年、施設の老朽化や記録的な酷暑、教員の過重労働など、公立学校の水泳授業はかつてない存続の危機に立たされています。さらに、家庭環境の違いによる「命を守るスキルの体験格差」も深刻化する中、いま教育現場で大きな注目を集めているのが、元水球日本代表キャプテン・清水裕介氏による革新的な取り組みです。
「泳がなくていい」「ゴーグルは外す」という従来の常識を覆す逆転の発想から生まれた「アクアゲーム」は、水難事故から命を守るサバイバルスキルを遊びながら自然に身につけられる画期的なプログラムです。トップアスリートの知見を活かしたこの授業は、子どもたちの恐怖心を払拭するだけでなく、教員の心理的・法的負担を劇的に軽減し、持続可能な学校水泳の新たなモデルとして期待されています。
本稿では、学校水泳教育が迎えたパラダイムシフトと、外部人材活用がもたらす多角的なメリットについて、市民の皆様にも分かりやすいQ&A形式で解説します。
Q1: 現在、学校の水泳授業やプール施設にはどのような問題があるのでしょうか?
A1:
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日本の学校プールは施設の老朽化が一斉に進んでおり、莫大な維持管理コストがかかっています。
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また、近年の地球温暖化による猛暑で、安全に授業を実施できない日が増えています。
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教育現場では、教員の過重労働や安全管理のプレッシャーが大きな課題となっています。
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さらに、スイミングスクールに通える子どもとそうでない子どもの間で、命を守る技術を獲得する機会に「体験格差」が生まれていることも深刻な問題です。
Q2: そうした課題に対して、どのような新しい取り組みが行われているのですか?
A2:
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元水球日本代表キャプテンの清水裕介氏が立ち上げた法人「アスヒロ」が、学校の授業に赴き「アクアゲーム」という新しい水泳指導を行っています。
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従来の「正しいフォームで泳ぐ」ことを絶対とする指導から脱却し、トップアスリートの知見を取り入れることで、水泳授業のあり方を大きく変えようとしています。
Q3: 「アクアゲーム」とはどのような授業ですか?普通の水泳とは違うのですか?
A3:
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大きく異なります。この授業は「泳がなくていい」という逆転の発想からスタートします。
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水球を安全にアレンジし、「足をついて移動してよい」などのルールを設けて、ボールを追いかけたり仲間にパスをしたりして遊びます。
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ゲームに熱中する楽しさを通じて、子どもたちは無意識のうちに水中でバランスを取り、自然と水に慣れていくことができます。
Q4: 授業であえてゴーグルを使用しないと聞きましたが、なぜですか?
A4:
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海や川での致命的な水難事故の大半は、日常着でゴーグルをしていない無防備な状況で発生するためです。
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事故の際、目に水が入る恐怖からパニックに陥ることを防ぐため、顔が水に濡れ、目を開けた状態で冷静に状況を把握する「水慣れ」を、最優先の実用的なサバイバルスキルとして身につけさせています。
Q5: このような外部の専門家による授業は、学校の先生たちにもメリットがあるのでしょうか?
A5:
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はい、非常に大きなメリットがあります。水泳授業での事故は、万が一の際に教員や行政が極めて重い法的責任を問われる傾向にあります。
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専門的な技術指導を必要としないアクアゲームを外部人材が進行することで、先生たちは技術指導のプレッシャーから解放されます。
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これにより、先生はプールサイドからの安全監視や児童の見守りに専念できるようになり、事故のリスクと教員の負担を劇的に減らすことができます。
Q6: 今後、学校の水泳教育はどのように変わっていくべきだと提案されていますか?
A6:
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まず、学校の水泳の目標を「綺麗に泳ぐこと」から「水難事故から命を守り、水への恐怖心を克服すること」へと再定義すべきだと提案されています。
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また、施設の維持問題に対しては、民間施設への完全委託(高浜方式)や、複数校でプールをシェアして民間と協働する方式(弥富市構想など)、既存のプールに外部指導者を招く方式など、地域の実情に合わせた柔軟な仕組みづくりが必要です。
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最終的には、公教育としてすべての子どもたちに公平に水と触れ合う機会を提供し、楽しく命を守る術を身につけられる持続可能な環境を作ることが求められています。
学校水泳教育のパラダイムシフトと外部人材活用の可能性:元オリンピアンによる「アクアゲーム」導入の教育的・社会的意義と持続可能なプール運営の模索
1. 序論:学校水泳教育が直面する歴史的転換期と本稿の目的
2026年7月10日付の朝日新聞教育面において、元水球日本代表キャプテンの清水裕介氏が展開する学校水泳事業の取り組みが詳報された。
本記事は、東京都内の公立小学校(武蔵野市立本宿小学校など)における水泳授業の現場を舞台に、現在の日本の公教育が直面している複雑な課題と、その解決に向けた革新的なアプローチを見事に提示している。
清水氏は、筑波大学を経て国内クラブやオーストラリア、イタリア、ハンガリーなどの海外プロリーグで活躍し、2016年のリオデジャネイロオリンピック、2021年の東京オリンピックにおいて水球日本代表の主将を務めたトップアスリートである。
引退後の2022年に一般社団法人「アスヒロ」を設立し、「身近なオリンピアン」として学校現場へ赴き、水球をアレンジした「アクアゲーム」を通じて児童生徒の指導を行っている。
現在の学校プールを取り巻く環境は、施設の老朽化、気候変動による酷暑化、教員の過重労働と安全管理のプレッシャー、そして家庭環境に起因する教育格差といった複合的な構造課題(ポリクライシス)に直面している。本報告書では、清水氏が提唱する「泳がなくていい」という逆転の発想がもたらすスポーツ心理学的・教育学的効果を分析する。
さらに、愛知県などで進行している「学校プールの完全民間委託化」の議論と比較しながら、トップアスリートの知見がいかにして公教育における体育のあり方を再定義し、持続可能な教育エコシステムの構築に寄与しているか、その多角的な波及効果を明らかにする。
2. 水泳指導におけるパラダイムシフト:「泳力」から「水難事故防止と水慣れ」へ
2.1. 「泳がなくていい」という逆転の発想とフォーム至上主義からの脱却
清水氏が授業において標榜する「泳がなくていい」というスタンスは、長きにわたり日本の学校水泳を支配してきた「フォーム至上主義」に対する強烈なアンチテーゼである。
従来の水泳授業では、クロールや平泳ぎにおける息継ぎのタイミング、手足の動かし方など、技術的な「正しさ」が絶対的な評価基準とされてきた。
このアプローチは、運動が苦手な児童や水への恐怖心を抱く児童に対して、早い段階で挫折感や劣等感を植え付ける原因となっていた。
清水氏の授業では、水泳に苦手意識を持つ児童に対し、きれいに泳ぐ技術を一切要求せず、「ボールを必死に追いかける」という単純明快な目標を与える。
これにより、児童の意識は「うまく泳がなければならない」という自己評価のプレッシャーから解放され、「ボールを取る」という外部へのフォーカスへと切り替わる。
これはスポーツ心理学における「内在的焦点(自分の身体の動きへの意識)」から「外在的焦点(外部の目的への意識)」への転換であり、運動学習をスムーズにし、心理的障壁を取り除く極めて有効なアプローチである。
2.2. ゴーグル不使用の真意:サバイバルスキルの獲得とパニック防止のメカニズム
清水氏が授業においてあえてゴーグルを使用させない点には、水難事故防止に対する深い洞察が隠されている。
教育現場では近年、ゴーグルなしでは顔に水をつけられない児童の増加が危惧されているが、この「ゴーグルへの過度な依存」は、実際の水難事故の現場におけるパニックを誘発する最大の要因となる。
海や河川への不意の転落など、致命的な水難事故の大半は、日常着を着用し、かつゴーグルをしていない無防備な状況で発生する。
この際、目に水が入る恐怖から目を開けられず、方向感覚を失いパニックに陥ることが溺水への直接的なトリガーとなる。
清水氏が水難事故対策として「怖さをなくしてあげることが第一優先」と提唱するように、顔が水に濡れ、目を開けた状態で水中や水上の状況を冷静に把握する「水慣れ」こそが、クロールで25メートルを泳ぎ切る技術よりも遥かに重要かつ実用的なサバイバルスキルである。
授業に参加した児童が、水に入った際に「目を瞑ればよいだけだった」と気付きを得たことは、未知の恐怖に対する適切な対処法(パニック・コントロール)を自らの経験を通じて獲得した証左と言える。
2.3. 内発的動機づけを喚起する「アクアゲーム」の緻密なルール設計
清水氏が導入した「アクアゲーム」は、水球の要素を取り入れつつ、児童が安全に楽しめるよう緻密にルールが工夫されている。
水球は本来、足のつかない深いプールで「立ち泳ぎ(巻き足)」で行われる過酷なコンタクトスポーツであるが、学校現場向けのアクアゲームでは以下のような特別ルールが設けられている。
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足をつけて移動してよい: 常に底に足がつくという安心感が、水に対する恐怖心を根底から和らげる。
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身体接触の制限: タッチされたら仲間にパスを出すという制約により、水中の格闘技と呼ばれる水球の危険性を排除している。
このルール設計は秀逸である。
特定の運動能力の高い児童によるボールの独占を防ぎ、チーム全員の参加を促す。
ゲームに熱中し、ボールを追いかけ、仲間にパスを繋ごうとする過程で、児童たちは「顔が濡れることへの不快感」を忘却する。
無意識のうちに水中で浮き、バランスを取り、水圧に逆らって移動するという、水泳に必要な基礎的な身体操作が自然と促されていくのである。
苦手を克服させるために苦痛を伴う反復練習を強要するのではなく、「楽しさに繋がっていく経験が有効だ」という清水氏の信念は、自発的で楽しい活動そのものを目的とする「内発的動機づけ」と、対象に完全に没入する「フロー体験」を見事に引き出している。
3. 学校プール施設の維持管理問題と外部委託(民間活用)の現状
公立学校が抱える課題は、カリキュラムの面だけにとどまらない。
物理的なインフラストラクチャーとしての「プール施設」そのものが、現在、地方自治体の財政を大きく圧迫する要因となっている。
3.1. 物理的・環境的制約:施設老朽化と気候変動の直撃
日本の多くの公立学校のプール施設は、高度経済成長期から昭和後期にかけて整備されたものが多く、現在その一斉更新時期を迎えている。
プール施設の維持管理には、清掃、ろ過装置の稼働、水質・水温管理、さらには老朽化した塗装や設備の修繕など多額のライフサイクルコスト(LCC)がかかる。
これに加え、近年の地球温暖化に伴う異常な酷暑は、屋外での水泳授業を物理的に困難にしている。
水温や気温が安全基準を超過し、熱中症のリスクから授業を実施できない日が増加しているのである。
年間を通じてわずか数週間しか使用されない施設に対する莫大な投資は、財政的な見直しを迫られている。
3.2. 民間委託へのシフトと「高浜方式」の功罪
こうした背景から、愛知県高浜市などを皮切りに、自校のプール施設を全廃し、水泳授業を民間の屋内スイミングスクールへ完全委託する動きが全国的に広がっている。この「高浜方式」と呼ばれるモデルは、以下の利点を持つ。
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コスト削減: 数億円規模の大規模改修コストを回避し、維持費を削減できる。
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環境の安定: 屋内温水プールを利用するため、天候や猛暑に左右されず計画通りに授業を進行できる。
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専門的指導: 民間のインストラクターによるレベル別の指導が受けられる。
一方で、完全な民間委託には、地域の防災拠点(非常用貯水槽)としての機能喪失や、地域コミュニティの健康増進拠点の喪失といった戦略的リスクも指摘されている。
また、民間施設へのバス移動に伴うロジスティクス負担や、着衣泳など学校独自の安全教育カリキュラムの実施が民間施設では困難になるというデメリットも存在する。
| 運営モデル | 概要と主な導入事例 | メリット | デメリット・課題 |
|---|---|---|---|
| 従来型(自校プール維持) | 学校内の屋外プールを使用し、教員が指導を行う。 | 移動時間が不要。カリキュラムの自由度が高い。着衣泳などの実施が容易。 | 維持管理コストが莫大。天候・酷暑による授業中止リスク。教員の負担過重。 |
| 完全民間委託型(高浜方式等) |
自校プールを廃止し、民間スイミングスクールへバス移動して委託指導。 |
施設改修費の大幅削減。屋内環境による計画的実施。専門家による泳力向上。 |
バス移動の手間と費用。民間施設のキャパシティ依存。防災拠点(水がめ)の喪失。 |
| ハイブリッド型(弥富市構想等) |
複数校で一つの可動式屋根付きプールをシェアし、民間と協働運営する構想。 |
財政負担の最適化。天候への適応。地域の防災拠点機能の維持。 |
初期投資の発生。関係機関(市・学校・民間企業)の複雑な利害調整とSPC設立等の枠組み構築。 |
| 外部指導者招聘型(アスヒロ等) |
自校のプール施設を活用しつつ、アスリート等の外部専門家を学校に招いて特別授業を行う。 |
既存インフラの活用。教員の指導負担軽減。高い内発的動機づけと非日常的な教育体験の提供。 |
施設の老朽化や天候リスクは従来型と同様に残存する。継続的な人材確保の必要性。 |
清水氏の「アクアゲーム」導入事例(武蔵野市等)は、表中の「外部指導者招聘型」に該当する。
ハードウェア(施設)の統廃合を進める自治体が多い中、ソフトウェア(指導内容と指導者)を革新することで既存の自校プールの教育的価値を再定義するアプローチと言える。
4. 教員の負担軽減と安全管理における法的リスクの回避
「アクアゲーム」の導入は、児童だけでなく教員にも多大なメリットをもたらす。
現代の学校現場において、水泳授業は教員にとって極めてリスクと負担の大きい業務となっている。
4.1. フォーム指導からの解放とファシリテーションへの特化
多くの教員は水泳の専門家ではないにもかかわらず、「正しいクロールや平泳ぎのフォームを教えなければならない」という重圧を抱えている。
清水氏に対しても、教員から「綺麗な泳ぎ方の指導方法を教えてほしい」という相談が頻繁に寄せられている。
しかし、アクアゲームにおいては「きれいに泳ぐ型を教える必要がない」。
これにより、教員は技術指導者としてのプレッシャーから完全に解放される。
武蔵野市立本宿小学校の校長が「先生たちも一度授業の進め方を見ているので、指導の負担も少なくできると思う」と語るように、専門的な技術指導を必要としないアクアゲームは、教員がファシリテーター(進行役)や安全管理・児童の見守りに専念できる環境を作り出す。
これは教員の心理的・物理的負担を劇的に軽減し、現代の学校教育における「働き方改革」にも直結するソリューションである。
4.2. 学校プール事故における法的責任の構造
水泳授業における安全管理のプレッシャーは、万が一事故が発生した際の極めて重い法的責任に裏打ちされている。
過去の判例を見ても、水泳授業中の事故は教員の「安全配慮義務違反(過失)」が厳しく問われる傾向にある。
| 責任の法的根拠 | 適用対象と概要 | 具体的な追及先 |
|---|---|---|
| 国家賠償法 第1条 |
公立学校において、教員の教育活動(水泳指導・監視など)に伴う過失や安全配慮義務違反が問われる場合。 |
学校を設置する地方公共団体(県や市など) |
| 国家賠償法 第2条1項 |
公立学校において、プールの底や排水溝など、施設・設備自体の設置や管理に欠陥(瑕疵)があった場合。 |
学校を設置する地方公共団体(県や市など) |
| 民法 第709条 / 第715条 |
私立学校において、教員の不法行為や、学校法人としての使用者責任が問われる場合。 |
私立学校法人、該当教員 |
| 民法 第717条1項 |
私立学校において、プール施設・設備の欠陥による工作物責任が問われる場合。 |
私立学校法人 |
例えば、京都府の小学校で発生した1年生のプール死亡事故(平成26年京都地裁判決)では、プールに浮かべた巨大なビート板が死角を作り、教員3名がプールサイドからの「動静監視」を完全に怠っていたとして、自治体に約3,000万円の損害賠償が命じられた。
また、都立高校における飛び込み事故では、危険な指導を行った教員個人の業務上過失傷害罪に加えて、民事訴訟において東京都に約3億8,500万円という巨額の賠償が命じられた事例も存在する。
このように、水泳授業はひとたび事故が起きれば取り返しのつかない事態を招き、行政や教員に巨額の賠償責任と刑事責任がのしかかる。
だからこそ、教員が「指導」と「監視」のタスクを同時に抱え込むことは極めてリスキーである。
外部の専門家(清水氏など)がアクティビティの進行(指導)を担い、教員がプールサイドからの動静監視(安全管理)に専念できる体制を構築することは、法的リスクマネジメントの観点からも極めて合理的である。
5. 教育格差の是正と公教育の使命
本宿小学校の校長が力説する通り、水泳教育の根本的な目的は「命を守る術」の獲得である。
しかし、プール施設の老朽化や授業時間の減少により、学校で十分な水泳指導が受けられない状況が進行している。
ここで深刻化しているのが、家庭の経済力や教育関心に基づく「体験格差」である。
裕福な家庭や教育熱心な家庭の児童は、民間のスイミングスクールに通うことで、学校外で安全に泳力や水慣れを獲得している。
一方で、そうした機会に恵まれない児童は、基礎的な生存技術を獲得する機会すら奪われかねない。
水難事故の遭遇リスクは所得にかかわらず平等に存在するにもかかわらず、その回避能力に経済格差が直結しているのが現状である。
「スイミングスクールに通える子は命を守る術を身につけているが、そうじゃない子は見つけられていないのはおかしい。
公立校として公平な機会がなくてはいけない」という校長の言葉には、公教育が本来果たすべき「生存権の保障」と「機会の平等」に対する強い危機感がある。
民間への完全委託化が進む昨今にあっても、公費をもってすべての児童に水と触れ合う公平な機会を提供し続けることの意義は、教育社会学の観点から見ても極めて重い。
アクアゲームの導入は、スイミングスクールに通っていない児童であっても、遊びを通じて恐怖心を払拭し、最低限のパニック・コントロール能力を身につけさせるためのセーフティネットとして機能している。
6. トップアスリートによる教育的エコシステムの構築:一般社団法人「アスヒロ」の事例
6.1. オリンピアンの知見の社会還元
一般社団法人「アスヒロ」の設立者である清水祐介氏は、1988年生まれの元水球日本代表選手である。
筑波大学体育専門学群を卒業後、「ブルボンウォーターポロクラブ柏崎」で日本一に貢献し、オーストラリアの「KFC BREAKERS」と日本人として初めてプロ契約を結んだ。
その後もイタリアやハンガリーのプロリーグで研鑽を積み、2016年のリオデジャネイロオリンピックで32年ぶりの五輪出場を果たした日本代表の主将を務めた。
さらに2021年の東京オリンピックにも出場し、2022年に現役を退いた日本水球界のレジェンドである。
清水氏が設立した「アスヒロ」は、「アスリートが子どもたちのヒーローになる」という思いが込められている。
同法人は、自己肯定感が低い現代の子どもたちに対し、本物のトップアスリートと直接触れ合い、一緒に身体を動かすという「成功体験」を提供することを目的としている。
これは単なるスポーツ振興にとどまらず、地域、行政、企業、アスリートが一体となって子どもたちを守り育てるためのハブ(中心)となることを目指す壮大なソーシャルデザインである。
6.2. 武蔵野市における「Olympian Dream Project」の実践
武蔵野市では、行政とアスヒロが強固に連携し、「小中学校 アスヒロ Olympian Dream Project(水球版)」を展開している。
この事業は2021年度から開始され、小学校3年生から6年生、および中学生を対象に実施されている。
授業はプールでのアクアゲーム指導だけでなく、体育館やグラウンドでのボールを使ったチームビルディングなども含まれており、多角的に児童の運動能力とコミュニケーション能力を刺激する構成となっている。
また、現役の水球日本代表選手や、成蹊大学・東京女子体育大学の学生がサポートに入り、きめ細やかな指導体制を構築している点も特筆に値する。
さらに武蔵野市は、学校教育の枠を超えて「Sports For All 水球」や「武蔵野アクアスロン大会」など、一般市民も参加可能なイベントを武蔵野温水プールなどで定期的に開催し、オリンピアンによるデモンストレーションやアクアゲーム体験を提供している。
このような「学校・地域・アスリート」の三位一体となったエコシステムは、マイナースポーツである水球の認知度向上と競技人口の裾野拡大にも直結しており、スポーツマネジメントの観点からも極めて優れたモデルケースと言える。
7. 結論:持続可能な学校水泳教育に向けた政策提言
2026年7月10日付の朝日新聞教育面に掲載された清水裕介氏と武蔵野市立本宿小学校の実践例は、日本の学校体育が抱える深い構造的課題に対する一筋の光明を描き出している。
施設の老朽化、気候変動による酷暑、教員の過労と法的リスク、そして経済環境に起因する命を守る能力の格差。
これら複雑に絡み合った課題に対して、清水氏と「アスヒロ」は、「泳がなくていい」「ゴーグルは外す」「ボールを追いかけて楽しむ」という、既存の常識を鮮やかに覆すアプローチで応答した。
本稿の分析から導き出される、持続可能な学校水泳教育に向けた提言は以下の三点である。
第一に、公教育における水泳教育の「到達目標の再定義」である。
距離やタイム、綺麗なフォームを追求する競技スポーツとしての水泳と、水難事故から命を守り、水に対する恐怖心を克服するための「サバイバル技術・水慣れ」としての水泳活動は明確に切り離して設計すべきである。
公立学校におけるプール授業の最低限の到達目標は後者であり、そのための手段として、アクアゲームを通じた「無意識の学習(Implicit Learning)」は極めて有効である。
第二に、教員の法的・心理的負担の軽減と、外部専門人材の戦略的活用である。
水泳という特殊環境下での指導において、教員にすべての指導責任と安全管理責任を負わせる体制は限界を迎えている。
過去の判例が示す通り、万が一の事故における法的リスクは甚大である。
トップアスリートや外部法人が持つ「指導ノウハウ」を学校現場にインストールし、役割分担を明確化することで、教員はより安全な動静監視と児童の心理的サポートに注力することが可能になる。
第三に、既存インフラを活用した多様な官民連携モデルの構築である。
愛知県等で進む完全な民間委託化(高浜方式)は合理的な選択肢の一つであるが、地域の水がめ(防災拠点)の喪失等の課題も残る。
武蔵野市のように既存の自校プールを利用しながらソフトウェア(アスリートの派遣)を充実させるアスヒロのモデルなど、各自治体の財政状況や地理的条件に応じたハイブリッドな解決策を柔軟に選択できる制度的バックアップが必要である。
苦手を克服するための最強のインセンティブは「楽しさ」と「没頭」である。
ボールを必死に追いかけるうちに、顔に水がかかることすら忘れてしまうという体験は、教育における内発的動機づけの極致である。
学校のプールが、ただ苦しいだけの「泳法訓練の場」から、命を守る技術を自然に身につけ、トップアスリートとともに水と親しむ「非日常的な自己肯定感醸成の場」へと変貌を遂げるとき、公教育における体育はその真の価値を取り戻すであろう。
