんどん開発して豊かになる」という常識が通用しなくなり、巨額の借金や談合事件といった問題が吹き出しているからです。
ご提示いただいた専門的な研究レポートが伝えている「弥富市の本当の姿」と「これから私たちが考えるべきこと」を、3つのポイントで分かりやすくまとめました。
1. 弥富のルーツは「無限の成長を信じる」アメリカンスタイル
実は、弥富市の成り立ちはアメリカの「西部開拓」とよく似ています。
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海を開拓して豊かに: 江戸時代から南の海を干拓し、次々と新しい土地(フロンティア)と富を生み出してきました。
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外からお金を持ってくる: 戦後も伊勢湾台風からの復興や国営事業などで、国からの巨額な資金(外部の力)をエンジンにして成長を続けてきました。
この成功体験が長すぎたため、弥富市には「右肩上がりで成長し続けるのが当たり前」「新しいハコモノを造り続ければいい」という「成長神話」が根付いてしまいました。
2. 「フロンティア」の消滅と、暴走するハコモノ行政
しかし現在、海は埋め尽くされ、人口は減り、国からの補助金も限られています。無限の成長はもう不可能なのに、市の行政や政治の頭の中は「お花畑」のような成長神話から抜け出せていません。
その結果、起きてしまったのが以下の深刻な事態です。
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未来の世代からの「搾取」(巨額の借金):
これ以上お金がないのに開発を止められず、将来の市民にツケを回す「市債(借金)」が雪だるま式に膨らんでいます。
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ムラ社会の癒着(2026年官製談合事件):
限られたお金を身内で波風立てずに分け合う、ズブズブの癒着構造が事件として表面化しました(落札率99.09%という異常な数字がその証拠です)。
| 弥富市の財政・計画の「いま」 | 深刻な現状 |
| 市の借金(市債現在高) | 約231億円(うち一般会計だけで113億円) |
| 過去10年の借金増減 | 100億円返して、新たに157億円借りた(57億円の増加) |
| 今後のハコモノ投資予定 | 駅周辺整備や下水道などで400億円超 |
3. これからの弥富に必要な「3つの意識改革」
これ以上、見えない未来の市民にツケを回さないために、私たちは考え方を180度変える必要があります。過去の延長線上で「あれも欲しい、これも造って」と願うこと(フォアキャスティング)をやめ、「制約の多い未来」から逆算して今すべきことを決める(バックキャスティング)ことが急務です。
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「身の丈」に合わせた施設の縮小(ダウンサイジング):
「借金をしてでも新しいものを造る」という時代錯誤な考えを捨て、今ある公共施設を減らしていく現実を受け入れること。
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市民みんなで「痛みを分かち合う」覚悟:
「あれを残して、これを諦める」という痛みを伴う話し合いから逃げず、市民と議会でしっかり合意を作ること。
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ごまかしの効かない「透明な行政」へ:
癒着を生む入札制度を根本から変え、外部の厳しい目でチェックする仕組みを作り、責任の所在をハッキリさせること。
まとめ
弥富市は今、「果てしない成長の夢」から目を覚ますときです。これからは新しいものを造るのではなく、「今ある限られたものを、どうやってみんなで大切に引き継いでいくか」という成熟したまちづくりへとシフトしていく必要があります。
このピンチを、持続可能な未来をつくるための第一歩にしていけるかどうかが、今の私たちに問われています。
成長神話の終焉と新たな地域自治の模索――愛知県弥富市における政治風土の歴史的・構造的分析
1. 序論:リベラリズムの限界と地域社会における「フロンティア」の喪失
2026年6月27日付の朝日新聞において、佐伯啓思氏(京都大学名誉教授)が展開した論考「リベラリズム後の米国」は、建国以来の理念の失意と、次の時代への過渡期に直面するアメリカ社会の深層を鋭く分析している。
同氏によれば、近代社会を根底から支えてきた「リベラリズム」――個人の自由、民主的な政治、平等な人権、そして富や幸福の無限の追求を至上の価値とする思想――は、地球規模での市場競争(ネオリベラリズム)へと至り、結果として深刻な経済格差と内部の分断をもたらした。
このリベラリズムの根底にあるのは、「フロンティアの無限の拡張」という前提である。
資本主義と市場経済は、地理的、経済的、あるいは技術的な新たな領域(フロンティア)を絶えず開拓し、システム内部に包摂することによってその成長と活力を維持してきた。
人間が自らの活動や欲望の限界を越え、無限の進歩を求めるこの近代のダイナミズムは、物理的なフロンティア(西部開拓)を原動力としてきたアメリカ合衆国の建国理念、さらには独立宣言に記された「生命、自由、幸福の追求」と不可分に結びついている。
しかし、物理的な地球上の空間的フロンティアが消滅し、気候変動や資源的制約という不可避の「有限性」に直面する現代において、際限のない成長を前提とするパラダイムは決定的な行き詰まりを見せている。
本研究の主たる目的は、この「フロンティアの拡張による無限の富の追求」というマクロな文明論的視座を、日本の地方自治体、具体的には愛知県弥富市の歴史的基層および現在の政治・社会的風土に適用し、その構造的特質と現在の病理を解明することにある。
弥富市は、江戸時代から続く新田開発・干拓事業という「南への物理的フロンティア」によって形成された地域であり、その後も国営事業や大型公共事業といった「外部からの富の注入」を地域社会の成長エンジンとして駆動させてきた。
しかし、人口減少と持続可能性(サステナビリティ)が厳しく問われる現在、その「右肩上がりの成長神話」に基づく行政運営は、深刻な官製談合事件の露見や、巨額の市債(将来世代への借金)の累積という形で限界を露呈している。
本稿では、社会学者・阿部謹也の「世間」論や、近年注目を集める「バックキャスティング」思考といった多様な分析枠組みを援用しつつ、弥富市が直面している構造的危機の正体を歴史的・社会学的に検証する。
これにより、成長神話からの脱却と、有限の資源を最適化する「持続可能な地域自治」への転換に向けた理論的基盤を提示する。
2. 理論的枠組み:リベラリズム、「世間」、そして地域社会の類型
地方自治体の政治風土を精緻に分析するためには、単なる政策の成否を超えた、その地域の成り立ちに根ざす社会的基層(メンタリティ)を紐解く必要がある。
ここでは、佐伯啓思氏の「リベラリズム」論と、阿部謹也氏の「世間」論を対置させ、地域社会の類型化を試みる。
2.1. 佐伯啓思のリベラリズム論と資本主義の限界
佐伯啓思は、著書『隠された思考』や『現代日本のリベラリズム』をはじめとする一連の著作において、近代西欧の啓蒙主義を起源とするリベラリズムの限界を一貫して指摘してきた。
近代社会とは、科学技術によって自然を支配し、それを自らの自由や欲望の拡張に向けて改変する時代であった。
資本主義はこの「進歩への渇望」に適合し、16世紀の地理上の発見(空間のフロンティアの拡張)を契機として地球規模のグローバリズムへと発展した。
しかし、人間の欲望を原動力とするこのシステムは、有限であるはずの人間が「無限」へと接近しようとする極めて傲慢な試みでもある。
アメリカ合衆国は、東海岸から西海岸へと先住民を駆逐しながら「マニフェスト・デスティニー(明白なる運命)」の下にフロンティアを拡大し続け、その無限の拡張空間があったからこそ、個人の自由競争と平等な機会というリベラリズムの理念が現実の社会システムとして機能し得た。
しかし、地理的フロンティアが消滅し、金融やデジタル空間(IT)へと拡張の場を移した現代のネオリベラリズムは、富の極端な集中と社会の分断という「内部の崩壊」を引き起こしている。
2.2. 阿部謹也の「世間」論と京都的「いけず」の社会構造
アメリカ的な「無限の拡張を前提とするリベラリズム社会」と対極に位置するのが、日本の伝統的な地域社会に見られる「世間」という構造である。
阿部謹也は『「世間」とは何か』において、西洋近代の「社会(Society)」が自立した「個人」の集合体として論理的に構築されたものであるのに対し、日本の「世間」は個人を強固な絆で結びつける伝統的かつ閉鎖的な関係性の環であると定義した。
「世間」の中では、明確な会則や定款はないものの、構成員は周囲の顔色を窺い、本音と建前(内面と外面)を使い分けながら、暗黙のルールに従って生きることが求められる。
この「世間」のメカニズムが最も高度に洗練された形で現れているのが、1000年の歴史を持つ京都のような古都である。
京都に代表される歴史的都市は、四方を山に囲まれ、これ以上土地(フロンティア)が拡張しない物理的・経済的な「キャップ(上限)」が早期に設定された空間である。
限られた資源(土地、富、地位)の中で、人々が血を流すことなく共存するためには、人と人とのねっとりとした人間関係の中で、相互の境界線を侵さないための高度な調整メカニズムが必要となる。
これが、俗に「いけず」と呼ばれる文化の正体である。
いけずとは、単なる意地悪や閉鎖性ではなく、有限の空間において資源を最適に配分し、摩擦を極小化しながら社会システムを持続させるための、極めてシステマチックで合理的な文化的暗黙知なのである。
2.3. 「フロンティア型」社会と「世間的・キャップ型」社会の対比
上記の考察から、日本の地域社会の基層は、物理的・経済的な拡張余地の有無によって、大きく二つの類型に大別できる。
この対比表が示すように、愛知県弥富市は、日本の地方都市でありながら、その歴史的成り立ちにおいて極めて「アメリカ的」なフロンティア社会の性質を帯びている。
次章では、この弥富市におけるフロンティアの歴史的展開を詳述する。
3. 弥富市の歴史的基層:無限の南への拡張と富の蓄積
3.1. 尾張藩による新田開発とフロンティアの継続
弥富市の政治風土と社会的メンタリティを理解する上で、その地理的および歴史的な成り立ちは決定的な意味を持つ。
弥富市域の大部分は、江戸時代以降に木曽川下流部および伊勢湾を干拓して造成された海抜ゼロメートル地帯の新田である。
1837年(天保8年)頃には、尾張藩や豪商の出資によって八穂新田、六野新田、上野新田などが次々と開発された。
この濃尾平野下流地域における新田開発という営みは、農村における経済的余剰人口(次男、三男など)の受け皿として機能し、文字通りアメリカの西部開拓に匹敵する「フロンティア」としての役割を果たした。
山間部の農村や、耕作面積が物理的に固定された閉鎖的な地域(キャップ型社会)では、人口が増加しても農地を増やすことができない。
そのため、長男以外は村に残れず冷遇されるか、他所へ奉公に出るしかなかった。
家制度の中で結婚すらできないまま生涯を終える者も多かった。
しかし、弥富に代表される地域には、「南の海に向かって堤防を築き、海を干拓すれば新たな土地と富が手に入る」という無限の荒野(フロンティア)が常に眼前に存在していたのである。
干拓事業は、台風や高潮による破堤によって全財産を失うという莫大なリスク(亡所化)を伴うものであったが、成功すれば出資者と入植者に莫大な利益をもたらした。
この点において、弥富の形成史は、個人の力と自由競争によって富を獲得していった「アメリカ合衆国」の建国史と構造的に酷似している。
常に南へと拡張可能な空間があったため、村落内部での過度な抑圧や閉塞感は生じにくく、不満があれば「鍋釜と農機具を持って外へ出て、新しい土地を拓く」という選択肢が用意されていた。
これは、佐伯氏が指摘するリベラリズム的な「欲望の拡張」の地域的顕現であると言える。
3.2. 奢侈禁止令と余剰富の行き場
このフロンティアの存在は、弥富一帯の地域社会に莫大な「富の蓄積」をもたらした。
尾張藩は江戸時代を通じて、新田地帯を含む農村部に対して度重なる「奢侈(しゃし)禁止令」を発布している。
幕府が発布した「慶安の御触書」などに代表されるように、農民が木綿以外の華美な衣類を着ることや、身分不相応な贅沢をすることは厳しく禁じられていた。
しかし、裏を返せば、度々奢侈禁止令を出さなければならないほどに、この地域の農民(特に新田開発に成功した地主層)は経済的に豊かであったということである。
商業的な発展だけでなく、純粋な農業的拡張によって余剰の富が蓄積されていた。
3.3. 宗教的モニュメントへの投資――浄土真宗の巨刹
では、この奢侈禁止令によって消費を抑え込まれた余剰の富はどこへ向かったのか。
それが、この地域に林立する巨大な寺院群、とりわけ浄土真宗大谷派などの宗教施設への莫大な寄進である。
尾張地方、特に弥富周辺には、鎌倉時代創建で蓮如上人に帰依して改宗した「専念寺」や、明応3年(1494年)に浄土真宗に改宗した「西光寺」など、農村部には不釣り合いなほど立派な巨刹が存在する。
江戸時代、農民が個人の豪邸を建てることは身分制(奢侈禁止令)によって制限されていたが、村の共有財産であり、社会的共通資本でもある「お寺」を立派に造営することは許容され、むしろ信仰の証として奨励された。
新田開発(投資)→農業生産の拡大→余剰富の蓄積→寺院や神楽・獅子舞などの文化資本への再投資、という見事な経済循環が、江戸時代の200年以上にわたって順調に機能していた。
つまり、弥富における社会システムは、「今ある限られたものをどう分け合うか」といういけずな世間の知恵ではなく、「外から持ってきた富(新田)で全体のパイを大きくし、皆を豊かにする」という力強い成長神話をベースに構築されてきたのである。
4. 近代以降の「外部依存」メカニズムの定着
明治維新以降も、この「外部からの富と開発」による地域発展のモデルは、形を変えながら継続された。
それは自律的な内生経済の成熟というよりも、中央政府からの資金流入(外貨獲得)に依存する構造であった。
4.1. 国家プロジェクトとしての鍋田干拓と伊勢湾台風の悲劇
戦後、弥富市の鍋田干拓地は、食糧増産と海外からの引揚者、農家の二男・三男対策を目的として1946年(昭和21年)に農林省によって着工された。
これはまさに国家主導のフロンティア事業であった。1956年には一期生が入植し、新しいアメリカ的な農村づくりが夢見られた。
しかし、1959年(昭和34年)9月26日、入植後初の収穫を目前にして「伊勢湾台風」が襲来する。高潮によって堤防の95%が決壊し、鍋田干拓地は全域が水没。
住宅地と耕地は壊滅し、318名の在住者のうち、新婚の花嫁や妊婦を含む133名が犠牲となるという未曾有の大惨事となった。
4.2. 復興と外部資本の流入――国営事業とインフラ整備
この甚大な悲劇に対し、国は巨額の復興予算を投じた。
公共施設の復旧や海岸堤防の建設には莫大な国庫負担金、県補助金が投入された。
結果として、災害からの復興という大義の下で、国からの資金流入が地域経済を潤し、より強固な防災インフラを手に入れることとなった。
伊勢湾台風以降も、「外部資本の導入」は弥富市の発展のエンジンであり続けた。
その最大のものが「国営木曽川下流農業水利事業」である。
地盤沈下や施設の老朽化、石綿管(アスベスト)の破損対策として、国営事業として揚水機場や管水路の改修が行われ、数百億円規模の国費(総費用約573億円)が投じられた。
また、交通インフラに関しても、昭和40年代の東名阪自動車道や、その後の伊勢湾岸自動車道など、国や公団による広域ネットワークの整備が地域経済の燃料となった。
産業面でも、川崎重工業の工場が進出し、ボーイング社への航空機部品輸出などを行っているが、これもグローバルな市場から富を還流させる「加工貿易」という外貨獲得モデルである。
4.3. 発展の呪縛と「成長エンジン」の外部化
ここに見られるのは、常に「外からの燃料(補助金、国営事業、外資)」を投下し続けることで地域経済のエンジンを回すというシステムである。
この構造自体は高度経済成長期の日本の地方自治体に広く見られるが、弥富市の場合、前述した「新田開発による無限の拡張」という歴史的成功体験と相まって、「右肩上がりで発展し続けなければならない」という極めて強い心理的呪縛を生み出した。
アメリカが軍事産業やIT産業によって世界中から無慈悲に富を吸い上げることで内部の矛盾を覆い隠してきたように、弥富市もまた、国費や外部資本を引っ張ってくることで、地域内部の政治的・社会的矛盾を糊塗してきたのである。
5. 成長神話の崩壊と政治・行政の機能不全
「外からの富の拡張」に依存し、「今ある資源を内部で最適化する」システム(世間的いけず)を持たない地域社会が、空間的・財政的な成長の限界に直面したとき何が起きるのか。
その最も醜悪な結末が、2026年に愛知県弥富市で表面化した前代未聞の「官製談合事件」と、それに伴う財政危機である。
5.1. 2026年弥富市官製談合事件の全容と深層
2026年2月12日、弥富市発注の公共工事の入札において、建設業者に秘密情報(設計金額など)を漏洩したとして、当時の市建設部長容疑者(55)が官製談合防止法違反および公競売入札妨害の疑いで愛知県警に逮捕された。
同被告は2025年5月から6月にかけて、「弥富まちなか交流館」のリニューアル工事など3件の一般競争入札で、予定価格に近い金額で特定業者に落札させた。
裁判の過程で明らかになった事実は、この事件が単なる一職員の「魔が差した」犯罪ではないことを示していた。
対象となった「まちなか交流館」の入札では、予定価格約6億5,994万円に対し、地元工務店の落札額は6億5,400万円であり、落札率は99.09%という極めて異常な数値に達していた。
一般的に、適正な競争が働いた場合の落札率は70%〜85%に収束するとされる。99%超という数字は、予定価格が事前に正確に漏洩し、業者間での調整(談合)が完璧に行われていたことを証明する何よりの物証である。
名古屋地裁での初公判において、検察側は「1990年代から続く談合の構図で悪質性が高い」と指摘し、事態が30年以上にわたり醸成された構造的腐敗であることを明確に認定した。
被告自身も、業者の粗利が5,000万円出ないことを大問題と捉えるなど、行政官としてのコンプライアンス意識が完全に麻痺していた。結果として、2026年6月23日、立石被告には懲役2年、執行猶予3年の有罪判決が言い渡された。
5.2. 「ムラ」的癒着構造とガバナンスの欠如
この事件の深層には、弥富市の行政組織が抱える決定的な病理が存在する。
市民グループの調査レポートが指摘するように、本件の本質は「首長の管理監督責任の欠如」と「属人的な権力関係によるガバナンスの形骸化」である。
被告は、自らの所管外である教育部案件(まちなか交流館)にまで越権的に介入し、かつての部下である財政課職員から容易に機密情報を引き出していた。この背景には、安藤正明市長による異例の抜擢人事があり、権力と情報が一部の幹部に過度に集中する組織風土があった。
さらに深刻なのは、行政側の事後対応である。市長は「第三者委員会の設置」を市民に約束しながら、実際には外部識者をアドバイザーとするだけの「内部の検討委員会」にすり替えた。
また、首長自身の責任についても、第三者の客観的評価を経ずに自ら減給幅を決定するなど、保身に終始した。
さらに、市が被った数億円規模の損害(過払い金)について、不法行為に基づく連帯責任の追及など、主導業者に対する厳しい債権回収措置を怠るという「適法な財産管理の放棄(不作為)」という法的リスクすら抱えている。
ここで前述の「世間」論に立ち返ると興味深い対比が見える。
弥富市における行政と土建業者の関係は、阿部謹也が指摘するような「相互牽制による秩序維持の厳格な世間(いけず)」ではなく、「外部から持ってきた公金(あるいは市債)を、仲間内でいかに波風立てずに分け合うか」という、規律なき利権共同体としての「ムラ」であった。
本来、リベラリズム的な自由競争が機能していれば、入札は厳正な価格競争となり、市民の税金は効率的に使われるはずである。
しかし、弥富市では全案件の約90%に発注側の裁量が介入しやすい「指名競争入札」が長年用いられており、市場を少数の業者で閉鎖的に占有し続けてきた。
つまり、「外部(国や未来の世代)から富を引っ張ってくる」点ではフロンティア的な拡張主義を採りながら、「その富を分配する」プロセスにおいては、徹底して閉鎖的で非競争的な癒着構造を構築していたのである。
5.3. 未来からの収奪――膨張する市債と無責任なハコモノ行政
行政のガバナンス不全に輪をかけて深刻なのが、弥富市の破滅的な財政状況である。
令和5年度(2023年度)における弥富市の市債(市の借金)現在高は、総額で約231億8,604万円(一般会計ベースで113億円)に達しており、同年度の一般会計予算現額(約182億円)を大きく超過している。
| 財務指標(弥富市) | 金額・現状 | 備考 |
|---|---|---|
| 一般会計予算規模 | 約150億円〜182億円 |
令和5年度現額 |
| 市債(借金)現在高 | 231億8,604万円 |
一般会計のみで113億円に達する |
| 過去10年の借金増減 | +57億円 |
100億円返済する間に157億円を新規借入 |
| 今後の大型投資予定 | 400億円超 |
長寿命化137億、下水道72億、駅整備40億超等 |
過去10年間で市は100億円を必死に返済したものの、同時に157億円の新たな市債を発行しており、借金は雪だるま式に57億円増加している。
第2次総合計画には、公共施設の長寿命化(約137億円)、赤字補填が続く下水道事業(約72億円)、そして人口減少下において費用対効果が極めて疑問視されるJR弥富駅周辺整備事業(借金40億円超)など、総額400億円を超えるハコモノ事業が並んでいる。
かつての新田開発は、自然(海)を干拓することで新たな富を生み出した。
高度成長期の国営事業は、中央政府の税金を引っ張ってくることで地域を潤した。
しかし、経済成長が止まり、国からの補助金も右肩上がりではなくなった現在、弥富市の行政が新たに見つけ出した「フロンティア」は、抗議の声を上げることのできない「未来の市民」であった。
「起債(借金)をすればすごい投資ができてしまう」という発想は、まだ見ぬ将来の世代にツケを回すことによって現在の開発欲求(ハコモノ建設)と一部業者の利益を満たす、極めて無責任な「時間的フロンティアの収奪」に他ならない。
談合によって落札率が99%に高止まりした結果、本来適正な競争で削減できたはずの15%〜20%の工事費用(過去30年間で数十億円規模)が一部業者の不当利益として消えた。
この失われた莫大な富は、未来の市民が支払う税金(借金返済)によって補填されているのである。
6. 縮小社会における政策決定パラダイムの転換
6.1. フォアキャスティングの限界と「お花畑」の政治風土
なぜ弥富市の行政や市議会は、これほどまでに借金を重ねてまでハコモノ開発事業を止められないのか。
その根本的な原因は、政策立案の思考様式が旧来の「フォアキャスティング(Forecasting)」から脱却できていないことにある。
フォアキャスティングとは、現在の状態を思考の起点とし、「過去から現在まで右肩上がりだったのだから、現在に補助線を引けば将来もそうなるだろう(あるいはそうすべきだ)」と想定して計画を立てる手法である。
弥富市は江戸時代から戦後、そして高度経済成長期にかけて、実際に「新田開発→人口増→経済発展→インフラ整備」という目覚ましい右肩上がりの成功体験を重ねてきた。
この強烈な成功体験が行政や議会のDNAに深く刻み込まれているため、「発展し続けなければならない」「どこかからお金を持ってきて、何か大きなものを造らなければならない」という呪縛から逃れられないのである。
しかし、日本全体、そして弥富市が直面しているのは、不可逆的な人口減少と超高齢化という現実である。
第2次弥富市総合計画でも、指標上は人口減少と高齢化の進行が確認されており、地域生活に密着した農業や商業の停滞が明確に指摘されている。それにもかかわらず、出てくる政策は「JR駅周辺の巨大開発」や「巨額のインフラ更新」といった、成長期と何ら変わらないバラ色のハコモノ行政である。
これは、人口減少という「不都合な真実」を直視せず、根拠のない右肩上がりの幻想を抱き続ける一種の「お花畑のような」政治的妄想である。
市議会において各議員が「あれもしてほしい、これも造ってほしい」と個別要望を無責任に並べ立てる態様は、無尽蔵に富が湧き出ていたフロンティア時代のパラダイムそのものである。
6.2. バックキャスティングの導入による持続可能性の模索
この危機的状況を打破するために対極として求められる概念が「バックキャスティング(Backcasting)」である。
これは、制約の多い未来(例えば、人口が2割減少し、税収が大幅に落ち込み、気候変動が激化する未来)のリアルな姿を直視し、その「避けられない未来(あるいは到達すべき持続可能な目標)」を起点として逆算し、今何をすべきかを決定する思考法である。
例えば静岡市や浜松市などの先進的な地方自治体では、人口減少や多文化共生社会の到来といった将来像をバックキャスティングによって厳格に設定し、それに合わせて都市機能の集約や公共施設の統廃合(ダウンサイジング)を総合計画に組み込み、自治体経営を行っている。
弥富市においては、予算(パイ)がこれ以上増えない中で新たな市民ニーズを実現するためには、過去の遺物(ハコモノ)を削るか、さらに借金をするしかない。
しかし、京都の「いけず」のような、限られたパイの中で他者と摩擦を起こしながらも「削るための調整」を行う文化的素地やガバナンスを持たないため、結果として誰も痛みを伴わない「安易な市債の発行(未来からの借金)」へと逃避してしまうのである。
7. 結論:新たなる地域自治の再構築に向けて
佐伯啓思氏が「リベラリズム後の米国」において指摘したように、無限の拡張と個人の欲望追求を前提とした近代の社会システムは、世界規模で限界に達している。
ドナルド・トランプ氏のような過渡期の政治家が、失われたフロンティアを腕力で取り戻そうとあがいているように、弥富市の行政もまた、過去の栄光(開発と建設による成長)の幻影を追い求めてもがいている状態にある。
弥富市の政治風土は、南の海への干拓という「フロンティア」の存在によって形成された、極めてアメリカ的な、開拓者精神と拡張主義にあふれるものであった。
それは確かに、数百年間にわたってこの地域に莫大な富をもたらし、豪華な寺院や豊かな文化を育む原動力となった。
しかし、海が埋め尽くされ、国の予算が縮小し、人口が減少に転じた今、物理的・経済的なフロンティアは完全に消滅した。
それにもかかわらず、成長と開発の夢から覚めない行政の態度は、結果として官製談合という醜悪な癒着構造と、113億円に上る市債という巨大な負の遺産を生み出した。
これは、限られた資源の中で厳密な配分ルールを構築する「世間」的な最適化システム(京都の「いけず」のような相互牽制や痛みを伴う調整メカニズム)を培ってこなかったことの歴史的代償でもある。
今後、弥富市が財政破綻を免れ、次世代に責任を持てる地域自治を再構築するためには、以下のパラダイムシフトが不可避である。
-
「フロンティア志向」の完全な放棄: 「外から国費を持ってくる」「借金をしてでも新しいものを造る」という時代錯誤の成長神話を完全に捨て去り、自治体の真の財政規模(身の丈)に合わせた徹底的な公共施設のダウンサイジングを受け入れること。
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バックキャスティングによる徹底した議論と「痛みの分かち合い」: 20年後、30年後の人口動態と財政の破局的予測を冷徹に見据え、そこから逆算して「今、何を諦めるべきか」「どの施設を統廃合すべきか」という、痛みを伴う合意形成(最適化)を行うプロセスを、市議会と市民の間で確立すること。
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ガバナンスの透明化と「ムラ」的癒着体質の根絶: 「身内での公金の分配」に成り下がっていた指名競争入札の偏重を抜本的に是正し、真の第三者による監視機能を導入することで、行政と業者の癒着構造を完全に解体し、首長自らが法的責任と債権回収の義務を果たすこと。
弥富市に必要なのは、もはや新たな新田を干拓し、巨大なハコモノを建設することではない。「これ以上土地は広がらないし、人口も増えない」という絶対的な有限性の前提の下で、今ある資源、今いる人々の関係性をいかに持続可能な形で維持していくかという、新しい成熟社会のモデルを構築することである。
リベラリズム的な拡大成長の夢(お花畑)から目を覚まし、「限られた空間内での協調と最適化」という新たな倫理的価値観へと移行できるかどうかが、弥富市、ひいては日本の地方自治体の存亡を分ける歴史的な分水嶺となるのである。