私たちの住む弥富市。かつて水害のリスクと闘いながら泥沼の低湿地を自らの手で切り拓いた「開拓者たちのまち」は今、かつてない危機に直面しています。
昭和から平成にかけて次々と作られた公共施設の老朽化、約300億円規模にまで膨れ上がった市の借金(ローン地獄)、そして現在、防災と予算の観点から真っ向対立し大論争となっている「よつば小学校」の統廃合問題――。 なぜ、私たちのまちはこれほど重いツケを背負うことになったのでしょうか?
江戸時代の「お寺」の役割から、明治・昭和期の「学校建設を目的とした村の合併」、そして右肩上がりの成長を信じて突き進んだ平成の「ハコモノ行政」まで。弥富の自治の歴史を「公共施設」という身近な視点から紐解くと、現在の複雑な市政ニュースの裏側が驚くほどクリアに見えてきます。
これ以上、将来の世代に負の遺産を残さないために。そして、子どもたちの命と教育環境を守り抜くために。今、すべての弥富市民に知ってほしい「まちの現在地」と「未来への選択」を、わかりやすいストーリーでまとめました。
弥富の自治と学校統廃合の歴史:お寺の寄り合いから平成の大合併まで
日本の地方自治の仕組みは、どのようにして現在の形になったのでしょうか。
私たちの住む弥富市(旧弥富村・弥富町、旧十四山村)の歴史を「学校」や「公共施設」という身近な視点から紐解くと、当時の人々の暮らしや国づくりのリアルな姿が見えてきます。
1. 江戸時代:お寺は村の「コミュニティセンター」だった
明治時代に近代的な市町村制度ができるずっと前から、弥富の地域には自分たちで村を治める「自治」の土台がしっかりとありました。
江戸時代の初め頃、弥富の海岸線は現在の国道1号線やJR東海道線のあたりにありました。
そこから幾度も堤防の決壊を乗り越え、文字通り泥臭く進められたのが「新田開発(干拓)」です。
ここには、農家の長男として家を継げない次男・三男や、他所から一旗揚げようとやってきた人々が集まりました。
数年間の非課税措置というチャンスを活かし、必死に働いて土地を手に入れていったのです。
新田開発で成功し富を得た農家ですが、当時の厳しい身分制度により、立派な玄関や座敷を自宅に作ることは許されませんでした。
では、そのお金はどこへ行ったのでしょうか。
多くはお寺への寄進に充てられました。
当時のお寺は、戸籍事務(宗門改)を担う役場であると同時に、今で言う公民館や老人福祉センターのような、村人の「公共財産(社会的共通資本)」でした。
立派なお寺が多いこの地域の風景は、当時の成功者たちが村のために築いたコミュニティの証なのです。
2. 明治時代:学校づくりが「村づくり」の第一歩
明治に入り、西洋から近代的な政治制度が輸入されると、村のあり方は大きく変わります。
その中心にあったのが「学校」です。
江戸時代の寺子屋は、明治初期にはそれぞれの字(あざ)の名前を冠した「義校(ぎこう)」へと発展しました。
その後、明治22年(1889年)に市町村制が施行されると、本格的な「小学校」の整備が地方自治の最大のテーマとなります。
当時の明治政府が掲げた「富国強兵」の下、全国一律の教育を行うためには、小さな村のままでは立派な小学校は作れません。
「小学校を建てるために、村の規模を大きくする(合併する)」という流れが、地方自治制度を形作っていったのです。
3. 戦後と昭和の大合併:新時代の「中学校」を作るために
昭和20年代後半、戦後の新憲法のもとで現在の「6・3・3制」がスタートしました。
ここで新たな課題が生まれます。それまでの小学校(国民学校)とは別に、「中学校」という新しいハコモノを新たに作る必要が生じたのです。
中学校を運営するには、一定の生徒数と財政規模が必要です。
これが全国的な「昭和の大合併」の大きな引き金となりました。
弥富の地域でも、例えば当時の鍋田村は、単独で中学校を維持することが難しく、昭和30年に弥富町との合併を選択しました。
これにより、弥富町の中学生はみんな同じ弥富中学校(現在の日の出小学校の場所)に通うことになりました。
一方の十四山村も、現在の十四山東部小学校の場所に十四山中学校を設立し、昭和50年頃には鉄筋コンクリートの立派な校舎を建てています。
つまり、昭和の合併は「中学校を作れる規模になるため」の現実的な選択だったのです。
4. 1980年代以降:ベッドタウン化と「コミュニティ政策」
高度経済成長期を経て、昭和30年代には集団就職などで都市部への人口移動が激しくなりました。
1980年代に入ると、従来の農村集落のつながりは薄れ、弥富のような大都市近郊はベッドタウンとしての役割を強めていきます(スプロール現象やミニ開発の進行)。
ここで行政の新たな課題となったのが「コミュニティの再構築」です。
国からの補助金や、「将来の世代も使うのだから」という理屈での起債(借金)を元手に、各市町村は図書館、コミュニティセンター、老人福祉センターといった公共施設を次々と建設しました。ハード面での整備が急ピッチで進んだ時代です。
5. 平成の大合併と現代の課題:ハコモノの「整理整頓」
しかし、1990年代後半に入ると、生産年齢人口の減少という深刻な事態に直面します。
1980年代に各市町村が借金をしてまで建てた多くの公共施設は、およそ30年後に「大規模修繕」の時期を迎えました。
これには建設費の半分近くにもなる膨大なコストがかかります。
「市町村ごとに作った公共施設が多すぎた。これを減らさなければならない。」 これが、平成の大合併の裏側にある最大の目的でした。
平成の合併で誕生した新しい市町村は、見方を変えれば「抱えすぎた公共施設を統廃合しなければならない自治体」だったとも言えます。
逆に言えば、無理なハコモノ行政をせず、身の丈に合った施設整備をしてきた自治体は、無理に合併する必要がなかったのです。
おわりに
弥富の歴史を振り返ると、江戸時代のお寺から始まり、明治の小学校、昭和の中学校、そして平成のコミュニティ施設と、「人々が集まる場所(公共施設)」の規模や目的が、そのまま行政の形や市町村の境界線を決めてきたことがわかります。
これからの弥富市を考える上でも、この「身の丈に合った公共施設のあり方」は、引き続き重要なテーマとなるでしょう。
地方自治の変遷とコミュニティの再編:弥富市の歴史的展開から読み解く公共施設マネジメントの現在地
地方自治の基層と近代化の波:生存戦略としての地域共同体
日本の地方自治の実態は、単なる中央政府から下達された行政制度の変遷にとどまらず、地域住民がその土地の地理的・経済的環境とどのように向き合い、共同体を維持してきたかという「生存戦略」の歴史そのものである。
とりわけ愛知県南西部に位置し、木曽川下流の海抜ゼロメートル地帯に展開する弥富市(旧・弥富村、弥富町、十四山村、鍋田村など)の歴史は、日本の地方自治体が辿ってきた栄枯盛衰の軌跡を極めて鮮明に映し出している。
江戸時代の過酷な新田開発に始まり、明治期の学制と軍事体制の導入による村落の再編、昭和期の学校建設を伴う市町村合併、そして高度経済成長期の公共施設乱造(ハコモノ行政)を経て、現代の深刻な財政難と統廃合問題に至るまで、弥富の歴史は日本全国の自治体が直面している構造的課題の縮図である。
本報告では、日本の市町村制度の歴史的展開を背景に置きつつ、弥富市の行政および学校統廃合の変遷を詳細に紐解き、地域コミュニティという「社会的共通資本」がいかに形成され、そして現在いかなる危機に直面しているのかを多角的な視点から論説する。
江戸時代:新田開発と「身代分け」が生んだフロンティア精神
弥富市の市域の大部分は、江戸時代以降に伊勢湾を干拓して造成された土地である。
1607年(慶長12年)、徳川家康の命による「御囲堤」の建設を契機に、尾張藩の主導のもと大規模な干拓が進められた。
しかし、海面干拓は台風や高潮によって幾度も堤防が決壊する極めてリスクの高い事業であり、一度決壊すれば新田は海水に浸かり、復旧の目途が立たずに放棄される「亡所(もうしょ)」となることも珍しくなかった。
このような過酷な自然環境下において、濃尾平野下流部には「身代分け(しんしょわけ)」という独自の生存戦略が存在した。
一般的な農村では、農地の零細化を防ぐために田畑の分割相続(たわけ)は厳しく戒められ、長男のみが家督と財産(身代)を相続し、次男や三男は他家へ奉公に出るか、村内で冷遇されるのが常であった。
しかし、この水郷地帯では、次男・三男に対して鍋や釜、布団、当座の米といった最低限の生活物資を持たせ、泥沼のような低湿地に向かわせることで、自らの手で新たな田畑(新田)を切り拓くことを許容、あるいは奨励したのである。
本家は分家の新田開発を支援し、分家はその恩義として田植えや普請の際に本家に労働力(手間)を提供するという強固な相互支援のエコシステムが形成された。
この制度は、閉塞感を生みやすい封建制の村落共同体において「外に出て新しい土地を拓く」という拡張可能な空間(フロンティア)を提供し、地域住民の間に無限の成長を信じる精神的土壌を育んだ。
社会的共通資本としての寺院と「建築制限」のパラドックス
この新田開発によって莫大な富を蓄積した豪農や開拓者たちであったが、当時の封建制度下では厳格な身分統制と奢侈禁止の論理が貫かれていた。
町人や百姓は、武士の特権であった「玄関」や立派な「座敷」を自邸に設けることが固く禁じられており、家屋の構造そのものが身分を表象する装置として機能していた。
新田開発で成功し、現代でいうところの富裕層となった農民たちは、その余剰資金を自らの住居の拡張に向けることが制度上不可能であった。
その結果、蓄積された富は「寺院への寄進」という形で地域社会へ還流することとなる。
彼らは村の信仰の拠り所である寺院に多額の寄進を行い、本堂や山門を立派に造り上げることで、間接的に自らの社会的・経済的成功を証明したのである。
江戸初期における寺社は、単なる宗教施設にとどまらず、幕府の政策である寺請制度(宗門人別改帳の作成)により戸籍事務を担う末端の行政機関でもあった。
さらに、村の集会所であり、教育機関(寺子屋)であり、文化伝承の場としての機能も兼ね備えていた。
すなわち、江戸時代から明治初期にかけての寺院は、現代の市役所、公民館、図書館、社会教育センターをすべて統合した「社会的共通資本」であり、特定の個人の私有財産ではなく、村の真の公共財産として機能していた。
弥富市周辺に現在も立派な寺院群や、それに付随する伝統工芸(仏壇、神輿、山車などの製造・修復技術)が残存しているのは、法的な建築制限がもたらした資本の公共化という歴史的メカニズムの産物であると言える。
明治期:近代化の波と「学校・軍事」を軸とした自治空間の再編
明治維新を迎え、西洋から近代的な統治システムが輸入されると、地方自治のあり方は根本的な変容を遂げる。
明治政府が急務としたのは、「富国強兵」と「国民皆学」の実現であり、地方自治体(町村)は、警察、消防、そして何より「学校」を維持するための基礎単位として再編されていった。
1889年(明治22年)に施行された市町村制は、日本の近代的地方自治の骨格を決定づけるものであった。
寺子屋から「義校」、そして近代小学校へ
明治の幕開けとともに、江戸時代の寺子屋は「義校(ぎこう)」という過渡的な形態を経て近代的な小学校へと発展していく。
弥富の地域においても、1873年(明治6年)11月に鯏浦村に「鯏浦義校」が、五明村に「五明義校」が設立され、地域の児童の普遍的教育を担い始めた。
これらは後に濯秀学校、鯏浦尋常小学校などと改称・統合を繰り返し、現在の弥富市立弥生小学校へと連なっていく。
当時の学校建設と村落規模の間には、極めて密接な相関関係が存在した。
近代的な尋常小学校を設立し、文部省の定める教育プログラムを組織的に展開するためには、旧来の小さな字(あざ)単位の村落では財政的にも児童数においても規模が小さすぎた。
明治22年の市町村制施行に伴う「明治の大合併」は、本質的には「独立した小学校を単独で維持できる規模」を基準として、全国の村落を強制的に統合するプロセスであった。
| 時代区分 | 教育・公共施設の形態 | 社会的背景・統治システム |
|---|---|---|
| 江戸期 | 寺院・寺子屋(教育・戸籍・集会機能を統合) | 封建制、建築制限(玄関・座敷の禁止)、寺請制度 |
| 明治初期 |
義校(例:1873年 鯏浦義校・五明義校) |
学制発布、国民皆学の理念の浸透 |
| 明治中期以降 |
尋常小学校(例:1892年 鯏浦尋常小学校) |
明治22年市町村制、明治憲法、富国強兵と徴兵制 |
富国強兵、徴兵令と次男・三男の選択
学校教育の整備と並行して進められたのが、国民を軍事的に統合するための徴兵制の確立である。
1873年(明治6年)に発布された徴兵令は「国民皆兵」を謳いながらも、その実態は極めて不平等なものであった。
当初の制度では、戸主やその嗣子(跡取り)は家制度の維持を理由に免役とされ、さらに270円という高額な代人料(免役料)を納付することでも兵役を逃れることが可能であった。
これにより、実際に兵役に就くのは「代人料を払えない貧困層の次男・三男」に偏ることとなった。
東北地方などの山間部の農村において、軍隊は次男・三男にとって「口減らし」や「安定した給与を得るための数少ない脱出口」として機能していた。
しかし、弥富周辺の次男・三男には、他地域とは異なる第三の選択肢が存在した。
前述した「新田開発による身代分け」である。未開拓の湿地帯という物理的なフロンティアが存在したため、彼らは必ずしも兵隊や都会の職工になる必要はなく、過酷な干拓労働に耐えれば自らの土地を持つことができた。
この地域特有の地理的条件が、労働力の極端な流出を防ぎ、地域の農業的基盤を強固なものへと押し上げる要因となったのである。
昭和の大合併と戦後教育システム(6・3・3制)の波及
太平洋戦争の終結と敗戦を経て、日本は新憲法と教育基本法のもと、現在に続く「6・3・3制」の教育体系を導入した。
戦前の旧制中学校が新制高校へと再編され、国民学校の高等科などを母体として、各市町村に新たに「新制中学校」が設立されることとなった。
この新制中学校の誕生こそが、戦後の地方自治における最大の再編トリガーとなる「昭和の大合併」を引き起こした。
中学校建設を目的とした町村合併
中学校は小学校に比べて教育の専門性が高く、必要な施設(理科室、技術室、広大なグラウンドなど)も大規模になるため、一定の生徒数と強固な財政基盤が不可欠であった。
当時の小さな町村単位では、新制中学校を単独で建設・維持することは極めて困難であった。
弥富地域においても、1955年(昭和30年)に弥富町と鍋田村などが合併を選択した。
この合併の最大の推進力は「中学校の統合と新設」であった。
当初は異なる村落共同体同士の間に心理的な壁が存在したが、「子どもたちが同じ中学校に通い、共に学ぶことで、将来的に全員が同じ郷土の同窓生として連帯できる」という理念のもと、1958年(昭和33年)に両村の中学校が統合され、新たな「弥富中学校」が誕生した。
同様に、十四山村においても1947年(昭和22年)に十四山東部小学校の隣接地に十四山中学校が開校し、のちに新校舎や村民体育館が順次整備されていった。
中学校の学区の設定は、そのまま新たな自治体の「コミュニティの輪郭」を決定づける重要な社会的インフラとなったのである。
伊勢湾台風という圧倒的試練と復興の都市計画
昭和期の弥富を語る上で欠落させられない出来事が、1959年(昭和34年)9月に襲来した伊勢湾台風である。
特に、戦後の食糧増産を目的に国の直轄事業として干拓が進められ、1957年(昭和32年)に第一期の入植が始まったばかりの鍋田干拓地では、高潮により堤防の95%が決壊し全域が水没した。
在住者318名中133名が犠牲になるという壊滅的な被害を受けたのである。
この未曾有の災害は、海抜ゼロメートル地帯という弥富の宿命を改めて浮き彫りにした。
その後の復興計画においては、オランダ式の堅牢な海岸堤防の建設に加え、「第二線堤防(本堤とは別に集落を守るために設けられた防御堤)」の構築、微高地への集落の集団移転、鉄筋コンクリート造の耐災住居の整備など、防災を最優先としたハード面での都市計画が強力に推進された。
この災害の記憶は、後述する現代の公共施設整備論争においても決定的な意味を持つこととなる。
高度経済成長からコミュニティ政策へ(1970年代〜1990年代)
昭和40年代以降、集団就職や高度経済成長による都市部への人口流入に伴い、大都市である名古屋近郊に位置する弥富町は、ベッドタウンとしての性格を急速に強めていく。
ここで地方自治体が直面した新たな課題が、急激なスプロール現象(無秩序な都市化)の制御と、「旧来の村落共同体(コミュニティ)の実態的な解体」への対応であった。
都市計画法と「5万人都市構想」の挫折
1970年(昭和45年)、新都市計画法の施行に伴い、愛知県は弥富町に対して東名阪自動車道に至る広大な範囲を「市街化区域」とする「5万人都市構想」を提示した。
しかし、地元の強硬な反対によって北部の開発計画は大幅に縮小され、中心市街地は駅周辺から市役所エリアに限定されることとなった。
これは、地域の農地や景観を守ろうとする住民自治の現れであると同時に、後の税収基盤の拡大や都市機能の集積という観点からは、一つの歴史的転換点(成長の制約)となった。
「ハコモノ」行政と借金依存のコミュニティ政策
1980年代に入ると、従来の農山漁村における集落機能が実態としてほぼ解体されつつあることが全国的な共通認識となり、国を挙げて「コミュニティ政策」が推進されるようになった。
これは、自然発生的な村落共同体に代わり、行政が主導して図書館、コミュニティセンター、老人福祉センターといった「ハコモノ」を整備し、人工的にコミュニティの核を創出するというアプローチである。
この時期、国は地方自治体に対して多額の補助金を用意し、不足分については地方債(借金)の発行を強く奨励した。
「公共施設は現代の世代だけでなく、30年後の世代も利用する社会的資本であるから、借金をして将来世代にも負担を分かち合わせる(世代間負担の公平性)べきだ」という理屈が行政の実務において急速に正当化されたのである。
結果として、各市町村は自らの本来の財政規模(身の丈)を度外視し、競うように豪華な文化施設や体育館を建設した。
江戸時代において、新田開発の成功者が私財を投じて寺院という「社会的共通資本」を無借金で築き上げたのとは対照的に、昭和後期から平成初期にかけての公共施設整備は、将来の人口増加と永続的な経済成長(右肩上がりの幻想)を前提とした「借金頼み」の産物であった。
平成の大合併と公共施設マネジメントの破綻(過去20年の迷走)
1995年をピークに日本の生産年齢人口が減少に転じ、総人口も減少社会へと突入すると、地方行政の前提条件は完全に崩壊した。
ここで推進されたのが「平成の大合併」である。
なぜ合併が必要だったのか:過剰な公共施設の清算
平成の大合併の真の目的は、単なる行政コストの削減にとどまらず、市町村ごとに乱造された「多すぎる公共施設の整理統廃合」にあった。
逆に言えば、身の丈に合った需要予測に基づき、必要な施設のみを堅実に整備してきた自治体にとっては、合併のメリットは薄く、単独市制を貫く道を選択することも可能であったはずである。
弥富町は2006年(平成18年)4月1日に十四山村を編入し、市制を施行して「弥富市」となった。
しかし、合併によってもたらされたのは規模の経済による恩恵というよりも、むしろ旧両町村がそれぞれ抱えていた膨大な公共施設群の維持管理という重い十字架であった。
迫り来る「ローン地獄」と大規模修繕コストの重圧
過去40年間に建設された学校、保育所、市役所、スポーツ施設などは、現在一斉に老朽化のピーク(築25年〜30年超)を迎えている。
弥富市の財政状況は極めて深刻な水準に達している。
一般会計と下水道事業会計を合わせた負債総額は約300億円規模に膨れ上がり、市民一人当たり約150万円、一世帯当たり約120万円の借金を抱える「ローン地獄」の淵に立たされている。
現在、市は過去の借金返済に年間約11億円を費やしている上、建設費や人件費の高騰により、公共施設の大規模修繕費用は当初想定の1.3〜1.5倍に跳ね上がり、年間12億〜13.5億円が必要と試算されている。
さらに、51年間にわたる下水道事業の投資が生んだ「見えない借金」が270億円に達し、毎年5億円の赤字を垂れ流しているという事実も行政運営に暗い影を落としている。
借金の返済と施設の延命措置だけで財源が枯渇する状況下において、市は貯金を切り崩しながら新たな借金を重ねる綱渡りの財政運営を余儀なくされている。
統廃合の最前線:弥富市の学校再編と「よつば小学校」問題が突きつける課題
このように財政が極度に逼迫し、少子化が加速度的に進行する中で、弥富市が現在直面している最大の地域課題が「小学校の再編(統廃合)」である。
児童数の減少により、大藤小学校、栄南小学校、十四山東部小学校、十四山西部小学校の4校は、近い将来すべて全校児童100名未満の過小規模校(各学年単学級または複式学級)となることが確実視されている。
文部科学省の指針が示す「1学年2学級以上」という適正規模を維持し、集団の中での多様な学習活動や、教科担任制の導入などを可能にするため、市はこれら4校を統合し、2028年(令和10年)4月に新たな「弥富市立よつば小学校」を開校する基本方針を決定した。
防災と跡地利用を巡る激しい対立
しかし、この統合計画は、新設校の「建設予定地」を巡って地域社会に深刻な分断と論争を引き起こしている。
市側は、既存の「十四山西部小学校」の敷地を活用して新校舎を整備する計画を策定し、約19億3000万円の予算で大栄・弥富特定建設工事共同企業体と再編整備工事の契約を結ぶ方向で事業を推進している。
これに対し、多くの市民や有識者からは、海抜ゼロメートル地帯特有の「水害リスク」の観点から猛烈な批判が噴出している。
過去の伊勢湾台風の浸水実績を十四山西部小学校の立地に当てはめると、水位は校舎の2階部分にまで達すると予測されており、公共施設であり、かつ災害時の広域避難拠点となるべき小学校の立地として、防災上致命的な欠陥を抱えているという指摘である。
反対派は、代替案として、統合に伴い2025年(令和7年)3月に閉校となったばかりの「十四山中学校跡地」に小学校を新設することを強く主張している。
十四山中学校の跡地は、周辺の地盤よりも高く盛土されて造成されており、十四山西部小学校に比べて防災面・敷地面積の両面で圧倒的に安全性が高いとされているためだ。
市議会においても、地域の意見を背景とした「小学校統合に伴う新校設立計画の見直しを求める決議」が可決され、十四山中学校跡地への新設方針への変更が公式に提案されるなど、事態は紛糾を極めた。
この強い反発と議会の動向を受け、弥富市は十四山中学校の跡地について「新グラウンドを整備する」としていた当初の方針案を白紙撤回し、よつば小学校の整備が完了する2028年(令和10年)4月までは、十四山中学校の既存校舎を取り壊さずに地域の「緊急避難所」として残置・継続活用するという方針の修正を発表した。
これは、行政が市民の安全に対する不安の声を完全に無視することができず、整備方針の再検討に追い込まれた結果と言える。
サマリー(総括と未来への教訓)
本報告の分析から導き出される、弥富市の行政史および公共施設マネジメントに関する核心的知見は以下の通りである。
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「身代分け」と無借金の公共財産(江戸期): 弥富地域の基盤は、過酷な自然環境下における次男・三男の「身代分け」による新田開発というフロンティア精神によって築かれた。また、厳しい建築制限により富裕な農民が自邸を拡張できなかった結果、余剰資本が寺院の建立(寄進)に向かい、借金に依存しない堅牢な「社会的共通資本(地域の公共施設)」が形成された。これは、国や藩の力に依存しない高度な住民自治と資本循環の原点であった。
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学校規模が規定する自治体の輪郭(明治〜昭和): 明治期の「義校から近代小学校への移行」、そして戦後の「新制中学校の設立」という教育制度のハードウェア的要請が、明治の大合併および昭和の大合併を強力に推し進めた。学校区の設定は、バラバラであった村落の住民を「同じ学校の同窓生」へと変容させ、新たな自治体コミュニティを物理的・心理的に統合する最大のエンジンとして機能した。
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借金依存による「ハコモノ」の肥大化と限界(高度成長〜平成): 1980年代以降のコミュニティ政策により、将来の人口増や経済成長を前提とした地方債(借金)による公共施設の建設ラッシュが起きた。しかし、人口減少社会に突入した現代において、それらは莫大な維持管理費(年間12億〜13.5億円)と負債(約300億円規模)に化け、弥富市の財政を極限まで圧迫している。平成の大合併の実態は、この過剰なハコモノ行政の清算作業に他ならず、現在もそのツケを払い続けている状態である。
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安全保障と教育環境のジレンマ(現在): 2028年に開校予定の「よつば小学校」を巡る立地論争(十四山西部小学校跡地 vs. 十四山中学校跡地)は、過去の伊勢湾台風の悲劇の記憶を抱える地域社会において、「行政の財政的・計画的都合」と「市民の生命を守る防災拠点(避難所)としての安全性」が真っ向から衝突した象徴的な事象である。
かつて泥沼を干拓して未知のフロンティアを切り拓き、自立した共同体を築き上げた弥富の歴史は、今、極めて困難な課題を突きつけている。
それは、これ以上拡大することのない都市空間と収縮する財政の中で、いかに賢く施設を統廃合(ダウンサイジング)させ、次世代に負の遺産を残さずに教育環境と安全を守り抜くかという、「内的フロンティアの開拓」である。行政と住民が対話を取り戻し、真の社会的共通資本を再構築できるかどうかが、これからの地方自治の試金石となる。