💡 【3分でわかる】世界に誇る日本の「国民皆保険」〜その誕生秘話とこれからのミライ〜
私たちがいつでも、どこでも、少ない自己負担で病院にかかれるのは、世界的に見ても当たり前のことではありません。1961年(昭和36年)に誕生した「国民皆保険(こくみんかいほけん)」は、いかにして生まれ、現在どのようなピンチを迎えているのでしょうか?
市民の皆様に向けて、その歴史的背景と世界との比較、そしてこれからの課題をわかりやすくサマリーしました。
1. どん底からのスタート:戦後の「医療難民」を救え!
第二次世界大戦後、日本の医療制度はボロボロでした。物価の異常な上昇で病院は立ち行かなくなり、国民の多くは「病気=家計の破綻」という無保険状態(医療難民)に置かれていました。
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「生活保護」ではなく「保険」という選択:
当時の政府は、困った人を後から助ける「生活保護(救貧)」ではなく、事前にお金を出し合って権利として医療を受ける「社会保険(防貧)」を国の制度の柱に選びました。これは「誰もが堂々と医療を受けられるように」という個人の尊厳を守るための決断でした。
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3000万人の無保険者をゼロへ:
1950年代半ば、高度経済成長が始まる一方で、農林水産業の人や中小企業で働く人など、国民の約3分の1(3000万人)が保険に入っていませんでした。政治の力によって1958年に新しい法律ができ、すべての市町村に「国民健康保険」の実施が義務付けられました。
2. 1961年の奇跡:激しいストライキを乗り越えて
制度を作ろうとする政府に対して、実は医療を提供する側(日本医師会)からは猛反発がありました。
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医師たちの全国一斉休診:
「政府が医療費を安く抑え込みすぎている」と反発した医師会は、1961年2月に全国で一斉休診(ストライキ)を決行しました。あわや「保険制度崩壊」という国家的危機に陥りました。
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土壇場の政治決着:
政府と医師会の間でギリギリの交渉が行われ、診療報酬(医療の値段)の引き上げなどを条件に和解(4項目合意)。こうして1961年4月、全国すべての市町村で国民皆保険がついにスタートしました。
3. 世界と比べると、日本の「コスパ」は最強?
日本の制度は、アメリカやヨーロッパの主要国と比べても非常にユニークで優れた特徴を持っています。
| 国名 | 医療へのアクセス(特徴) | 患者の自己負担 | 課題・デメリット |
| 日本 | フリーアクセス(好きな病院に直接行ける) | 原則3割負担(上限を超えると返金される制度あり) | 軽症でも大病院に行けるため、医師が過重労働になりやすい。 |
| アメリカ | 民間保険が中心(公的保険は高齢者等のみ) | 非常に高い(加入する保険による) | 医療費による自己破産が多い。無保険者も未だに多い。 |
| イギリス | ゲートキーパー制(まずは必ず「かかりつけ医」へ) | 原則無料(税金で運営) | 専門医に診てもらうまでに数ヶ月〜年単位の順番待ちが発生。 |
| フランス・ドイツ | 社会保険方式(日本に近い) | 比較的安い(自己負担の上限や払い戻しあり) | – |
日本の「自己負担は原則3割だけれど、高額療養費制度で上限が守られている」「いつでも好きな専門医に診てもらえる(フリーアクセス)」という仕組みは、世界最高水準の長寿国・日本を支える最強のセーフティネットです。
4. 忍び寄るピンチと、これからの課題
しかし、この素晴らしい制度も、現在大きな壁にぶつかっています。
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お医者さんの「がんばり」に頼りすぎている
いつでも誰でも病院に行けるため、日本の外来は「3時間待ち3分診療」と揶揄されるほど過密です。安い単価でたくさんの患者を診るという、医療従事者の過酷な労働によって制度が支えられています。
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少子高齢化で支え手が足りない
市町村単位で細かく分かれている現在の保険財政は、お年寄りが増え、現役世代が減る未来においては維持が難しくなります。
🌟 ミライに向けて私たちができること
1961年に先人たちが激しい対立を乗り越えて「国民皆保険」を作ったように、これからは制度のマイナーチェンジだけでなく、抜本的な見直しが必要です。例えば、イギリスのような「かかりつけ医(ゲートキーパー)」機能の強化や、保険財政の広域化など、次世代に制度を引き継ぐための新しい「社会契約」を結び直す時期に来ています。
1961年の国民皆保険制度:設立の歴史的経緯と医療保障制度の国際比較における構造的分析
日本の社会保障制度史において、1961年(昭和36年)は国家と国民の社会契約が新たに結ばれた決定的な転換点として位置づけられる。
この年、すべての国民がいずれかの公的医療保険に加入し、必要な医療を保障される「国民皆保険」体制が確立された。
この制度は、世界最高水準の平均寿命を達成しつつ、マクロ経済的にも医療費を一定水準に抑制するという、国際的に見ても特異かつ優れたパフォーマンスを発揮してきた。
本報告は、日本の国民皆保険制度がどのような歴史的、政治的、および社会経済的背景のもとで設立されたのかを極めて詳細に紐解くとともに、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカといった主要先進国との多角的な制度比較(財源調達、自己負担構造、アクセス権、マクロ経済指標等)を行い、国際的視座から日本の医療保障制度の特質と、その背後に潜む構造的課題を浮き彫りにするものである。
医療保障制度の歴史的萌芽と戦後復興期の壊滅的状況
日本の公的医療保険の歴史は、近代化に伴う工業化と労働問題への対応として幕を開けた。
第一次世界大戦後の不況による労働争議の激化を背景に、1922年(大正11年)に制定された「健康保険法」は、主として工場法や鉱業法の適用を受ける15人以上の事業所に雇用される労働者を対象とした職域保険であり、労働者の保護と国家産業の発展を企図したものであった。
この時期、神戸仲仕健康保険組合のような総合健康保険組合が設立され、戦後の業界型健康保険組合の先駆けとなった。
続いて、1930年代の昭和恐慌による農村の極端な疲弊を背景として、1938年(昭和13年)に「国民健康保険法」が制定された。
これは自営業者や農民を対象としたものであったが、当時は任意加入を原則とする地域保険制度であり、日中戦争から太平洋戦争へと向かう戦時体制下における「健兵健民(健康な兵士と国民の育成)」という軍事的・国家的な目的が強く反映されていたため、全国的な普遍性を持つには至らなかった。
第二次世界大戦の終結時、日本の医療保険制度は壊滅的な打撃を受けていた。
戦災による生産設備の破壊や軍需産業の停止により、健康保険の被保険者数は戦前のピーク時の約4割にまで激減し、国民健康保険組合の4割以上が財政難から事業休止に追い込まれる事態となった。
さらに、戦後の激しいインフレーションの進行により、診療報酬の実質的価値が暴落した。
これを嫌忌した医師や医療機関が統制を逃れて自由診療へと傾斜した結果、1947年時点での保険診療の割合はわずか3割程度にまで低下し、国民の大半が実質的な無保険状態に近い医療難民と化していた。
ベヴァリッジ報告の衝撃と1950年勧告:社会保障の哲学的転換
こうした極限状況下で制定された日本国憲法は、第25条において「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定し、社会保障に対する国の責務を初めて明確に宣言した。
この憲法理念を具現化するにあたり、日本の制度設計者に決定的な影響を与えたのが、1942年にイギリスで公表された「ベヴァリッジ報告(社会保険および関連サービス)」である。
同報告は、社会に蔓延する5大巨悪(窮乏、疾病、無知、不潔、無為)のうち、特に「窮乏(Want)」を根絶するためには、包括的な社会保険制度によるナショナル・ミニマム(国民の最低限度の生活水準)の保障が最適であると提唱した。
日本の厚生省官僚や社会政策の研究者たちは戦時中からこの報告を密かに研究しており、戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による急進的な民主化要求を受け入れるための強力な「概念的触媒」として機能した。
そして1950年(昭和25年)、社会保障制度審議会が出した「社会保障制度に関する勧告(50年勧告)」は、生活困窮者に対する事後的な救済(救貧)から、社会保険を中核とした事前の生活保障(防貧)への政策的転換を強く提唱した。
この勧告において、税を財源とする公的扶助(生活保護等)ではなく、「社会保険方式」が社会保障の中核として選択された背景には、極めて重要な哲学的・心理的判断が存在した。
資力調査(ミーンズテスト)を伴う公的扶助は、受給者に「貧困者」としてのスティグマ(烙印)を押す危険性がある。
これに対し、社会保険は国民が事前に保険料を拠出することによって、慈善や恩恵ではなく「権利」として給付を享受できる仕組みであり、これが自立した自由な個人の尊厳に最もふさわしいと考えられたのである。
しかし、イギリスのように租税を財源として全国民を単一の制度に統合する国民保健サービス(NHS)を創設するのではなく、日本は既存の職域保険(被用者保険)を維持しつつ、未加入者を地域保険(国民健康保険)に統合するという、分立型の社会保険方式を選択した。
この経路依存的な選択が、その後の制度運営において、職域間・地域間の格差是正や複雑な財政調整という永続的な課題を生む要因となった。
国民皆保険体制の確立に向けた政治的動態と「55年体制」
1950年代半ば、日本は高度経済成長の緒に就いたが、社会には大企業と中小零細企業、あるいは都市と農村との間に顕著な「経済の二重構造」が形成されていた。
大企業の労働者が充実した職域保険に守られる一方で、中小零細企業の労働者、不安定就労者、農林水産業従事者など、国民のおよそ3分の1にあたる約3000万人が公的医療保険の適用外、すなわち無保険状態に置かれていた。
病気が即座に家計の破綻と貧困に直結するこの状況は、極めて劣悪な労働環境と相まって重大な社会不安の火種となっており、国民皆保険の実現を求める声が急速に高まった。
この機運を政治的に加速させたのが、1955年の「55年体制」の成立である。
社会党の左右両派の統一に対抗する形で、保守2党が合同して自由民主党(自民党)が誕生し、イデオロギーを異にする二大政党による激しい政治的競争が開始された。
社会保障の拡充が有力な集票基盤となり、体制の正当性を担保する手段となる中、1956年1月に鳩山一郎内閣が総合的な医療保障の達成を掲げ、同年12月には石橋湛山内閣が国民皆保険の実現を正式に閣議決定し、政策の焦点は一気に具体化へと向かった。
皆保険を達成するための最大の法的枠組みが、1958年(昭和33年)の「新・国民健康保険法」の制定である。
旧法の下では市町村による国保の実施は任意であったが、新法はすべての市町村に対して1961年4月までに国民健康保険事業を実施することを法的に義務付けた。
これにより、職域保険に加入していない国民は、自身の居住する市町村の国保への強制加入が原則となった。
制度設計の過程において、社会保障の専門家たちは小規模な市町村ではリスク分散が効かず保険財政が不安定になることを見越し、都道府県単位での広域運営を進言していた。
しかし、地方自治の観点や政治的な妥協が優先された結果、市町村単位での運営が維持されることとなった。
その代償措置として、療養給付費に対する20%の国庫補助の義務化や、市町村間の格差を埋めるための調整交付金制度(費用額の5%)が創設され、国からの継続的な財政支援によって制度を底支えする重層的な財政構造が決定づけられた。
1961年の危機:日本医師会との激しい折衝と「4項目合意」
法制面での整備が着々と進む一方で、医療の供給側である日本医師会との対立はかつてない激しさを増していた。
武見太郎会長に率いられた日本医師会は、政府管掌健康保険の慢性的赤字に起因する診療報酬の支払い遅延や、意図的に低水準に据え置かれた診療報酬単価(1点単価)、さらには保険診療に対する厳格な制限(制限診療)に対して強硬に反発した。
医師会は、医療費をマクロ的に低く抑え込もうとする政府の政策が、医師の職業的裁量を奪い国民医療の質を著しく低下させると主張し、皆保険体制への協力を拒む構えを見せた。
1961年に入ると、この対立は頂点に達した。年初の予算編成において、政府・自民党が提示した診療報酬の引き上げ幅(10%にとどまる内容)を不服とした日本医師会は、2月19日に全国一斉休診を敢行した。
この休診には全国の開業医の約4割にあたる約2万人が参加し、社会に大きな衝撃を与えた。
さらに日本医師会は、要求が容れられない場合、7月1日をもって全国の医師が保険医の指定を辞退する「保険医総辞退」に突入すると通告した。
これが実行されれば、国民は保険証を使って医療を受けることができなくなり、発足直後の皆保険制度は事実上崩壊することになる。
この国家的な医療危機を回避するため、古井喜実厚生大臣から交代した灘尾弘吉厚生大臣および自民党三役(保利茂総務会長、福田赳夫政調会長ら)と、武見会長を中心とする日本医師会との間で、極限の折衝が重ねられた。
その結果、土壇場でいわゆる「4項目合意」が成立した。この合意には、①差し当たりの措置として診療報酬単価を1円から相当上回る額に引き上げる、②制限診療の大幅な緩和(学会が緊急必要と認める医薬品の保険適用、手術機器や検査回数の実情に即した容認)、③医療保険制度の抜本的改正の検討、④医療基本法の制定に向けた準備、などが盛り込まれていた。
結果として、薬価等を据え置く一方で診療報酬全体として12.5%の実質的引き上げが行われることになり、これを評価した日本医師会は保険医総辞退を取りやめ、医療供給体制の崩壊は辛くも回避された。
同時に、皆保険達成の最後の地理的障壁となっていた大都市圏への導入も進められた。
戦後の社会的混乱等で普及が遅れていた6大都市においても、1959年12月に日本最大の被保険者数(約250万人)を抱える東京都特別区(23区)が、東京都医師会の激しい反対運動を押し切って国保の実施に踏み切ったことが突破口となった。
これに神戸市などが続き、最終的に1961年4月には全国すべての市町村での実施が完了し、名実ともに「国民皆保険」が達成されたのである。
制度確立後の展開:「福祉元年」から持続可能性確保の時代へ
1961年の皆保険達成は、医療保障の到達点ではなく、さらなる制度拡充の出発点であった。
達成当初、国民健康保険の自己負担割合は5割と非常に高く、重い病気に罹患した際の経済的負担は依然として過酷であった。
しかし、高度経済成長による税収と保険料収入の飛躍的な増加を背景に、制度は段階的に拡充されていく。1961年中に世帯主の自己負担が3割へと引き下げられ、1968年には家族(世帯員)の負担割合も3割に引き下げられた。
その頂点を極めたのが、1973年(昭和48年)の「福祉元年」である。この年、老人医療費の無料化、被用者保険の被扶養者給付率の7割への引き上げが実現した。
さらに特筆すべきは「高額療養費制度」の創設であり、患者の自己負担が一定限度額(当初は1世帯で月額3万円)を超えた場合、超過額が保険から払い戻される仕組みが導入され、国民は破滅的な医療費支出から完全に保護されることとなった。
しかし、福祉元年をピークに、同年に発生したオイルショックを契機とする低成長期への移行と、急速な人口高齢化の進行により、制度は重大な転換を余儀なくされる。
高齢者の増大による医療費の膨張と現役世代の負担増という構造的問題に対応するため、1980年代以降は老人保健制度の創設や、被用者本人の自己負担(1割負担から段階的に引き上げ)の導入など、財政の持続可能性を確保するための厳しい制度見直しが断続的に行われることとなった。
現在に至るまで、国民皆保険は「フリーアクセス」と「平等な医療提供」という根幹を維持しつつ、後期高齢者医療制度の独立や自己負担割合の細かな調整を通じて、制度の延命と再構築を図り続けている。
主要国における医療保障制度の国際比較:構造的差異の分析
日本の国民皆保険制度の特性と優位性、および潜在的な脆弱性を客観的に評価するためには、欧米主要国(ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ)の医療保障制度との綿密な比較が不可欠である。
各国の制度は、その国の歴史的背景、国家観、市場主義への依存度によって大きく異なり、主として「財源調達と制度の枠組み」、「患者の自己負担」、「医療機関へのアクセス権」の3つの次元で分類される。
財源調達方式と制度類型
| 国名 | 制度類型・財源方式 | 適用対象と制度の枠組み |
|---|---|---|
| 日本 | 社会保険方式(多額の公費投入を伴う) |
職域・地域別の強制加入による国民皆保険。全市民が公的制度に包含される。 |
| ドイツ | 社会保険方式 |
疾病金庫を主体とする事実上の皆保険。国民の約87%が加入。一定所得以上の者は公的保険を脱退し、民間保険への加入義務に切り替えることが可能。 |
| フランス | 社会保険方式 |
職域別の強制加入による国民皆保険。公的保険に加えて、自己負担分を補填する共済組合等(補足的医療保険)が極めて広く普及。 |
| イギリス | 税方式(一般財源) |
国家運営の国民保健サービス(NHS)による全居住者対象の無料制度。社会保険のような拠出要件を問わない。 |
| アメリカ | 民間保険中心 + 限定的公的プログラム |
現役世代は民間保険主体。高齢者・障害者(メディケア)および一定要件の低所得者(メディケイド)のみ公的保障の対象。事実上、国民皆保険が存在しない。 |
日本の制度は、1883年に世界で初めて社会保険を創設したドイツ型のビスマルク・モデルを踏襲しつつも、イギリス型の税方式の長所(普遍的適用)を取り入れ、多額の公費(税金)を投入して国保などの保険財政を支えている点に特徴がある。
フランスやドイツは伝統的に税財源への依存度が低く、労使の拠出による社会保険料を主たる財源としている。
対照的にアメリカは、政府が個人の生活に干渉しないという自己責任の精神と、州権限の強さを背景に、国家による医療保障を高齢者等の特定層に限定しており、全国民を対象とした公的保険を有していない例外的な先進国である。
2014年以降の医療保険加入の義務化(オバマケア)を経てもなお、2016年時点で9.1%の無保険者を抱えている。
患者の自己負担と経済的保護メカニズム
患者が医療サービスを受ける際に窓口で支払う費用(自己負担)の構造も、各国の医療哲学を色濃く反映している。
| 国名 | 外来診療の自己負担 | 入院診療の自己負担 | 薬剤・その他の負担や免除措置 |
|---|---|---|---|
| 日本 |
原則3割(就学前・70〜74歳は2割、75歳以上は原則1割。現役並み所得者は3割) |
原則3割。ただし高額療養費制度により所得に応じた月額上限が設定され、超過分は免除・還付される。 |
薬剤も原則同割合。年齢・所得に応じたきめ細かな負担調整が存在。 |
| ドイツ |
なし(無料) |
1日につき10ユーロ(年間28日を限度)。 |
10%定率負担(下限5ユーロ、上限10ユーロ)。年間所得の2%(慢性疾患患者は1%)が自己負担の絶対上限。 |
| フランス |
30%(償還制:窓口で全額立替後、還付) |
20%(現物給付) |
薬剤の有用性に応じて0%(抗がん剤等)、35%、70%、100%(ビタミン剤等)と細かく傾斜配分。 |
| イギリス |
なし(原則無料) |
なし(原則無料) |
外来処方薬は1処方当たり定額(約8.40ポンド)負担。歯科も定額。高齢者や妊婦はこれらも免除。 |
| アメリカ |
メディケアPart B(任意):年間166ドルの免責額 + 医療費の20%負担。 |
メディケアPart A:60日までは1,288ドルの免責額のみ。61〜90日は日額322ドル負担。生涯60日を超える長期入院は全額自己負担。 |
薬剤(Part D)は負担割合が段階的に変動し、高額なブランド薬では最大45%負担。自己負担の逆進性が極めて高い。 |
日本の自己負担率は「原則3割」と先進国の中では比較的高く設定されているように見えるが、高額療養費制度によって月額の負担上限が所得に応じて厳格に設定されているため、破滅的な医療費支出から保護される強力なセーフティネットが機能している。
ドイツやイギリスは、必要な医療は無料で提供されるべきという原則が強く、外来診療での自己負担がほとんどない。
フランスの公的保険は日本と同等水準の自己負担を求めるが、償還制をとっており、多くの国民が民間共済に加入して自己負担分をカバーしている。
アメリカのメディケアは、生涯における利用日数制限や極めて複雑な負担構造(ドーナツホールと呼ばれる全額自己負担区間の存在など)を持っており、これが医療費による自己破産が社会問題化している最大の要因となっている。
医療機関へのアクセス:フリーアクセスとゲートキーパー
国民が医療を必要とした際、どのように医療機関を受診できるかという「アクセス権」の比較において、日本の制度は特異な利便性を有している。
日本、ドイツ、アメリカは「フリーアクセス」を採用しており、患者は初期症状であっても、自身の判断で専門医や高度な医療設備を持つ大病院を自由に選択し受診することができる。
これに対し、イギリスやフランスでは「ゲートキーパー(かかりつけ医)制度」が導入されている。
特にイギリスでは、すべての住民が「GP(General Practitioner:一般診療医)」と呼ばれる地域のかかりつけ医への登録を義務付けられており、患者はどのような症状であってもまずGPを受診しなければならない。
専門医の診察や高度な検査は、GPが必要と判断して紹介状を書いた場合にのみ受けることができる。
イギリス等のゲートキーパー制度は、不必要な高度医療の抑制や医療費の適正化に強い効果を発揮する一方で、専門医の診察や待機的・非緊急の手術を受けるために数ヶ月から年単位の長期間の順番待ち(待機行列)が生じるという深刻なデメリットを抱えており、これを回避するために高所得者が民間医療保険に「二重加入」する事態を招いている。
日本のフリーアクセス制度は、患者の選択権を最大限に尊重し、疾病の早期発見・早期治療に大きく寄与している反面、軽症患者の大病院への集中による勤務医の過重労働や、不必要な重複受診(はしご受診)による医療費増大を招きやすいという構造的弱点を内包している。
マクロ経済的評価と国際比較から見る日本の立ち位置
制度のパフォーマンスをマクロな視点から評価するため、OECD(経済協力開発機構)の「Health Statistics」等を用いた医療費と医療資源の分析を行う。
医療保障制度のコスト効率を示す代表的な指標として「対GDP比の総保健医療支出(総医療費)」がある。
2024年の最新のOECD推計によると、アメリカの医療費はGDPの17.2%(1人当たり約14,775ドル)を占め、他の先進国を圧倒して世界最高水準にある。次いでドイツが12.3%、フランス、カナダ等が10〜12%のグループを形成している。イギリスはコロナ禍を経て高止まりしつつも9.3%前後である。
日本は過去十数年にわたり概ね10.9%〜11.0%前後の水準で推移しており、G7をはじめとする主要先進国の中では中規模からやや高水準に位置している。
しかし、医療費の最大の増大要因である「人口の高齢化率」を考慮に入れると、対GDP比で見た日本の医療費は、世界トップクラスの高齢化社会であるにもかかわらず、国際的に見て極めて合理的な範囲に抑制されていると評価できる。
アメリカは公的皆保険を持たないにもかかわらず、高額な民間保険料、複雑な制度による莫大な行政管理コスト、および薬価・診療単価の市場競争による高騰により、GDP比率で日本の1.5倍以上、1人当たり額では約2.5倍の医療費を費やしている。
それにもかかわらず、アメリカの成人の肥満率は54%に達し、平均寿命はOECD平均を下回るなど、医療支出が国民の健康アウトカムに直結していないというパラドックスを抱えている。
一方で、日本の医療システムが相対的に低コストでフリーアクセスと長寿を維持できている背景には、医療資源、特に「人的資源の偏在と過密労働」という歪みが存在する。
日本の人口1000人当たりの医師数は2.4〜2.7人程度であり、OECD平均の約3.5〜3.9人を大きく下回っている。
医師数が相対的に少ないにもかかわらず、国民はゲートキーパーを介さずに自由に医療機関を受診できるため、日本の医療システムは構造的に「薄利多売」のモデルに陥っている。
すなわち、全国一律の細かな診療報酬体系(出来高払い)によって医療処置ごとの単価(1点単価)が低く抑えられており、医療機関は経営を維持するために極めて多数の患者を短時間で診察せざるを得ず、結果として「3時間待ち3分診療」と揶揄されるような外来の過密状態を生み出している。
この出来高払いと全国一律の診療報酬体系は、1958年に報酬体系が統一されて以降、政府と日本医師会との間で繰り広げられた政治的綱引き(前述の1961年の武見太郎による一斉休診と4項目合意など)を通じて形成されたパワーバランスの産物である。
日本医師会は医療費全体の総枠規制には激しく反対しつつ、個別の技術や処置に対する点数配分を通じて自由診療的な裁量を守ろうとし、他方で政府は1点単価を厳格にコントロールすることでマクロな財政破綻を防いできた。
この絶妙かつ緊張感のある均衡が、結果として「世界最高水準の平均寿命」と「低い自己負担・平等なアクセス」を、OECD平均に近い医療費で実現するという、ある種の奇跡的な医療経済システムを構築し維持してきたのである。
結論:歴史的遺産の評価と持続可能な制度構築に向けた展望
1961年に完成を見た国民皆保険制度は、日本国憲法の生存権理念とイギリスのベヴァリッジ報告の理念的影響を背景としつつも、現実には「経済の二重構造」の是正という切実な社会課題と、55年体制下における激しい政治的競争を推進力として産み落とされた。
イギリスのように国家が一般税収を用いて医療機関を直接運営するのではなく、既存の職域保険に市町村単位の地域保険をパッチワークのように継ぎ足し、診療報酬という精緻な価格統制メカニズムを通じて民間主体の医療提供体制をコントロールする日本独自の社会保険方式は、結果として世界に類を見ない「フリーアクセスかつコスト効率の高い平等な医療」を実現した。
しかしながら、国際比較から明らかになる日本の制度の脆弱性は、その成功要因の裏返しでもある。
市町村という小規模な保険者を多数抱える分立型体制は、超高齢社会において構造的な財政基盤の弱さを露呈している。
また、ゲートキーパーを持たないフリーアクセスと出来高払い制度の組み合わせは、医療従事者の献身的な過重労働によって事実上支えられており、労働人口が加速度的に減少する将来において現在の提供体制を維持することは極めて困難である。
さらには、COVID-19パンデミック時に一時的に増加したものの、日本の予防医療への支出割合は依然として低く、長期的な医療費抑制の観点からは課題が残る。
医療費の自己負担割合の調整や、病床の再編といったこれまでの漸進的なマイナーチェンジから一歩踏み出し、今後は、フランスやドイツに見られるような保険財政の広域化・一元化や、イギリスのような「かかりつけ医」機能の制度的強化による適切なアクセス制限(ゲートキーピング的要素の導入)など、国民皆保険の理念を次世代に引き継ぐための抜本的な構造改革が不可避となっている。
1961年の皆保険達成が、極限の利害対立を乗り越えた先人たちの強烈な政治的意志と社会的な連帯の産物であったように、現在の制度疲労を克服するためにも、新たな社会契約としての持続可能な医療保障ビジョンの再構築が急務である。