2016年7月26日に発生した相模原障害者施設殺傷事件(津久井やまゆり園事件)から10年を迎えるにあたり、社会に伏在する優生思想、人間を有用性で選別する構造的暴力、そして「対話の不在」をめぐる議論が再燃している。
2026年7月25日付の『朝日新聞』オピニオン&フォーラム面における特集記事では、障害当事者運動、映像ドキュメンタリーと修復的アプローチ、社会福祉歴史学という異なる領域から3名の有識者・実践者が言説を発信した。
司会: 津久井やまゆり園事件から10年を前に、朝日新聞の特集記事で提示された議論について、主要な論点や各氏の知見を整理していきたいと思います。まず、今回の分析の全体的な概要から伺えますか?
解説者: はい。今回の特集は、事件を「一容疑者の異常な行動」として終わらせるのではなく、日本社会の底流にある優生思想・排除構造・対話の不在が露出した問題として捉え直すものです。障害当事者運動、映像制作と修復的アプローチ、そして社会福祉歴史学という異なる領域の専門家3名が、それぞれの視点から論を深めています。まずは各氏の立場を比較表で整理しました。
3氏の立場・背景・主要論点の比較
| 氏名 | 主な立場・肩書 | 実践・研究の基盤 | 朝日新聞記事での主要メッセージ | 事件10年における具体的アクション |
| 石路薫 |
障害当事者運動家(自立生活センターリングリング) |
ピアカウンセリング、自立生活プログラム(ILP)、地域生活移行支援 | あらゆる人が排除されうる社会で障害者は生き延びてきた。存在そのものを否定する空気に抗う。 | 10年目の7/26に「死んでませんけど何か」を掲げた街頭表現活動を実施。 |
| 坂上香 |
ドキュメンタリー映画監督 修復的司法研究者 |
映画『プリズン・サークル』制作、回復共同体(TC)の取材 | 日本社会の圧倒的な「対話の不在」を指摘。境界線を張り巡らせ偏見を強化する社会を変える。 | 厳罰化や隔離ではなく、受刑者同士が言葉を通じて被害・加害に向き合うTCの知見を社会へ還流。 |
| 藤井渉 |
社会福祉学研究者(日本福祉大学准教授) |
障害者福祉論、戦争と障害者、優生思想史の研究 | 人間を「役に立つか否か(生産性)」で選別する思考が社会を支配している。 | 福祉政策や戦争期における歴史を照射し、社会福祉が優生思想を担った負の歴史を直視・反省する。 |
司会: 役割分担が非常に明確ですね。ではまず、当事者としての立場から発信している石路薫氏の主張について教えてください。
解説者: 石路氏が所属する神戸の「自立生活センターリングリング」は、重度障害者自身が運営し、地域生活の権利を求めてきた団体です。石路氏らは事件直後から街頭行動を続けており、10年目の節目には「死んでませんけど何か」という強いスローガンを掲げました。
司会: 「死んでませんけど何か」というのは、非常に強烈なインパクトのある表現ですね。
解説者: ええ、これには重層的な意味が込められています。
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存在の可視化と哀悼の拒絶: 加害者の「意思疎通ができない障害者は安楽死させるべき」という論理に対し、単に哀れみの対象として追悼される存在になることを拒絶し、「地域で現に生きている」という尊厳を突きつけています。
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排除の普遍性への警鐘: 生産性や効率性が重視される社会では、加齢や病気、困窮によって誰しもがいつ「役立たず」として排除されるかわかりません。石路氏は、障害者が生き延びてきた歴史やノウハウこそが、全員が社会で生き残るための「抵抗の技法」になると捉えています。
司会: なるほど。次に、映画監督の坂上香氏のアプローチについてはいかがでしょうか。「回復共同体(TC)」というキーワードが出ていますが。
解説者: 坂上氏は、映画『プリズン・サークル』などを通して「対話の不在」を追及しています。TC(Therapeutic Community)とは、懲罰的な指導ではなく、受刑者同士が車座(サークル)になって対等に対話するプログラムです。
司会: 刑事司法における対話の実践ですね。それが事件とどうつながるのでしょうか?
解説者: 日本社会は、加害者や異質なものを「理解不能な異物」として隔離・断絶し、厳罰化して終わらせようとしがちです。しかし坂上氏は、「こちら側(健全な市民)」と「あちら側(加害者・障害者等)」の間に固い境界線を引くこと自体が偏見を強化すると批判します。
安全な場で自らの弱さや過去の被害トラウマを言葉にし、他者の痛みに耳を傾ける中で初めて、人は自己の加害責任に向き合えます。境界線を解体し、対話をあきらめない姿勢こそが第二の事件を防ぐ鍵だと訴えています。
司会: 3人目の藤井渉氏は、社会福祉学の歴史的観点から分析されているのですね。
解説者: 藤井氏は著書『ソーシャルワーカーのための反『優生学講座』』などを通じ、「生産性」や「役立たず」という論理構造を歴史的に解体しています。
藤井氏が示す対比構造
従来の優生思想・生産性主義: 社会への貢献度や経済的有用性で人間を評価し、不適格者を隔離・選別する。
反優生学の福祉実践: 存在そのものの尊厳を基盤とし、歴史的な自己検証を行いながら分離や偏見の解消を目指す。
ナチスのT4作戦や日本の旧優生保護法が示すように、福祉や医療は歴史的に優生主義的選別の装置として使われた側面があります。やまゆり園事件の加害思想は特殊な妄想ではなく、現代の資本主義・能力主義の行き着く先であり、支援者側も自らの内なる優生思想を解体しなければならないと指摘しています。
司会: 3者のアプローチは一見異なりますが、根底では深く結びついているのですね。
解説者: まさにその通りです。最後に3氏の論理的結合を整理すると、以下のようになります。
【歴史的解体】藤井論理:生産性主義や施設隔離という「制度的暴力」の歴史を暴く
↓
【対話の実践】坂上論理:「こちら側/あちら側」の境界を解き、弱さを開示する対話(TC)を構築する
↓
【生の言明】 石路論理:「ただ生きていること」そのものを肯定し、街頭で存在を示し続ける
司会: 制度的暴力を歴史として知る(藤井氏)、境界線を越えて対話する(坂上氏)、そして地域で生きて存在を示す(石路氏)。これらが噛み合うことで、単なる批判にとどまらない具体的な社会変革の指針が見えてきますね。
解説者: はい。自己責任論や効率重視が強まる現代において、この「三元統合」のアプローチを社会のあらゆる場へ実装していくことこそが、事件から10年を迎えた私たちに求められている課題と言えます。
津久井やまゆり園事件10年における排除・対話・優生思想の再照射:石路薫・坂上香・藤井渉の言説と理論的背景の比較分析
2016年7月26日に発生した相模原障害者施設殺傷事件(津久井やまゆり園事件)から10年を迎えるにあたり、社会に伏在する優生思想、人間を有用性で選別する構造的暴力、そして「対話の不在」をめぐる議論が再燃している。
2026年7月25日付の『朝日新聞』オピニオン&フォーラム面における特集記事では、障害当事者運動、映像ドキュメンタリーと修復的アプローチ、社会福祉歴史学という異なる領域から3名の有識者・実践者が言説を発信した。
本報告書は、自立生活センターリングリングのスタッフである石路薫氏、ドキュメンタリー映画監督の坂上香氏、および日本福祉大学准教授で社会福祉学研究者の藤井渉氏の3名を取り上げ、それぞれの立場、発信内容の理論的・実践的背景、ならびに3者の提言が交差する現代的意義について多角的に解明する。
3氏の立場・背景・主張の比較概要
各氏の論旨は、やまゆり園事件という非道な惨劇を単なる一容疑者の逸脱行為として処理するのではなく、日本社会の底流に存在する優生思想や排除構造の顕現として捉える点において共通している。
しかし、そのアプローチは当事者運動による「生の言明」、修復的司法や回復共同体(TC)を通じた「対話の実践」、および社会福祉史学による「歴史的言説分析」と、明確な役割分担と専門性に基づいている。
| 氏名 | 主な立場・肩書 | 実践・研究の基盤 | 朝日新聞記事での主要メッセージ | やまゆり園事件10年に対する具体的アクション・言説 |
|---|---|---|---|---|
| 石路薫 | 障害当事者運動家、自立生活センターリングリング(兵庫県神戸市)スタッフ |
ピアカウンセリング、自立生活プログラム(ILP)、地域生活移行支援 |
あらゆる人が排除されうる社会で障害者は生き延びてきた。存在そのものを否定する空気へ抗う。 | 事件翌月からの街頭アクションを継続。10年目の7月26日に「死んでませんけど何か」をサブタイトルとした街頭表現活動を実施。 |
| 坂上香 | ドキュメンタリー映画監督、修復的司法研究者 |
映画『プリズン・サークル』制作、島根あさひ社会復帰促進センターでのTC(回復共同体)取材 |
日本社会の圧倒的な「対話の不在」を指摘。境界線を張りめぐらせ偏見を強化する社会を変えるには試行錯誤が必要。 | 厳罰化や隔離ではなく、受刑者同士が言葉を通じて被害と加害の双方に向き合うTCの知見を社会へ還流させる提言。 |
| 藤井渉 |
社会福祉学研究者、日本福祉大学社会福祉学部准教授(博士:人間福祉学) |
障害者福祉論、戦争と障害者、優生思想史の研究、『ソーシャルワーカーのための反『優生学講座』』著者 |
人間を「役に立つか否か(生産性)」で選別する思考が社会を支配している。歴史的検証を通じて優生思想に抗う。 | 福祉政策や戦争期における「役立たず」の論理の歴史を照射し、社会福祉がかつて優生思想を担った過ちを直視し反省する。 |
石路薫と障害者運動:当事者主体による「生の言明」と排除社会への抗議
自立生活センターリングリングの運動的背景
石路薫氏が所属する「自立生活センターリングリング」(兵庫県神戸市)は、2002年に重度障害者自身の手によって設立された自立生活センター(CIL: Center for Independent Living)である。
同センターは、障害当事者が対等な立場で話を聞き合い、抑圧された自己肯定感を取り戻す「ピアカウンセリング」や「自立生活プログラム(ILP)」を核としながら、24時間介護保障の獲得や施設・親元からの地域生活の実現を目指してきた。
自立生活運動の根底には、「障害は個人ではなく社会の側(障壁や制度)にある」とする障害の社会モデルが存在し、リングリングは設立以来、支援費制度や障害者自立支援法への抗議運動、旧優生保護法被害への声明発表など、権利擁護活動を精力的に展開してきた。
街頭アクション「死んでませんけど何か」の思想的深層
やまゆり園事件発生直後の2016年8月から、石路氏らは継続的な街頭抗議活動を開始した。2026年7月26日の10年という節目に掲げられたサブタイトル「死んでませんけど何か」という言葉は、極めて重層的な社会的示唆を含んでいる。
第一に、存在の可視化と無言の強制への異議申し立てが挙げられる。
やまゆり園事件の加害者が主張した「意思疎通の取れない障害者は安楽死させるべきだ」という論理は、障害者の存在価値を根底から否定するものであった。
これに対し、「死んでませんけど何か」という挑発的とも捉えられる力強いメッセージは、社会からあわれみや保護の対象として哀悼される存在であることを拒絶し、地域の中で現に生きていることそれ自体の権利と尊厳を突きつける言明である。
第二に、排除の普遍性に対する警告である。
石路氏は「あらゆる人がいつ排除されるかわからない社会」という認識を示している。
これは、現在の効率性や生産性を追及する社会構造において、加齢、疾病、失業、困窮などにより有用性を喪失した瞬間、誰しもが排除の標的になりうるという構造的危うさを突いたものである。
障害者がその排除社会の最前線で「生き延びてきた」歴史とノウハウは、マイノリティのみならず、社会の構成員全員が生き残るための抵抗の技法として捉え直される。
坂上香と『プリズン・サークル』:「対話の不在」の超克と回復共同体(TC)
回復共同体(TC: Therapeutic Community)のメカニズムと実践
ドキュメンタリー映画監督の坂上香氏は、約30年前から米国にて暴力の連鎖を止める取り組みを取材する中で、「回復共同体(TC: Therapeutic Community)」と呼ばれる更生プログラムと出会った。
日本国内では唯一、官民協働の男子刑務所である「島根あさひ社会復帰促進センター」においてTCが導入されており、坂上氏は6年の交渉期間と2年の撮影、10年の編集期間を経て映画『プリズン・サークル』を完成させた。
TCの核心的メカニズムは、従来の指導的・懲罰的な矯正教育とは異なり、受刑者同士が車座(サークル)になり、ファシリテーターのもとで対等に対話を行う点にある。
受刑者の多くは、幼少期に深刻な虐待やネグレクト、性暴力、差別を経験し、感情を麻痺させる「感盲」状態に陥っている。
TCの対話プロセスにおいては、まず安全な環境の中で、誰にも話せなかったトラウマや被害体験を言葉にし、自分の弱さに向き合う段階を踏む。
他者の痛みに耳を傾ける中で自己の感情を取り戻し、やがて自らの振る舞いが被害者に与えた影響や痛みを自覚する内省へと至る。
この「被害者であった自分」を認識しつつ「加害者としての責任」を受容する双方向の気づきこそが、再犯を防ぐ回復のメカニズムである。
「対話の不在」と排除の境界線への批判
坂上氏がやまゆり園事件から10年の日本社会に見出すのは、「圧倒的な対話の不在」である。
日本の刑事司法および社会通念においては、厳罰化や隔離、罪の糾弾が先行し、なぜその暴力が発生したのかという構造や当事者の背景を対話によって紐解く場が著しく欠如している。
やまゆり園事件の加害者に対しても、単に「理解不能な異物」として社会から断絶・排除し、処罰して終わらせようとする傾きが強かった。
しかし坂上氏は、社会が「あちら側(加害者・障害者・異端)」と「こちら側(健全な市民)」の間に厳固たる境界線を張り巡らせることこそが、偏見を強化し、暴力の連鎖を生み出していると告発する。
境界線を解体し、自他に向き合う対話を諦めない試行錯誤こそが、第二のやまゆり園事件を防ぐ条件であるとされる。
藤井渉と社会福祉学における「反優生学」:生産性主義の歴史的解体
社会福祉学研究者としての藤井渉氏の軌跡
藤井渉氏(日本福祉大学社会福祉学部准教授)は、障害者福祉論、戦争と障害者、優生思想史を専門とする社会福祉学者である。
著書『ソーシャルワーカーのための反『優生学講座』:「役立たず」の歴史に抗う福祉実践』(現代書館、2022年)において藤井氏は、社会福祉という営みが歴史的に優生思想とどのように結びつき、人間を選別してきたのかを学術的に実証した。
「生産性」と「役立たず」の論理構造
藤井氏の分析によれば、「社会の役に立つか否か」という価値基準は、個人の内的な属性ではなく、国家や組織が効率的統治や経済的利益のために他者との比較において設定する相対的概念である。
| 概念要素 | 従来の支配的人間観(優生思想・生産性主義) | 藤井氏が提示する反優生学福祉実践 |
|---|---|---|
| 人間価値の評価軸 |
社会・国家への貢献度、経済的有用性、生産性 |
存在そのものの尊厳、個人の幸福の保障 |
| 評価の主体 |
組織、国家、市場メカニズム |
本人、対等な関係性におけるコミュニティ |
| 社会的方策 |
隔離、選別、優生保護、施設への収容 |
地域生活の保障、分離の解消、歴史の自己検証 |
| 支援者の役割 |
管理者、社会適応の強制者、優生政策の担い手 |
「役立たず」の論理に抗う伴走者、権力構造の問直し |
歴史的に、戦前・戦後の社会福祉政策や施設入所制度は、困窮者を救済する一方で、「役立たず」とみなされた人々を社会から隔離し、国家全体の生産性を向上させるための管理装置として機能した側面を持つ。
ナチス・ドイツにおけるT4作戦(障害者安楽死計画)や、日本における旧優生保護法下の強制不妊手術は、福祉・医療の名のもとに優生学的選別が実行された最たる例である。
藤井氏は、やまゆり園事件の容疑者が抱いていた「重度障害者は役に立たないから殺す」という思想は、彼個人の特殊な妄想ではなく、現代社会の底流にある資本主義的・国家主義的な能力主義の極限的な帰結に過ぎないと指摘する。
社会福祉の実践者(ソーシャルワーカー)自身がこの歴史的負の連鎖を学び、自らの内なる優生思想を解体しない限り、「役立たず」の論理に抗うことはできないと提唱している。
総合考察:構造的排除を越える三元統合と論理的結合
3氏の発信は、当事者運動、修復的正義、歴史的福祉学という異なる切り口から、10年を経たやまゆり園事件の本質的課題に多層的な回答を与えている。
これらを統合することで、優生思想に抗う新たな社会的知見が導き出される。
隔離・分離政策の過ちと「制度的暴力」の共通性
藤井氏が批判する社会福祉における入所施設や分離教育の構造と、坂上氏が指摘する刑務所等での隔離と厳罰化の構造は、人間を社会から切り離し、目に見えない場所へ押し込めるという点において同一のメカニズムに基づいている。
社会から隔離された空間では対話が途絶し、当事者は無力化され、マジョリティの偏見は補強される。
石路氏らが推進するCIL(自立生活運動)が求める地域生活への移行と24時間介助保障の確保は、まさにこの施設隔離という制度的暴力に対する具体的解体作業である。
「加害/被害」の二分法を超えた対話と優生思想の克服
やまゆり園事件の加害者は、重度障害者を「感情や意思のない存在」として一方的に他者化し、殺傷に至った。
坂上氏のTC理念が示すように、他者を人間として認識し、その痛みに共感する力は、自らの弱さや過去の痛みが対話によって受容される経験を通じてのみ培われる。
優生思想に対抗するためには、単なる道徳的非難にとどまらず、人々が自らの不全感や痛みを言葉にできる対話の場(サークル)を社会のあらゆる層に構築することが必要不可欠である。
「生の価値」の再定義:生産性から関係性の生存へ
藤井氏の歴史的問いかけ(役に立つか否か)に対する最も直接的な実践的回答が、石路氏の「死んでませんけど何か」という叫びである。
経済的効率や社会的有用性で人間の価値を測る言説に対し、障害当事者は「ただそこに生きていること」そのものを肯定し、他者に介助されながら生きる関係性のあり方自体が社会の豊かさであると反証している。
結語:やまゆり園事件10年が提起する将来展望
津久井やまゆり園事件から10年が経過した現在においても、ネット上のヘイトスピーチや新自由主義的な優生思想は消滅していない。
むしろ自己責任論やコストパフォーマンスを重視する風潮の中で、巧妙に不可視化され、日常化している危険性がある。
本報告書で取り上げた3氏のアプローチは、この根深い構造的課題に対する総合的な指針を示している。
第一に、石路氏が展開する地域社会における障害当事者の可視化と、街頭での表現運動を通じた排除の空気の打破である。
第二に、坂上氏が提唱する司法、教育、福祉などの現場において効率性や懲罰主義を排し、個人の弱さや被害・加害の歴史に向き合う対話の実践(TC)の社会実装である。
第三に、藤井氏が追求する国家や資本が要請する「生産性」の歴史的虚構性を暴き、人間存在の尊厳を基盤とした社会福祉パラダイムの確定である。
これら三道の取り組みが有機的に結合し、社会的試行錯誤が継続されることこそが、選別と排除の社会から相生と対話の社会への転換を可能にする重要基盤となる。
