








昭和8年の架橋以来、日本の東西を繋ぐ大動脈として物流・交通を支え続けてきた近代土木遺産「尾張大橋」。しかし、気候変動が激甚化する現代において、周囲の堤防より低い構造が海抜ゼロメートル地帯を脅かす治水上の「致命的欠陥」となっています。本稿では、先人たちの卓越した土木技術の軌跡を紐解くとともに、老朽化と水害リスクを抱えるこの歴史的建造物をいかにして次世代の安全なインフラへと転換していくべきか、立ちはだかる行政・財政の壁と架け替えに向けた戦略的展望を総合的に考察します。
国道1号「尾張大橋」に関する総合考察サマリー
本報告書は、昭和8年(1933年)に竣工した尾張大橋が持つ「近代土木遺産としての歴史的・技術的価値」と、現代の気候変動下で露呈している「治水上の致命的な弱点」、そして「架け替えに向けた行政・財政的な課題と展望」を総合的に論じたものです。
1. 歴史的背景と土木技術の結晶
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架橋の背景: 明治期の木曽三川改修により水害が減少した反面、川幅が拡張され陸路横断が困難に。大正〜昭和期のモータリゼーションの進展に伴い、渡船(ふたつやの渡し)から自動車交通への転換が急務となり、国家プロジェクトとして架橋が推進された。
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技術的達成: 稀代の技術者・増田淳の設計による日本初の本格的な「下路ランガートラス」形式を採用。完全国産鋼材の使用や、当時最先端の潜函工法(ニューマチックケーソン)を駆使するなど、戦前の日本の土木・製鉄技術の到達点を示す構造物である。
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社会への影響: 愛知(中京圏)と三重(北勢)を陸路で直結し、広域経済圏の発展を牽引。一方で、地元の弥富(前ヶ須)は水上交通の要衝としての役割を終え、陸上交通の「通過点」へとその性質を大きく変容させた。
2. 現代における治水上の致命的欠陥(高潮パラドックス)
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堤防の「切り欠き」化: 伊勢湾台風を契機に周辺堤防は海抜約7.5mまで嵩上げされたが、尾張大橋の路面標高は約5mのまま取り残されている。巨大台風や津波の際、この高さ不足が濁流の侵入口(単一障害点)となり、濃尾平野のゼロメートル地帯を沈めかねない致命的な弱点となっている。
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限界を迎えている緊急対策: 現在の異常気象時の対策は、国道1号を封鎖して「大型土のう」を積むという人海戦術に依存している。しかし、日本の大動脈を遮断する経済的損失に加え、越波や動的水圧に対する物理的な防御力には限界があり、危機管理体制として極めて脆弱である。
3. 架け替えに向けた課題と展望(行政・財政の壁)
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縦割り行政の弊害: 河川管理者側からは「治水上危険」と認識されていても、道路管理者側からは「橋梁としての機能は維持されている」と見なされるため、治水目的単独での架け替え予算獲得が難航している。
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伊勢大橋の成功モデル: 隣接し、同様の課題を抱えていた「伊勢大橋」は、治水対策だけでなく「渋滞解消(4車線化)などの交通機能向上」と防災機能を巧みにパッケージ化することで、抜本的な架け替え事業化に成功した。
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今後の戦略: 尾張大橋の架け替え実現には、伊勢大橋の手法に倣い、広域交通ネットワークの再編(道路事業)と地域防災力の強化(河川治水事業)を統合した「多目的国土強靱化プロジェクト」としての再定義が急務である。同時に、地方自治体(弥富市など)の厳しい財政制約を乗り越えるため、国からの特例予算を引き出す広域的な自治体間連携が不可欠である。
国道1号尾張大橋の歴史的経緯と土木工学的評価、ならびに架け替えに向けた総合的考察
1. 序論:尾張大橋が内包する歴史的・現代的意義
愛知県弥富市と三重県桑名市の県境、大河・木曽川を跨ぐ「尾張大橋」は、昭和8年(1933年)の竣工以来、日本の東西を結ぶ最重要幹線である国道1号(旧東海道)の物流・交通を支え続けてきた近代土木遺産である。
全長約878メートルに及ぶこの長大橋は、我が国初の本格的な道路用ランガートラス橋として建設され、戦前の土木技術の到達点を示す象徴的な構造物として高く評価されている。
しかし、竣工から90年以上が経過した現在、尾張大橋は単なる老朽化の問題を超え、濃尾平野の海抜ゼロメートル地帯における「治水上の致命的な弱点(ボトルネック)」という極めて深刻な現代的課題を内包している。
本報告書は、尾張大橋の架橋に至る歴史的経緯、明治期の木曽三川改修や渡船廃止との関係、橋梁設計・資材調達の技術的精緻さを紐解くとともに、架橋が地域経済にもたらした影響を分析する。
さらに、現代の気候変動下において顕在化している高潮・洪水リスクの構造的要因を明らかにし、隣接する伊勢大橋の事例と比較しながら、今後の架け替えに向けた行政的・財政的な展望を総合的に論述する。
2. 木曽三川改修と近代交通網の黎明
2.1 明治政府による木曽三川改修工事の断行
尾張大橋の架橋構想を理解する上で不可欠な前提となるのが、明治期に行われた「木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)改修工事」である。
古来より濃尾平野西部の水郷地帯は、網の目のように入り組んだ分合流を繰り返す河川群によって形成され、慢性的な水害に悩まされてきた。
この水害を根絶し、同時に堤防内の悪水排水を改良するため、明治政府はオランダ人技術者ヨハニス・デ・レーケの指導のもと、明治20年(1887年)から明治45年(1912年)にかけて三川の完全分流を目指す大規模な河川改修を断行した。
この事業には当時の国家予算の約12%という巨額な資金が投じられ、日本の近代土木史における金字塔となった。
三川が明確に分離され、強固な連続堤防が築かれたことは、河川の氾濫を防ぐという治水上の絶大な恩恵をもたらした一方で、陸路による東西交通においては「三つの巨大な水脈をいかにして横断するか」という新たな土木的課題を浮き彫りにした。
河川改修によって川幅が拡張され、水深が深くなった木曽川下流域は、人や馬が容易に渡れる規模を遥かに超えており、これが後の長大橋梁建設への強烈な技術的・資金的要請へと繋がっていくのである。
2.2 「ふたつやの渡し」の繁栄と陸上交通への転換圧迫
鉄道網の整備が先行する中、明治28年(1895年)には現在の関西本線(当時の関西鉄道)の木曽川橋梁が開通し、鉄道による渡河が実現していた。
しかし、道路交通においては長らく前近代的な渡船に依存する状態が続いた。
明治5年(1873年)、新東海道の制定に伴い、愛知県側の弥富(前ヶ須)は宿場町として指定された。
これに伴い、前ヶ須から三重県側の桑名や長島方面を結ぶ重要な水上交通の要衝として「ふたつやの渡し(二ツ屋の渡し)」が一層の賑わいを見せることとなった。
江戸時代には熱田から桑名まで海路を行く「七里の渡し」が主流であったが、次第に陸路へのシフトが進み、巡見街道等を通って前ヶ須を拠点とする渡船が東西交通の要衝を担ったのである。
しかし、大正時代から昭和初期にかけて、自動車の普及(モータリゼーションの萌芽)と四日市港をはじめとする北勢地方の経済発展に伴い、人や馬の輸送にとどまらない「自動車による大量・迅速な陸上輸送」のニーズが爆発的に高まった。
当時の県営渡船ではわずかに人や牛馬が通行できるのみで、自動車の通行は不可能であり、文化や産業の急激な進展に対して、渡船という旧態依然とした交通システムは日本近代化の明確な障壁となっていた。
この物流の断絶が、地域経済ひいては国家経済の発展を阻害するという危機感が、架橋計画を強力に後押しすることとなる。
3. 尾張大橋架橋構想と事業化の軌跡
3.1 架橋計画の胎動と財源確保のメカニズム
自動車交通の遮断という事態を打開するため、愛知県と三重県は木曽川を渡る「尾張大橋」および長良川・揖斐川を渡る「伊勢大橋」の連続架橋構想を打ち立てた。
尾張大橋については、大正13年(1924年)4月1日に内務大臣から架橋認可を受け、国家的なプロジェクトとして始動した。
当時のインフラ整備における財源確保は、旧道路法に基づく厳格な負担区分のもとで行われていた。
原則として、府県道以下の道路新設・改築費の一部には国庫補助の制度が設けられていたが、特に「主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル国道」や国家的動脈と内務大臣が指定する路線の新設・改築費用については、国が多額の補助(あるいは全額負担)を行う仕組みが存在していた。
総工費2,160,167円という、当時としては天文学的な予算を要した尾張大橋の建設は、単なる地方自治体の事業を超え、大蔵省や内務省を巻き込んだ国家の特別措置的補助を背景に進められたのである。
事業の主体(発注者)は愛知県であり、中央土木株式会社(両橋台)、株式会社大林組(左岸取付道路)、株式会社間組(橋脚および上部工架設)、横浜船渠株式会社(鋼橋製作)という当時の日本を代表する建設・造船企業が結集した。
3.2 施工のタイムラインと竣工
実際の工事は、昭和5年(1930年)4月の橋台着工を皮切りにスタートした。
大規模な水中作業を伴う下部工(橋脚)は昭和6年(1931年)から昭和7年(1932年)にかけて進められ、並行して上部工の架設が行われた。
下部工の完成後、昭和8年(1933年)10月に全体の工事が完了し、同年11月には日本全国に向けた実況放送が流れる中、前ヶ須側の橋詰で盛大な竣工式が挙行され、日本の幹線道路交通における新たな幕開けが宣言されたのである。
この放送は、単なる地方の橋の完成ではなく、日本の東西大動脈がついに自動車で直結されたという国家的悲願の達成を意味していた。
4. 土木技術の結晶:設計・資材・施工の精緻
4.1 稀代の橋梁技術者・増田淳とランガートラスの採用
尾張大橋の設計を主導したのは、アメリカで14年間にわたり最新の橋梁設計技術を修得し、帰国後に設計事務所を開設した稀代の技術者・増田淳である。
増田は、木曽川の深くて軟弱な地盤と、長大なスパン(支間長)を要求される現地の厳しい条件に対し、日本で初めて本格的な道路用「下路ランガートラス(Langer Truss)」形式を採用した。
ランガートラスとは、水平方向の梁部材(トラス)を上弦のアーチ部材で吊り下げ、補強する構造である。トラスの剛性とアーチの耐荷力を一体化させることで、極めて長いスパンを経済的かつ美しく架け渡すことができる。尾張大橋は、支間長63.42メートルのランガートラス13連と、もっとも右岸(三重県)側に位置する支間長40.77メートルの下路平行弦ポニーワーレントラス1連の、計14連で構成されている。
右岸側の1連のみがアーチを持たないポニーワーレントラスとされた理由は、単なる意匠の問題ではなく、上流側に隣接する鉄道橋(関西本線)の径間割り(スパン配置)との河川工学的な整合性を保つためという、極めて緻密な設計的配慮によるものである。また、設計計算においては、トラスの格点部をヒンジとしてモデル化するなど、当時の最先端の構造力学が駆使された。さらに、ポニーワーレントラス部の横荷重に対する剛性照査には当時のドイツの文献が参照されており、これは日本の橋梁設計において非常に先進的な試みであった。
4.2 資材調達と国産鉄鋼の自立
明治初期の日本の鉄橋(隅田川の永代橋など)は、その鋼材の全量を輸入に依存していた。しかし、明治30年代半ばからの官営八幡製鐵所の稼働を経て、昭和に入る頃には日本は鋼材の完全自給を達成しつつあった。
尾張大橋の建設においては、総計2,830トンに及ぶ上部鋼材が使用されたが、この膨大な鋼材は輸入に頼ることなく、国内の製鉄・造船技術の粋を集めて調達されたのである。
上部工の製作を担った横浜船渠株式会社は、造船で培った精緻な鋼材加工技術を橋梁に応用した。
現場での架設時には、部材の組み立て誤差を吸収するため、ガセットプレート部に特大孔(19φのリベットに対して23.5φの孔)を採用するなど、理論上の計算だけでなく現場施工のリアリティに即した高度な技術的判断が図面上で指示されていた。
| 部材・資材名 | 数量 | 備考 |
|---|---|---|
| セメント | 37,050樽 | 下部工等のコンクリート基礎用 |
| 鉄筋 | 930トン | 鉄筋コンクリート床版および橋台・橋脚用 |
| 鋳鉄 | 146トン | 支承部等の特殊部材 |
| 石材 | 103立方メートル | 基礎および装飾用 |
| 洗砂利 / 洗砂 | 17,300立方メートル / 8,800立方メートル | コンクリート骨材 |
| アスファルトブロック | 6,450平方メートル (厚さ50mm) | 橋面舗装用 |
| コンクリート | 19,000立方メートル | 橋台・橋脚等の下部工 |
| 上部鋼材 | 2,830トン | ランガートラスおよびポニーワーレントラスの主構造 |
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表1: 尾張大橋の建設に投入された主要資材一覧 |
4.3 下部工:ニューマチックケーソン(潜函工法)の駆使
木曽川下流域の深い砂泥層に強固な基礎を築くため、橋脚の施工には当時最先端の「ニューマチックケーソン(潜函工法)」が用いられた。
関東大震災後の隅田川橋梁群復興で培われた機材と技術が転用されており、作業員や資機材が出入りするエアロック(気閘)にはアメリカの特許技術が使用された記録が残っている。
当時のケーソン設計において特筆すべきは、すべてが鋼製・コンクリート製ではなく、刃口(地盤に食い込む最下部)のみを鋼構造とし、上部の仮締切や軀体には詳細な仕様に基づいた木製のケーソン(潜函)が用いられていた点である。
水密性を確保するためのコーキングに関する詳細な指示が図面に日本語で明記されており、西洋から輸入された先進的な気圧技術と、日本の伝統的な造船・木工技術が高次元で融合した施工体制であったことが窺える。
5. 架橋がもたらした地域経済・社会への影響
5.1 陸上物流網の確立と広域経済圏の誕生
尾張大橋(昭和8年)および翌年の伊勢大橋(昭和9年)の完成により、国道1号は名実ともに自動車による全線走破が可能となった。
これにより、それまで分断されていた愛知県(中京圏)と三重県(北勢地方の四日市港など)の産業拠点が陸路で直結され、工業製品や農水産物の物流スピードは飛躍的に向上した。
このモビリティの劇的な向上は、東海地方全体の経済活性化と一体化を促す強力な駆動力となり、中京工業地帯の発展を根底から支えるインフラとして機能した。
5.2 宿場町・水上交通拠点としての弥富(前ヶ須)の変容
一方で、橋梁の完成は特定の地域社会に決定的な構造転換を迫った。
尾張大橋の開通に伴い、長らく地域経済を潤してきた「ふたつやの渡し」は完全にその役割を終え、廃止されたのである。
不思議なことに、尾張大橋の渡り初めには、かつて渡船業を営んでいた奥町渡船の関係者は誰も参加していなかったという記録があり、新旧の交通システムの交代がもたらした複雑な社会的感情を想起させる。
渡し船という移動手段が消滅したことで、弥富市(前ヶ須)周辺は「水上交通の要衝・終着点(ターミナル)」としての地位を失い、国道1号を通過する「陸上交通の通過点(トランジット)」へと変貌を遂げた。
しかし、交通の結節点としての重要性が完全に失われたわけではない。物流のトラックや商用車が絶え間なく行き交う陸上大動脈沿いの街として、新たな商業やロードサイド経済が形成されていく契機ともなり、人々の生活様式は川を中心としたものから、道路を中心としたものへと急激にシフトしていった。
6. 現代における治水上の致命的欠陥:「高潮パラドックス」
戦前の土木遺産として現役で稼働を続ける尾張大橋であるが、気候変動が激甚化する現代においては、その存在自体が周辺地域を沈めかねない「治水上の致命的欠陥」と化している。
6.1 伊勢湾台風と堤防高の嵩上げ
昭和34年(1959年)9月、東海地方を襲ったスーパー台風「伊勢湾台風」は、海抜ゼロメートル地帯に壊滅的な高潮被害をもたらした。
この未曾有の惨事を契機として、木曽川下流域の高潮堤防は抜本的な強化・嵩上げが行われた。その後の広域地盤沈下への対応(波返工の緊急嵩上げなど)を含め、現在、尾張大橋周辺の堤防は海抜約7.5メートルの高さまで強固に整備されている。
6.2 標高不足と「切り欠き」リスク
しかし、昭和初期に架設された尾張大橋の路面標高は約5メートル、桁下高に至っては3.9メートルに過ぎない。周囲の堤防が7.5メートルまで嵩上げされたにもかかわらず、橋梁部分は当時の低いまま取り残されているのである。
その結果、計画高潮位(T.P.+6.00m)に対して尾張大橋の橋詰部分は1.1〜1.3メートルの絶対的な高さ不足(余裕高の欠如)を生じている。
これは、堅牢な連続堤防の中に、尾張大橋という巨大な「切り欠き(溢流口)」が存在していることを意味する。
巨大台風による高潮や、南海トラフ巨大地震による津波・地盤沈下が発生した場合、濁流はこの低い橋詰部分を越波・越水し、弥富市の市街地へと直接流れ込む。
単一障害点(Single Point of Failure)として、ここが破綻すれば強固な堤防ネットワーク全体が無意味化し、広大なゼロメートル地帯が瞬時に水没するリスクを孕んでいるのである。
6.3 限界を露呈する「大型土のう」による緊急対策
この治水上の欠陥に対し、施設管理者(国土交通省など)が現在講じている措置は、特別警報発表時などの異常気象時に、国道1号を通行止めにして橋詰部に「大型土のう」を2段積みで設置するという一時的・人海戦術的な緊急対策に留まっている。
具体的には、台風接近の約36時間前から通行止めを検討し、約24時間前に国道1号を封鎖して土のう設置を開始、約12時間前に完了させるタイムラインが想定されている。
しかし、この運用には危機管理上、深刻な懸念が存在する。
第一に、日本の大動脈である国道1号を早期に完全封鎖することは、地域住民の広域避難ルートや緊急物資の輸送路を絶つことになり、物流・経済への影響が甚大である。
第二に、土のうはあくまで摩擦力に依存した仮設構造物に過ぎず、猛烈な暴風雨や高波の越波、動的水圧に対して確実に越水を防ぎ切れる物理的保証はない。
第三に、交通量の多い国道1号では実践的な設置訓練を実施することすら困難であり、警察協議のハードルも高いという実務上の壁がある。
7. 架け替えへの展望と行政的・財政的課題
尾張大橋が抱える治水上の弱点を根本的に解消する唯一の手段は、高潮・洪水に対する十分な余裕高を持たせた新たな橋梁への「架け替え」である。
しかし、現実には令和5年(2023年)時点においても具体的な架替計画は確定していない。
その背景には、日本の公共インフラ行政に特有の「縦割り行政の弊害」と、地方財政の重い制約が存在する。
7.1 「道路橋」と「河川治水」の狭間
日本共産党弥富市議団などが再三にわたり国土交通省や中部地方整備局へ早期架け替えを要望しているものの、国交省側の公式見解は「橋を前提に堤防をすり付けて整備しており、現状でも『道路橋』としては十分に使用可能であるため、架け替えの予算が下りない」というものである。
すなわち、河川管理者(治水)の視点からは「橋が低くて危険」であっても、道路管理者(交通)の視点からは「橋梁としての耐荷力や構造的健全性は維持されており、ただちに架け替える理由がない」という判断が下されているのである。
実質的なバイパスとして名四国道(国道23号)や伊勢湾岸自動車道などが機能しており、国道1号単体の交通容量不足がそれほど致命的でないことも、架け替えの推進力を削ぐ要因となっている。
7.2 成功モデルとしての「伊勢大橋」パッケージ化戦略
ここで極めて重要な比較対象となるのが、隣接する三重県桑名市の「伊勢大橋」の事例である。尾張大橋と同時期(昭和9年)に完成し、同様の構造・標高不足の問題を抱えていた伊勢大橋は、現在、約5メートル高い位置への抜本的な架け替え事業(一般国道1号桑名東部拡幅)が進行中である。
| 比較・分析項目 | 尾張大橋(愛知県・三重県境) | 伊勢大橋(三重県桑名市) |
|---|---|---|
| 完成時期 | 1933年(昭和8年) | 1934年(昭和9年) |
| 標高および構造的現状 | 海抜約5m。周辺堤防(7.5m)より著しく低く、治水上の欠陥として放置。 | 旧橋梁は尾張大橋と同様に老朽化し、標高が不足していた。 |
| 高潮・水害対策の現状 | 特別警報時の大型土のう設置計画(人海戦術)に依存。 | 約5m高い位置への抜本的な架け替え工事が現在進行中。 |
| 事業化へのアプローチ | 治水上の危険性を理由に単独要望するも、道路橋として機能維持を理由に難航。 | 慢性的な渋滞解消(4車線化)、右折レーン整備等の交通機能向上と防災機能のパッケージ化に成功。 |
| 自治体・地元の取り組み | 架け替えに向けた緊急対策検討会の活用に対し、行政の対応が消極的。 | 桑名市の強力な地元協力と、行政への40年以上にわたる粘り強いロビー活動が結実。 |
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表2: 尾張大橋と伊勢大橋の現状比較と事業化の明暗 |
伊勢大橋の架け替えが事業化に成功した最大の要因は、単なる「治水目的の架け替え」として要望したのではなく、「慢性的な交通渋滞の解消(2車線から4車線への拡幅)」や「右折レーン・歩道の整備」といった道路交通機能の向上と、「防災機能の大幅強化」を巧妙にパッケージ化したことにある。
7.3 弥富市の戦略的ロードマップと財政的制約のリアル
尾張大橋の架け替えを実現するためには、伊勢大橋の手法に倣い、治水単独ではなく広域交通ネットワークの再編と絡めた複合的な事業化戦略が不可欠である。
現在、弥富市周辺では「一宮西港道路」の整備など巨大な広域交通プロジェクトが浮上しており、尾張大橋の架け替え・国道1号の4車線化をこの広域ネットワークに組み込む形で、都市計画マスタープランを抜本的に見直すことが有識者から提言されている。
しかし、架け替えが事業化された場合、地方自治体(愛知県や弥富市)にも多額の負担が求められるという厳しい現実がある。
現在の弥富市の財政は、歳入の約4割を地方交付税などの依存財源に頼っている。
特に下水道整備事業においては、当初見込んでいた国からの地方交付税措置が想定の3割程度しか満たされず、結果として残りの7割(約179億円)を市が実質的に負担するという深刻な財政的重圧を抱えている。
国庫補助事業は、要望通りに満額の補助金が下りるとは限らず、事業費が圧縮されれば不足分は市債(借金)や一般財源(市の貯金)で補填しなければならないというリスクが常につきまとう。
このような財政的ゆとりのなさが、新規の巨大プロジェクトへの主体的・積極的な参画を躊躇させる要因となっている。
したがって、尾張大橋の架け替えを推進するためには、正確な費用便益分析の実施と、国からの「防災・減災、国土強靱化」に紐づく特例予算を確実に引き出すための、広域的な政治力学および自治体間連携(愛知県・三重県の共闘)の構築が最重要課題となる。
8. 結論:次世代インフラへの転換を企図して
尾張大橋は、日本のモータリゼーションの波を捉え、長年にわたって東西物流を阻んできた木曽三川という地理的断絶を見事に克服した、昭和初期の土木工学の結晶である。
増田淳による優美かつ合理的な下路ランガートラス構造は、建設から一世紀近くが経過しようとする今なお、国道1号の重交通に耐えうる優れた構造的堅牢性を証明し続けている。
国内での鉄鋼自給やニューマチックケーソンの独自の進化など、当時の日本の近代化を象徴するモニュメントとしての価値は計り知れない。
しかし、インフラストラクチャーに対する社会的要請は、時代と環境の変化とともに変容する。
「自動車交通の円滑化」を至上命題として建設された橋梁が、気候変動による高潮・洪水リスクが極大化する現代においては、皮肉にも地域社会の安全を根底から脅かす「水防上のアキレス腱」となっているのが偽らざる現実である。
土嚢による国道封鎖という前近代的な対症療法に依存し続けることは、日本経済を支える大動脈の維持管理としても、また人命を守る危機管理体制としても、もはや限界を迎えている。
尾張大橋の将来を見据える上で、行政の縦割り構造を打破し、交通利便性の向上(道路事業)と地域防災力の抜本的強化(河川治水事業)を統合した「多目的国土強靱化プロジェクト」としての再定義が急務である。
隣接する伊勢大橋の先行事例が示す通り、地域住民、基礎自治体、広域自治体、そして国が一体となった長期的なビジョンと、財政的裏付けを伴う粘り強い合意形成こそが、この歴史的建造物が果たしてきた役割を継承し、未来の安全な都市基盤へと円滑にバトンタッチするための唯一の道筋である。
