これからの弥富を「みんなの居場所」にするために
現在、私たちの住む弥富市では、人口減少や施設の老朽化に伴い、学校の統廃合(よつば小学校の新設など)や公共施設の再編が進められています。 しかし、費用や効率を優先するあまり、私たち市民の「安全」や「地域のつながり」が置き去りにされてはいないでしょうか。
この報告書は、全国で注目を集める2つの素晴らしい取り組みをヒントに、弥富市を「行政のサービスをただ消費するまち」から、「市民一人ひとりが主役になれる希望のまち」へと変えていくための提案書です。
💡 ヒントとなる2つの先進モデル
弥富市の未来を考えるうえで、お手本となる2つの実践があります。
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「希望のまち」プロジェクト(福岡県北九州市)
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どんな取り組み?: 暴力団の跡地を買い取り、生活困窮者からお年寄り、子どもまで「誰もが安心して過ごせるまち」を作る取り組み。
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学びのポイント: 「何か目的(入浴や会議など)がないと行ってはいけない施設」ではなく、「ただそこに居るだけで許される(何もしなくてもいい)空間」を作ること。赤の他人同士が助け合う「なんちゃって家族」のような関係性を目指しています。
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「みんなの学校」大空小学校(大阪市)
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どんな取り組み?: 特別支援学級を作らず、障害の有無に関わらずすべての子どもが同じ教室で学ぶ公立小学校。
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学びのポイント: 子どもを大人の枠にはめて管理するのではなく、「大人が変わる」こと。そして、不満や怒りといった「文句」を、対等な「意見」へと変えて、地域全体で学校を創り上げる姿勢です。
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🏘️ 弥富市を良くするための「3つの具体的提案」
これらのヒントを、現在の弥富市の課題に当てはめると、次のような解決策が見えてきます。
1. 総合社会福祉センターを「誰でもふらっと寄れる場所」へ
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現状: 「60歳以上」「市内在住」「利用証が必要」など、利用できる人や目的が細かく制限されており、閉鎖的な空間になっています。
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提案: 年齢や目的による制限を緩め、若者からお年寄りまで「ただお茶を飲んで座っているだけでもいい」大交流スペースへ変えましょう。世代を超えた自然な交流が生まれ、困ったときに「助けて」と言いやすい窓口になります。
2. 新設「よつば小学校」の安全確保と「みんなの学校」化
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現状: 水害リスク(海抜マイナス1.9m)が指摘される十四山西部小学校の敷地に、市は工期や費用を理由に新設を強行しようとしており、スクールバスの安全管理等にも大きな不安が残っています。
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提案: ハード(建物)の無理な統合を進める前に、ソフト(心と仕組み)の議論が必要です。市民の不安(文句)を「モンスターペアレント」として切り捨てるのではなく、対等な「意見」として受け止め、共に解決策を探る対話の場(地域学校協働部会など)を機能させるべきです。
3. 十四山中学校の跡地を「地域の共有財産(コモンズ)」へ
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現状: 行政主導で「野球場にする」という案が出たものの白紙撤回され、活用方法が迷走しています。
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提案: 単なるハコモノや民間への丸投げではなく、安全な高台にあるこの場所を地域の共有財産として活かしましょう。まずは避難所として残る期間を利用して、マルシェや子ども食堂などを実験的に開催し、平時は「みんなの居場所」、災害時は「命綱」となるような空間を市民参加で作っていくべきです。
🤝 私たち市民にできること
弥富市はいま、大きな危機と対立の中にありますが、これは同時に「まちを再生する最大のチャンス」でもあります。
行政にすべてを任せて不平を言う(文句)のをやめ、私たち市民自身がまちづくりのサポーターとして「こうしませんか?」と提案(意見)していくこと。そして、行政はそれを対等に受け止めること。
「対話」と「お互いを認め合う姿勢(共生)」を通じてまちを作っていくそのプロセスこそが、次の世代の弥富の子どもたちへ残せる最高のプレゼントになります。
愛知県弥富市における地域共生社会の再構築――「希望のまち」構想と「みんなの学校」理念の交差による包括的コミュニティデザイン
1. 序論:社会的共通資本としての地域の再定義とパラダイムの転換
現代の日本社会は、人口減少、少子高齢化、そして単身世帯の急増による社会的孤立という構造的な課題に直面している。
これに伴い、全国の自治体では公共施設の統廃合や再編が急務となっており、愛知県弥富市においても、学校の統廃合や公共施設の再配置が極めて重要な政治的・社会的イシューとなっている。
しかし、こうした行政主導の施設再編は、しばしば財政効率やハードウェアの合理化という「管理の論理」に偏重し、地域住民のアイデンティティやコミュニティの有機的な繋がりといった「共生の論理」を見落とす危険性を孕んでいる。
本報告書は、こうした地域社会の転換期において、真に包摂的(インクルーシブ)なコミュニティをいかに構築すべきかという問いに対し、二つの先駆的な実践モデルを援用して深い社会的・哲学的考察を行う。
一つは、特定危険指定暴力団の跡地を買い取り、生活困窮者支援から全世代型の地域共生拠点へと昇華させようとする北九州市の認定NPO法人抱樸(ほうぼく)による「希望のまち」プロジェクトである。
もう一つは、大阪市立大空小学校において、障害の有無に関わらずすべての子どもが同じ教室で学ぶことを徹底した「みんなの学校」の取り組みである。
一見すると、対象とする層(生活困窮者を中心とする一般市民と、公教育における児童)やアプローチが異なるこれら二つの実践は、根底において「個人の尊厳の回復」「支援者(大人)側の自己変容」、そして「閉鎖された楽園(サンクチュアリ)からの脱却」という共通の哲学を有している。
本報告書では、両者のコンセプトと実情を詳細に検証し、その理念的交差を明らかにする。
さらに、愛知県弥富市が抱える学校再編(新設「よつば小学校」および十四山中学校跡地問題)や、総合社会福祉センターの機能的限界といった具体的な行政課題に対し、これらの理念をいかに実装し、「行政サービスを消費するまち」から「市民全員が主役となり共創する希望のまち」へと脱構築できるかを提示する。
2. 「希望のまち」の思想と実践:閉鎖的「サンクチュアリ」からの脱却
2.1 負の遺産から希望の拠点への転換と社会化のプロセス
「希望のまち」プロジェクトは、福岡県北九州市を拠点に1988年から35年以上にわたり生活困窮者やホームレスの自立支援を行ってきた認定NPO法人抱樸(理事長:奥田知志)が推進する一大社会事業である。
特筆すべきは、その建設予定地が、かつて日本唯一の特定危険指定暴力団「工藤会」の本部事務所跡地であるという点である。
2020年に民間企業を経てこの土地を約1.3億円で買い受けた抱樸は、全国からの寄付によって土地代を完済し、「怖いまち」という烙印を押された地域を、誰もが安心して暮らせる「希望のまち」へと反転させることを企図した。
総工費約15億円から16億円を見込むこの複合型社会福祉施設は、当初の10億円の計画から物価高騰や資材価格の上昇を受けて設計変更を余儀なくされつつも、クラウドファンディング等を通じて全国から資金を集め、2026年度中のオープンを目指している。
3階建ての施設には、誰もが利用できる大交流スペース、レストラン、音楽スタジオに加え、生活保護受給者や障害者が暮らす全室個室(11平米)の救護施設(定員50名)が内包される。
さらに、施設運営を持続可能なものとするため、社会デザイン会社と協働し、1企業あたり10年間で計100万円の協賛を募る「百社中プロジェクト」を展開し、資金だけでなく人材派遣などの協力体制も構築している。
2.2 「施設(サンクチュアリ)」の否定と「まち」への開放
奥田氏がこのプロジェクトにおいて最も強調しているのが、ここを「総合福祉センター」や「単なる施設」とは呼ばず、「希望のまち」と呼称する点である。
従来の福祉施設は、特定の課題(高齢、障害、貧困など)を抱えた人々を社会から隔離し、専門家が保護する「閉鎖された楽園(エデンやサンクチュアリ)」としての性質を強く持っていた。
奥田氏によれば、迷惑をかける人を家族や社会から隔離するという発想は、結果として当事者を閉じ込め、「お互い様」の精神とは真逆の排除を生み出してしまう。
牧師でもある奥田氏の背景には、弱さをありのままに受け入れるキリスト教的な隣人愛の哲学が存在し、それが「断らない支援」という行動原理に結実している。
「希望のまち」は、このサンクチュアリ化を意図的に解体する。
救護施設という専門的な福祉サポートと、カフェや学習支援といったごく普通の日常的な地域交流を同じ空間に融合させることで、支援される側と支援する側の境界線を溶かそうとしている。
これは、困窮者だけを特定の空間に押し込めるのではなく、ごく普通の当たり前の人々が行き交う「まち」の中に福祉を埋め込むという、社会デザインの根本的なパラダイムシフトである。
施設という箱庭に閉じ込めるのではなく、誰もが自由にアクセスでき、街の一部として機能する開放性こそが「希望のまち」の要諦である。
2.3 「何もしないこと」を希望と捉える受容の哲学
「希望のまち」の理念の中で最も深淵かつ社会への強烈なアンチテーゼとなるのが、「何もしないこと」の積極的受容である。
現代の資本主義的・行政的な価値観においては、人間は常に何らかの目的を持ち、生産的・自立的に活動することが「善」とされる。福祉においても、就労やリハビリといった「目的」が設定されがちである。
しかし、奥田氏は「自立とは依存先を増やすこと」であり、社会の価値観を押し付けるのではなく、ただそこに居ることを肯定する姿勢を貫いている。
深い傷つきや孤立の中にある人にとって、「今日から頑張って働こう」といった前向きな目標を持つことすら困難な場合がある。
そのような状態の個人が「自分は今は寝ていたい」「今は何もしたくない」と願うとき、それもまた一つの立派な「希望」として受容されるべきである。
行政の福祉施設では、利用者は「入浴をする」「活動をする」という目的を強制されがちであるが、「希望のまち」では、無目的のまま存在することが許容される。
個人の尊厳とは、生産性や役割によってのみ担保されるものではなく、その人がただ「私」として正直に生きられる関係性(間柄)の中にこそ生じるからである。
何もしない時間を他者と共有できる空間こそが、真の意味での心の避難所となる。
2.4 「家族機能の社会化」と「なんちゃって家族」の形成
抱樸の理念の根底には、「家族機能の社会化」という明確な目標がある。
現在、抱樸は刑務所出所者の更生支援から、子どもへの学習支援、住居喪失者への保証人提供など27から29に及ぶ事業を展開し、2,000人以上を支援している。
これらはすべて、出会いから看取りまで、本来であれば家族が担ってきた機能を社会全体で分担するための試みである。
単身世帯が4割を占め、地縁や血縁が希薄化した現代において、「家族でなんとかしろ」という自己責任論はすでに破綻している。
希望のまちが目指すのは、いざという時に「助けて」と言える関係性を、赤の他人同士が構築する「なんちゃって家族」の形成である。
支援を「してあげる・してもらう」という一方向の関係ではなく、誰もが出番と居場所を持ち、「助けられた人が、いつか誰かを助ける人になる」という循環型の社会を具現化しようとしている。
3. 「みんなの学校」の理念:すべての人が主役となる教育と地域の再編
3.1 排除の論理を排した徹底的なインクルーシブ教育
「みんなの学校」として広く知られる大阪市立大空小学校(元校長:木村泰子氏)の実践は、公教育におけるインクルーシブ教育の極致として全国的な注目を集めた。
同校では特別支援学級を一切設けず、障害の有無や発達の特性、家庭環境の困難さに関わらず、すべての子どもたちが同じ普通学級で共に学ぶことを原則とした。
この学校にある唯一のルールは、「自分がされていやなことは人にしない 言わない」という「たったひとつの約束」のみである。
この約束を破った子どもは、集団から排除されたり一方的に罰せられたりするのではなく、校長室(やり直しの部屋)にやってきて、自らの行動を振り返り「やり直す」機会が与えられる。
失敗をなかったことにはしないが、失敗したからといって終わりにはしない。この「失敗しても、やり直せる自由」の保障こそが、子どもたちの自己肯定感と当事者意識を育む土台となっている。
3.2 主役としての「子ども」と自己変容する「大人」
「みんなの学校」が持つ最大の特異性は、子どもを変えようとする前に、まず「大人(教員や地域住民)が変わる」ことを要求する点にある。木村氏によれば、教員は「教えるプロ」や「いい先生」として上から子どもを指導・管理する存在ではなく、失敗を恐れずに「子どもと共に学ぶ大人」でなければならない。
従来型の学校システムでは、静かで言うことを聞く子が「良い子」とされ、騒がしい子や特性のある子は「問題児」として扱われがちである。
しかし、大空小学校では、35人の子どもがいれば35通りの個性があり、何もかもが教員の思い通りになる権威主義的な構造こそが危険であると戒めている。
不登校ゼロを実現した背景には、子どもの行動を「問題」として切り捨てるのではなく、学校や教員、そして地域社会側の「見る目(空気)」を変えるという徹底したパラダイムシフトがあった。
3.3 「文句」を「意見」に昇華させる対話の技法と民主的ガバナンス
「みんなの学校」の実践において象徴的なアプローチが、「文句を意見に変える」という指導である。
不満や怒りを感情的な「文句」としてぶつけるだけでは、対立と排除しか生まれない。
しかし、何に困っているのか、どうしてほしいのかを対等な立場で言語化し「意見」へと昇華させることで、子どもたちは初めて社会を形成する当事者となる。
このプロセスは、子どもだけでなく大人にも当てはまる。
保護者や地域住民が学校に対して抱く「文句」を、対話を通じて「意見」へと変換し、学校運営の協働者(サポーター)へと変えていく。
学校を地域に開き、地域の住民や学生ボランティアを巻き込むことで、学校は教員や行政だけのものではなく、文字通り地域社会の「みんなの学校」へと変貌を遂げるのである。
4. 両者の理念的交差:支援と被支援の非対称性の解体
「希望のまち」と「みんなの学校」は、福祉と教育という異なるフィールドで実践されているが、その最終的な到達点と哲学は完全に一致している。
その本質は「関わる人すべてが主役(当事者)になり、相互に関係することで尊厳が保たれる」という点にある。
4.1 支援者側の尊厳回復と「希望」の相互作用
福祉や教育の現場では、しばしば「奉仕する側(専門家、教員、地域住民)」と「奉仕される側(困窮者、児童)」という非対称な権力構造が生まれやすい。
しかし、「希望のまち」の奥田氏が「かわいそうな人を助けるのではない、あるべきまちを創るのだ」と宣言し、「みんなの学校」の木村氏が「教えるプロから、共に学ぶ大人へ」の転換を説くように、両者はこの非対称性を意図的に解体している。
「みんなの学校」において地域住民や教員が子どもに関わることは、単なる自己犠牲的な「奉仕」ではない。
子どもと向き合い、自らの価値観を揺さぶられながら共に成長するプロセスを通じて、大人自身も地域社会の主役としての実感を得る。
同様に「希望のまち」においても、支援者と被支援者の境界が曖昧になることで、関わるすべての人の中に「希望」が生まれ、個人としての尊厳が保たれるのである。
他者との関係性(間柄)の中で自らの立ち位置を再発見し、共に成長していくというエコシステム(生態系)の構築こそが、両プロジェクトの裏表一体となった真髄である。
| 比較項目 | 希望のまち(NPO法人抱樸) | みんなの学校(大空小学校) | 共通する哲学的基盤 |
|---|---|---|---|
| 主たる対象 |
生活困窮者、孤立者、刑務所出所者などを含むごく普通の人々 |
公教育の場における児童、およびその保護者・教員・地域住民 |
属性による排除を行わず、ありのままの存在を受容する。 |
| 空間的アプローチ |
負の象徴(暴力団跡地)を更地から買い上げ、全く新しい拠点施設を物理的・概念的に構築する |
既存の公的インフラ(公立小学校)の内部OS(ソフトウェア)を根底から書き換える |
閉鎖された「サンクチュアリ」を否定し、地域に開かれた「場」を創出する。 |
| 「目的」の扱い |
労働や生産の義務から解放され、何もしないこと自体を「希望」として最大限に許容する |
学校という性質上、「共に学ぶ」という方向性は持つが、失敗し「やり直す」ための猶予空間を保障する |
効率や成果主義から距離を置き、個人のプロセスを重視する。 |
| 大人の役割 |
専門家として管理するのではなく、赤の他人が「なんちゃって家族」として伴走する |
「いい先生」であることを捨て、失敗を恐れず「子どもと共に学ぶ大人」へと自己変容する |
支援・指導という非対称性を解体し、互いの尊厳を回復する。 |
| 表1:「希望のまち」と「みんなの学校」の理念的比較と交差 |
5. 愛知県弥富市の現状と構造的課題の検証
ここまでの普遍的・哲学的な考察を、愛知県弥富市が直面している具体的な地域課題に引き直して検証する。
現在、弥富市では公共施設の老朽化や少子化に伴い、大きな再編の波が押し寄せている。
しかし、そのプロセスにおいて、行政の論理(効率性)と市民の論理(安全性・共生)が激しく衝突している実態がある。
5.1 総合社会福祉センターの「サンクチュアリ化」と限界
弥富市には、「弥富市総合福祉センター」および「十四山総合福祉センター」が存在し、地域福祉の拠点として機能している。
これらの施設は、多目的ホール、各種会議室、調理実習室などを備え、貸館業務を行っているほか、老人福祉センターやデイサービスセンターとしての機能も併設している。
しかし、その実態を「希望のまち」の理念に照らし合わせると、強い「サンクチュアリ化(閉鎖的施設化)」の傾向が見て取れる。
例えば、浴室(十四山では準天然温泉)やカラオケルーム、教養娯楽室の利用は「市内に在住する60歳以上の者」に厳密に限定されており、利用証の提示が義務付けられている。
利用時間も午前9時から午後5時(浴室等は午後4時まで)と限定的であり、施設使用料も細かく設定されている。
これは、特定の属性(高齢者、要介護者、障害者)を持つ人々に対して、特定の目的(入浴、カラオケ、会議)を提供するための、行政による「サービスの切り売り」である。
この仕組みの中では、目的を持たずに「ただそこに居たい」という若者や、属性の枠にはまらない生活困窮者がふらりと立ち寄ることは不可能に近い。
行政課題を縦割りで処理する現在の福祉センターは、奥田氏が指摘する「迷惑をかけないように社会から隔離された楽園」として機能してしまっており、多様な人々が交差して「なんちゃって家族」を生み出す土壌が欠如しているのである。
5.2 小学校再編(よつば小学校)を巡る安全の軽視と対話の欠如
弥富市が抱える最も先鋭的な対立が、小学校の統廃合問題である。
市は、老朽化と少子化が進行する大藤小、栄南小、十四山東部小、十四山西部小の4校を統合し、2028年4月に新設校「よつば小学校」を開校する計画を進めている。
この再編において、行政側は既存の「十四山西部小学校」の敷地を活用し、既存校舎(鉄筋コンクリート造2階建て延べ1,677平方メートル)の改修と新校舎(鉄筋コンクリート造3階建て延べ2,564平方メートル)の増築を行う方針を決定し、約19億3,000万円で特定建設工事共同企業体と契約を結んだ。
しかし、この決定には致命的な欠陥が指摘されている。
十四山西部小学校は海抜マイナス1.9メートルの地帯に位置しており、1959年の伊勢湾台風級の高潮や巨大地震による津波が発生した場合、2階まで完全に浸水する極めて高い水害リスクを抱えているのである。
これに対し、市民や市議会、建築の専門家からは、代替案として安全な高台設計が可能であり、敷地面積にも余裕のある「十四山中学校跡地」に新校舎を新築すべきだという強い要求が突きつけられた。
市議会は全会一致で「十四山中学校跡地への新設を求める決議」を可決したにもかかわらず、市長および行政側は「費用や工期」を盾にこれを拒否し、住民の不安を独自の論理でねじ伏せる形で現行案を強行している。
さらに、ソフト面においても深刻な課題が山積している。
260名の児童を9台のバスで17便にわたってピストン運行するという極めて余裕のないスクールバス計画において、行政は予算を理由に「添乗員を配置しない」と明言している。
低学年のシートベルト着脱確認やトラブル対応を運転手一人、あるいは児童同士に丸投げする構造は、安全管理の放棄に等しい。
また、歩車分離の未整備など、ハード面の制約を「教員を立たせて監視させる」という精神論と肉体労働でカバーしようとしている点も、教職員の心理的・肉体的負担を度外視したものである。
5.3 廃校(十四山中学校跡地)の行方とコモンズの喪失
小学校再編の議論で代替地として提案された十四山中学校(2025年3月閉校予定)の跡地利活用についても、行政の迷走が続いている。
市は当初、この跡地に民間需要が低いことを理由に「新グラウンド(硬式野球場など)」を整備する方針案を示した。
しかし、住民への説明不足や不透明なプロセス、防災計画への配慮欠如に対する強烈な反発を招き、2025年8月のパブリックコメントでは、既存校舎の残置や避難所としての活用を求める声が多数寄せられた。
結果として、市は2026年1月に現行のグラウンド整備案を白紙に戻し、よつば小学校の整備が完了する2028年4月までは既存校舎を緊急避難所として残置することを決定した。
行政は今後、サウンディングを通じて民間事業者から活用アイデアを募るとしているが、ここにも「行政主導のハコモノ整備」か「民間への丸投げ」という二極化の思考しか存在しない。
地元活動家の佐藤仁志氏らが提言するように、この跡地を単なる遊休地や特定目的のハコモノとして処理するのではなく、地域の知恵と歴史を共有する「コモンズ(共有地・社会的共通資本)」として再生させる視点が決定的に欠落している。
| 比較軸 | 行政主導の現在案(十四山西部小学校地) | 市民・専門家提案(十四山中学校跡地) |
|---|---|---|
| 防災・安全性 |
海抜-1.9m。伊勢湾台風級の災害時、2階まで浸水リスクあり。一部旧基準施設。 |
高台設計が容易で水害に強い。最新の安全基準を満たした新築が可能。 |
| コスト・工期 |
狭小敷地での増改築による工事リスク。将来の建替を含めると割高になる可能性。 |
更地新築に近いため遅延リスクが低い。長期的には経済的無駄が少ない。 |
| 敷地の余裕と動線 |
バス待機スペースや保護者駐車場に著しい制約。歩車分離が困難。 |
敷地が広く、バス動線や駐車場にもゆとりを持って対応可能。 |
| 意思決定プロセス |
議会決議を無視し、工期を理由に強行。住民の不安を置き去りにしている。 |
議会が全会一致で要求。住民との熟議を通じた合意形成を目指す。 |
| 表2:弥富市における小学校再編地の比較検証 |
6. 弥富市における実践的適用:包括的コミュニティデザインの提案
弥富市が現在の機能不全や激しい対立を乗り越え、「対話と共生」の地域社会を再生するためには、行政の論理(効率・管理)から、コモンズの論理(包摂・共創)へとパラダイムを転換する必要がある。
「希望のまち」と「みんなの学校」の理念を、弥富市の文脈に実装するための具体的なモデル構築を以下に提示する。
6.1 総合社会福祉センターの「希望のまち」化
現在の弥富市総合社会福祉センターを、単なる「条件付きの行政サービス提供場所」から、「希望のまち」のコンセプトを取り入れた開かれた場へと脱構築する。
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無目的の受容空間の創出: 利用者に「入浴」や「会議」といった活動を強いるだけでなく、ただお茶を飲んで座っているだけ、あるいは「寝ていたい」「何もしたくない」という状態を許容するラウンジ的な空間を設ける。目的を排除することで、結果的に心の障壁が下がり、孤立した個人が「ここに居てもいい」という安心感(希望)を得られる。
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属性の解体と多世代交流(なんちゃって家族の創出): 「60歳以上」「要介護者」といった属性による空間の分断を緩める。奥田氏の「人を属性で見ない(抱樸する)」という哲学に則り、子どもから高齢者、生活困窮者、さらには廃校(はいこう)が増え地域の居場所を失った人々が同じ空間で過ごせる「大交流スペース」を導入する。これにより、支援される側であった高齢者が、いつの間にか放課後の子どもの見守り役となるような、出番の好循環を生み出す。
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「助けて」と言えるワンストップの緩やかな相談窓口: 市役所の堅苦しい窓口ではなく、センター内でコーヒーを飲みながら雑談の延長で「実は困っている」とこぼせるような、アウトリーチ的かつインクルーシブな伴走型の支援拠点を整備する。これにより、行政課題を丸ごと一つの考え方で包括的に吸収することが可能となる。
6.2 「よつば小学校」への「みんなの学校」OSのインストール
ハードウェア(建物の位置や設備)の統合ばかりに目を奪われているよつば小学校の開校準備において、最も欠落しているのが「ソフトウェア(教育OS)」の議論である。
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教職員と大人の意識改革(大人が変わる): 統合により多様な子どもたちが集まる新設校において、子どもを管理し、大人の枠にはめようとするアプローチは必ず破綻する。教職員や保護者が「みんなの学校」の理念を共有し、「指導する大人」から「共に学び、失敗を許容する大人」へと自己変容を遂げることが不可欠である。行政は教員に安全管理(バスの監視など)を精神論で押し付けるのではなく、心理的安全性を担保する防波堤とならねばならない。
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「文句」を「意見」に変える熟議の場づくり: 新設校の立地や安全対策に対する市民の怒りや不安(文句)を、行政が「説明不足」や「モンスターペアレント」として処理するのではなく、それを対等な「意見」として受け止め、共に解決策を探るプロセスを構築する。弥富市小学校再編委員会の下部組織が「PTA部会」から「地域学校協働部会」へと名称変更されたことは、学校を地域全体の公共の場(プラットフォーム)へ再定義する萌芽であり、この動きを実質的な民主的ガバナンスの場として機能させるべきである。
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不登校や特性を排除しない教室環境: 「よつば小学校」において、特性のある子や登校しぶりを見せる子を排除するのではなく、同じ空間で共に学び合える仕組みをデザインする。失敗しても「やり直す自由」を保障することが、真のインクルーシブ教育の第一歩となる。
6.3 廃校跡地(十四山中学校跡地)の「コモンズ化」と希望の展開
白紙に戻った十四山中学校の跡地こそ、「希望のまち」と「みんなの学校」の理念を物理的に融合させる絶好のキャンバスである。北九州の街だけでなく、日本中が希望の街だらけになればいいというビジョンを、弥富市において実現する試金石となる。
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行政主導のハコモノからの脱却と共創の義務化: トップダウンで「野球場」を決定するのではなく、佐藤仁志氏が提言するように、地域住民が参加する「共創型」の計画策定を義務付ける。跡地を単純に売却するのではなく、「社会的共通資本(ストック・シェアリング)」として地域全体で保有し活用する枠組みを構築する。
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失敗と試行錯誤の実験場としての暫定利用: 2028年までの避難所としての暫定利用期間を逆手に取り、既存校舎の一部を使って、マルシェ、子ども食堂、高齢者の集い、不登校児童のフリースペースなどを実験的に運用する。これは、抱樸が工藤会跡地で行った「にわカフェ」やプレハブ小屋「SUBACO」での交流と同じアプローチであり、空間に地域住民の「体温」を吹き込む作業である。
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防災とインクルージョンを兼ね備えたオープンな広場: 浸水リスクの高い弥富市において、比較的安全な十四山中学校跡地は、有事の際の絶対的な命綱となる。平時は「誰でも居ていい、何もしなくてもいい」希望のまちとして機能し、災害時には地域全体を包摂する真のセーフティーネットとして機能する場を創出する。
7. 結論:対話と共生による弥富市の再生に向けて
本報告書では、NPO法人抱樸の「希望のまち」と、大空小学校の「みんなの学校」という二つの卓越した実践の哲学を解き明かし、それを愛知県弥富市が直面する公共施設再編や学校統廃合の文脈に応用する道筋を提示した。
「希望のまち」が教えてくれるのは、閉鎖的なサンクチュアリ(施設)に人々を閉じ込めるのではなく、街の中に福祉を開放することの重要性である。
個人の尊厳とは生産性や社会的な役割によってのみ計られるものではなく、「何もしないこと」すらも希望として受け入れられる寛容な関係性(依存先の複数化)の中に立ち現れる。「みんなの学校」が示しているのは、子どもたちを管理・統制するのではなく、大人自身が自己変容し、「共に学ぶ」姿勢を示すことによってしか、真の包摂的な場は生まれないということである。
そして、両者に共通するのは、関わるすべての人が主役(当事者)となり、相互の尊厳が守られることである。
弥富市は現在、行政の効率主義と市民の安全・コミュニティを求める声が激しく衝突する危機的状況にある。
よつば小学校の無理な立地計画やソフト面での未整備、十四山中学校跡地の迷走、総合社会福祉センターの硬直化・サンクチュアリ化といった課題は、単なる行政手続きのエラーではなく、地域社会の「OS(ソフトウェア)」が時代遅れになっていることの決定的な顕在化である。
しかし、この危機は同時に「弥富再生」の最大のチャンスでもある。行政が住民の不安(文句)をねじ伏せるのをやめ、それを対等な「意見」として受け入れたとき、廃校跡地は失われた遺産ではなく「未来のコモンズ」となり、新設される学校は真の「みんなの学校」となる。
そして、既存の総合社会福祉センターは、条件付きのサービス提供施設から、誰もが自由に集い、何もしなくても許容される「希望のまち」へと生まれ変わるであろう。
弥富市に求められているのは、単なる建物の統合やスクラップ・アンド・ビルドではない。アウトリーチ的かつインクルーシブなアプローチによって行政課題を包括的に捉え、すべての市民が当事者として関わり、地域を支える社会的共通資本を再構築する決断である。
行政の防波堤のもと、市民が不平を言う存在から地域を創るサポーターへと意識を変革し、対話と共生に基づくまちづくりを実践するプロセスそのものが、次世代へ残すべき最大の遺産となるのである。

