「川にお願いして作らせてください。そうした気持ちがあるかどうかで、作り方は全然変わってくる」 人間の都合で自然をコントロールしようとする現代社会に、そう警鐘を鳴らし続ける河川工学者がいます。地域の人々の暮らしを奪うダム開発への疑問から出発し、川を「人の体と心を作り、文化を育むもの」と再定義した大熊孝氏。自然への畏敬と感謝を忘れない、ある技術者の祈りにも似た軌跡を紐解きます。
こころの時代〜宗教・人生〜
川とひとをみつめて 〜ある河川工学者の半生〜
初回放送日
ダムや河口堰など川の開発の必要性を問い続け、河川工学者でありながら「ダムは川の敵対物になっている」と発言してきた大熊孝さん。
それはなぜなのか?その背景には、高度経済成長時代の河川工事の負の側面、新潟で初めて知った川の豊かな自然の力、未認定の新潟水俣病患者を描いた映画「阿賀に生きる」の製作委員会代表として活動した体験があった。
人間にとって川とはどんな存在なのか。自然と人間の共生のあり方を考える。
🔑 キーワード
文章を読み解く上で、核となる重要なキーワードです。
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河川工学と自然支配 戦後の高度経済成長期に主流だった「自然を改造し、人間の都合で支配する」という考え方。国や社会の発展のために、地域住民の犠牲(水没など)や環境破壊が容認されてきた歴史。
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川の定義(体と心を作り、地域の文化を育む) 大熊さんがたどり着いた独自の川の定義。川は単なる水の通り道や資源ではなく、そこで暮らす人々の肉体や精神を形成し、ひいては地域の文化そのものを生み出す源であるという視点。
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山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ) ※文中では「山西創木質部署」「参戦草木室仏性」などと変換されていましたが、仏教の言葉です。山や川、草や木など、自然のあらゆるものに仏としての命が宿っているという、日本古来の自然観。
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映画『阿賀に生きる』 社会問題(新潟水俣病)を声高に叫ぶのではなく、川とともに生きる人々の「日常」や「暮らしの豊かさ」を淡々と描くことで、逆に失われたものの大きさを浮き彫りにした活動。
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治水と環境保全のジレンマ 近年の異常気象(線状降水帯など)により、人命を守るための治水(流水型ダムなど)と、清流などの環境保全をどう両立させるかという現代の葛藤。
💘 刺さる言葉
大熊さんや登場人物たちの価値観が色濃く表れている、印象的な言葉の抜粋です。
「川にお願いして作らせてください。どうしても必要だから作らせてください。(中略)自然征服の考え方で作ってるかでは、作り方が全然変わってくる」
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解説: 人間の都合でどうしても自然に手を加える必要があるとき、それを「人間の権利」と驕るか、「自然に許しを請う」謙虚さを持つかで、最終的な成果物や環境への配慮が全く別物になるという本質的な指摘。
「単純な水循環の定義には、生物がいるだとか、人との関係の中で文化を作っていくとか、そういうことは一切書かれていない。無意味でかわいそうな定義だ」
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解説: 従来の工学的な川の捉え方が、いかに人間の血の通った生活や自然の生態系を無視していたかを端的に表した言葉。
「我々を作ってる関係ってのは、完成した関係なんかない。絶えず新しいことが起きるたんびに関係の作り直しみたいなことをやりながらいく」
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解説: 哲学者の内山高志さんの言葉。自然をコンクリートで完全にコントロールしようとするのではなく、自然の変化に合わせて人間も柔軟に関わり方を変えていくことこそが「共生」であるという視点。
「人間だけは欲があって、その自然界の関係性を壊してしまう。だから、そのことを人間は自覚して、生活しなさい」
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解説: 山川草木悉皆成仏の思想を現代に適用した言葉。恩恵を受けていること、そして自分たちが自然を壊しうる存在であるという「後ろめたさ」を自覚し、感謝しながら生きることの重要性。
📝 論点整理
このドキュメンタリーが提起している重要なテーマや対立軸を3つの論点に整理しました。
論点1:国家主導の開発 vs 地域の暮らし・文化
戦後の公共事業は「国家の視点(俯瞰的)」で効率や利益を追求し、ダム建設などが行われました。しかし、そこには何万年もかけて築かれた集落や、川とともに生きてきた人々の「地域の視点(現場)」が抜け落ちていました。開発は誰のためのものか、そしてその陰で犠牲になる文化や暮らしをどう評価するのかが問われています。
論点2:自然を「支配」するのか、「畏敬・感謝」するのか
近代土木工学は、技術の力で自然をコントロールし、災害をねじ伏せることを目指してきました。しかし大熊さんは、洪水すらもかつては豊かな土壌をもたらす「恵み」であったと指摘します。自然を「思い通りにできる対象」とみなすのか、それとも「生かされている圧倒的な存在」として畏敬の念を持ち、謙虚に「お付き合い」をしていくのかという、自然観のパラダイムシフトが提示されています。
論点3:現代における「命」と「自然」の究極の選択
気候変動によって水害が激甚化する現代において、「自然環境を守りたい」という思いと「住民の命を守らなければならない」という切実な課題が衝突しています(球磨川の流水型ダムの事例など)。この葛藤の中で、単に「ダムは絶対悪だ」と切り捨てるのではなく、どうしても作る必要があるなら、どのような「哲学」と「デザイン(周辺環境への配慮など)」をもって作るべきなのか、技術者と市民の双方に問いかけられています。
ご提示いただいた文章は、テレビ番組(河川工学者・大熊孝さんのドキュメンタリー)の音声認識による書き起こしと思われます。
非常に読みにくくなっている原因である「音声認識の誤変換(キスイヤ→治水や、蒲→川、など)」や、「関係のないノイズ音声(テレビ番組の裏音声と思われる『雛祭り』『ジュースの交換』などの羅列)」を修正・削除し、内容がスッと頭に入ってくるように整理しました。
「河川工学者・大熊孝の軌跡」要約
戦後の「自然支配」を前提とした土木工学に異を唱え、半世紀にわたり「川と人間の本来のあり方」を問い続けてきた河川工学者・大熊孝氏の半生と思想を描いたドキュメンタリーです。
4つの重要なポイント
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「自然支配」の土木工学への疑問 高度経済成長期、国家主導のダム開発によって地域住民の暮らしや文化が犠牲になる現実を目の当たりにし、「自然を最大限利用し、人間の都合で支配・改造する」という当時の土木工学の常識に強い疑問を抱きました。
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川の新しい定義 水俣病の影を抱えながらも川とともに生きる人々を描いた映画『阿賀に生きる』の製作などを経て、川の本質を単なる水循環ではなく「ゆっくりと時間をかけて人々の体と心を作り、地域の文化を育む存在」と再定義しました。この確信を胸に、自然を壊す不要な開発に対して正面から声を上げるようになります。
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治水と環境保全のジレンマ 気候変動により水害が激甚化する現代において推進されている「流水型ダム」に対しても、長期的な土砂堆積による自然破壊のリスクを指摘しています。かつての人々が水害を「肥沃な土をもたらす恵み」とも捉え、高い土台に蔵(水屋)を建てるなどして柔軟に備えていたように、自然を力で抑え込むのではなく、人間側が関わり方を変化させる「共生」の重要性を説きます。
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山川草木悉皆成仏(自然への畏敬と謙虚さ) すべての自然に命が宿るという思想のもと、自然を壊してしまう人間の欲への「後ろめたさ」を自覚することの大切さを提唱しています。「人間のために自然を改造する」という驕りを捨て、「どうしても必要だから、自然に許しを請うて作らせてもらう」という謙虚で慎ましい姿勢こそが、これからの技術者と社会に求められていると結んでいます。
📺 ドキュメンタリー:河川工学者・大熊孝の軌跡(整理版)
1. イントロダクション:人間は川を支配できるのか
猛暑による水や電力の不足、線状降水帯などの豪雨による河川の氾濫が相次ぐ日本。 人の力で川をコントロールし、治水や電力の確保を目指す「河川工学」において、ダムや堰の建設がもっぱら議論される中、それに異を唱え続けてきた河川工学者がいます。大熊孝(おおくま たかし)さんです。
「川は、私達の生活に何を与えてきたのか」 「人は川に、どのような生き方を教えられてきたのか」
大熊さんは河川工学者でありながら、ダムの建設や大規模な河川工事に警鐘を鳴らし続けています。
大熊さんの言葉 「やっぱり、あの恩恵を受けてるってことをきっちり自覚して、感謝するということ。その川との関係を感謝の気持ちで見ていたら、工事をするときにちょっと違った対応が出てくるかもしれない。『川にお願いして作らせてください』『どうしても必要だから作らせてください』という気持ちで作っているか、『自然征服』の考え方で作っているかでは、作り方が全然変わってくると思う」
人間が自分たちの都合だけでいたずらに自然を支配し、川に手を加えることは見直すべきではないか。大熊さんがそう考えるに至るまでには、川とともに生きる人々との様々な出会いがありました。
2. 墓に刻んだ信念「山川草木悉皆成仏」
大熊さんは今年83歳になります。東京大学で河川工学を学び、大学院修了後、新潟の地に暮らして53年が経ちました。人生を顧み、新潟の豊かな自然を一望する場所に建てた自分のお墓には、自らの信念を込めた言葉が刻まれています。
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山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ) 山や川、草や木、あらゆる生き物に至るまでの自然その一つ一つ全てに「仏としての命」が宿っていると説く、日本特有の仏教思想です。
大熊さんは、「自然との関係性を大事にするこの言葉が、自分の生き方を象徴している」と語ります。
3. 高度経済成長期の「自然改造」と土木工学
大熊さんが河川工学者としての道を踏み出したのは、東京大学に入学した1963年のこと。時代は戦後の高度経済成長の真っ只中でした。
東京オリンピック開催を間近に控え、高速道路や新幹線など大規模な公共工事が急ピッチで進められており、当時の土木工学はまさに「時代の寵児(花形)」でした。
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当時の空気感
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自然を改造・開発していくという意識が強かった。
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「自然への配慮」よりも「自然の最大限の利用」が当たり前。
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「地球の彫刻家になる」「地図に残る仕事をする」と学生たちも沸き立っていた。
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都市部への人口集中に伴い、電力や水資源の供給が喫緊の課題となり、全国各地でダム建設が進められます。法律も改正され、国による河川の管理権限が強化されていく時代でした。
4. 開発の裏側での犠牲と、河川工学への疑問
大学で学ぶにつれて、大熊さんは華やかな開発の裏側で様々な問題が起きていることを知ります。
その大きなきっかけとなったのが、熊本と大分の県境を流れる筑後川のダム建設を巡る「蜂の巣城紛争(戦後最大のダム建設反対闘争)」でした。 ダム建設により自分たちの集落が水没することを知った住民たちが反対の声を上げましたが、約13年間続いた運動にも関わらず、国は強制的に住民の土地を収用し、ダムを建設したのです。
大熊さんの回顧 「公共事業は世の中の役に立つんだから、少々犠牲を払ってもいいという感覚を、当時の国民はみんな持っていたと思います。国家の視点で見れば、いかに効率的に電気を生み出せるかが重要で、そこに人が住み、何万年もかけて築いてきた文化や集落があったとしても『お金を出して補償すればいい』となってしまっていた」
引き続き、音声認識の誤変換やノイズを修正し、文脈がスッと頭に入ってくるように整理しました。
今回は特に「酒(サケ)→鮭」「ANA(アナ)に生きる→阿賀(あが)に生きる」「UKの研究→雪(ゆき)の研究」といった、文意を大きく損ねてしまうAIの聞き間違いが多く含まれていたため、本来の文脈に合わせて大幅に補正しています。
5. 大学院での恩師との出会いと「異例の博士論文」
「自分のダムの統合管理の研究は、単なる机上の空論でしかないのではないか」 そう強く感じた大熊さんは、公務員試験を受けて建設省に入る道もありましたが、川に向き合う姿勢を根本から学び直すため、大学院の博士課程(ドクター)へ進むことを決意します。
そこで、大きな出会いがありました。東京農業大学の小出博先生です。
大熊さんの回顧 「小出先生は、本当に地域のことを地形から地質、そこにある植物に至るまでものすごく詳しくて、現場の見方を教えてくれました。『地域の自然をきっちり知らなくては、治水工事はできない』と悟ったんです。それまでの自分の頭には日本国を俯瞰的に見る視点しかなかったのが、地域に降りていって、地域から見ていくことの根本を教わりました」
以来、大熊さんは毎週のように利根川の現場に通い詰め、人々の暮らしや治水の歴史に焦点を当てた博士論文を書き上げました。それは、理系の河川工学としては異例の「数式のない論文」でした。 厚さにして3分冊にもなる約1000ページの青焼き(当時の複写手法)を100部作り、お世話になった利根川の工事事務所などに送りました。
この論文は、国が想定する洪水の計算方法に対して異論を唱えるものでした。 後年、教え子が利根川の河川工事を請け負う会社に就職した際、工事事務所の倉庫で自分の論文に「極秘」というハンコが押されて保管されていたことを知らされます。
当時の建設官僚たちにとって、川は「俺たちのもの」であり、大局的に決めた方針に横槍を入れられることはあり得ない時代だったのです。
6. 新潟での葛藤と「雪の研究」への逃避
大学院を修了後、大熊さんは新潟大学工学部に助手として赴任し、都会の川とは違う「豊かな自然の力」を身にしみて感じることになります。
大熊さんの回顧 「何十匹という大きな鮭(サケ)が上流へ遡上している姿を見て、歴史の深さや、川と地域の人々が関係し合って生きてきたことに感動しました。ところが、その川をよく見に行くと、ダムがいっぱい作られていて鮭が上って来られなくなっている。そういう自然を一方的に潰しても構わないという土木工学を自分はやってきたのだと、大きくショックを受けました」
しかし当時の新潟は、地元出身の田中角栄首相のもと、毎年1兆円規模の土木工事が発注され、新幹線や高速道路、ダム開発で沸き立っていました。 大熊さんが異論を唱えると、東大卒の建設省の先輩から「俺たちは100人以上関わって計画を作っているのに、お前1人で異論を唱えるのか」と圧力がかかることもありました。
建設省や県の方針と違うことを教えれば、学生たちが就職などで困ってしまう。 自分の立場に悩んだ大熊さんは、学生に直接的に川の研究をさせることを控え、誰からも文句を言われない「流雪溝(雪を流す水路)」など、除雪関係の研究をさせるようになりました。
「あの当時はまだ僕が弱かったのかな。やっぱり、雪の研究に逃げていたということなのかもしれないね」と大熊さんは振り返ります。
7. 転機となった映画『阿賀に生きる』
自分が考え続けてきた「川のあり方」と、開発に邁進する「社会」との隔たりに葛藤を抱えていた大熊さんに、ある大きな転機が訪れます。 新潟の阿賀野川(あがのがわ)を舞台に、川とともに人生を刻んできた人々の姿を描くドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』の製作への誘いでした。
監督の佐藤真さんや、地元で患者支援を続けてきた旗野秀人さんらと酒を酌み交わし、大熊さんは製作委員会の代表を引き受けます。
当時、阿賀野川流域では高度経済成長期に工場の有毒な水銀が流れ込み、「新潟水俣病」という甚大な被害が明らかになっていました。しかし、映画ではあえて「水俣病」という言葉や直接的な病の悲惨さを前面に出さない方針がとられました。
旗野秀人さんの視点 「どうやって魚を獲って、日常生活でどれほど川と関係しているか。そういった具体的な『暮らしの豊かさ』や『魚とのやり取り』は、データや制度からはこぼれ落ち、無視されてしまっている。だからこそ、患者さんそれぞれの人生の物語が必要なんです。日常をそのまま撮れば、それがそのまま水俣病を描くことになる」
8. 映画『阿賀に生きる』が教えた、自然と生きる人々の強さ
映画の中には、川とともに生きる人々の日常が克明に記録されていました。 その一人、「加藤のじいちゃん」と親しまれているおじいちゃんの餅つきのシーンに、大熊さんは強く心を揺さぶられます。
大熊さんの回顧 「あのとき、加藤のじいちゃんは82歳ぐらいだったかな。24臼(うす)も餅をついたって言うんだよね。80歳の老人がこんな餅つきができるのかと思って、僕は本当に驚愕したんです。自分が80歳になったとき、あんな体力はないし、今もない。なんでこんな力が出てくるんだろうか、と」
また、別の登場人物である遠藤さんは、冬の寒さを防ぐために家の隙間を塞ごうとした際、夏になってアサガオの蔓(つる)が家の中に入ってきて花を咲かせるのを見て、「(アサガオのために)塞がないでおいてやろう」と語ります。
そこで登場するおじいちゃんやおばあちゃんたちは、巷の平凡な人々です。しかし、自然との付き合い方や作法を完全に会得し、納得して生きている。強靭な肉体と頭脳を持ちながらも決して出しゃばらず、慎ましい感じで自然と共生している姿を見せつけられ、大熊さんは「これこそ本当の人間として生きていく根本ではないか」と考えさせられました。
9. 川の新しい定義「体と心を作り、文化を育む」
「川との関係の中で、体と心を作るんだ。そして、体と心を作ったことが、その地域の文化を作っていっているんだ」 大熊さんは、川とは一体何なのか、人にとって川とはどのような存在なのかという問いの答えにたどり着きます。
映画『阿賀に生きる』の製作は、従来の河川工学が見失ってきた視点を現場から問い直し、自らの生き方を見定めてゆくための「指針」となりました。大熊さんは大学で河川工学を教える際、新しい川の定義を使うようになります。
大熊さんが定めた「川」の定義 「川は、ゆっくりと時間をかけて体と心を作り、地域の文化を育んできた存在である」
単純に「雨が降って川に流れ、蒸発してまた雨になる」という従来の工学的な水循環の定義には、そこに生物がいることや、人との関係の中で文化を作っていくといった要素が一切書かれていませんでした。
大熊さんに言わせれば、それは「無意味でかわいそうな定義」でした。命や文化がすっぽり抜け落ちた定義にのっとっているからこそ、技術者は川にダムを作ったりコンクリート護岸をしたりしても、良心の呵責を感じずにいられたのです。
10. 腹が据わった河川工学者として
この「体と心を作り、地域の文化を育むもの」という定義を確立したことによって、大熊さんは河川工学者としての確固たる立場を築き、学生たちにも積極的に自らの信念を伝えるようになりました。
それまでは、学生たちから「大熊先生の勝手な好みや解釈でダムやコンクリート護岸に反対しているのではないか」と思われていたかもしれません。しかし、この定義を決めてからは、大熊さん自身も「腹が据わった(覚悟が決まった)」と言います。
確信を持った大熊さんは、「これ以上、川を壊すダムは作るべきではない」と正面切って発言するようになり、あちらこちらのダム反対運動にも積極的に関わっていくようになったのです。
引き続き、音声認識の誤変換やノイズを修正し、文脈がスッと頭に入ってくるように整理しました。
今回は、「水を食べて(貯めて)」「西友(清流)も命も」「鴨部川(川辺川)ダム」「U阻害(備え)をしてる」といったAIの聞き間違いを文脈に合わせて補正し、専門用語や伝統的な暮らしの知恵(水屋など)について読みやすくまとめています。
11. 市民運動への参加と「生活の場」としての川
「川にとって、ダムというのは基本的に異物なんです」
大熊さんは研究の枠組みを超え、市民集会や社会活動にも関わるようになり、全国各地の開発計画においても自らの考えを訴えるようになりました。 ここで必要なのは、国の河川官僚や専門家の技術論だけでなく、「生活の場としての川の姿」を捉えること。大熊さんは、様々な人たちとの交流を通してその視点を深めていきました。
その一つの現場となったのが、長良川(ながらがわ)河口堰の建設計画です。 市民や専門家を交えた様々な議論を経て、やがて河川法も改正され、川の管理において「自然環境への配慮」や「川に関わる人々の意見を反映すること」が明記されるようになりました。
12. 気候変動の脅威と「流水型ダム」への転換
大熊さんたちの問題提起に対する理解が徐々に広がりを見せる一方で、現在は地球温暖化に伴う気候変動により、線状降水帯などの豪雨被害が相次いでいます。 多くの自治体では、「水害を防ぎ、住民の命を守る使命」と「自然を大切にしたいという思い」の狭間で、厳しい選択を迫られています。
熊本県の球磨川(くまがわ)流域では、1960年代の水害を受けて国が計画した「川辺川(かわべがわ)ダム」の建設に対し、住民の根強い反対が続いていました。2008年、熊本県知事は現行のダム計画を白紙撤回し、建設中止を決断します。
しかし2020年、熊本を襲った集中豪雨により球磨川が氾濫。60人以上が犠牲になる甚大な被害が起きると、ダム建設の必要性が再び叫ばれるようになります。これを受け、知事は一転してダム建設の容認に舵を切りました。
熊本県知事の決断 「異常気象が常態化した中で、流域の人たちも未曾有の災害を経験しました。住民の命を守り、さらには住民の宝である清流を守る、新たな『流水型』のダムを国に求めます。清流も命も両方を守るために、現在私が考えられる最高の選択です」
それは、水を常時貯める従来のダムではなく、大雨のときだけ水を貯めて水害を防ぐ「流水型ダム(穴あきダム)」でした。住民の命と、環境の保全。その両立を目指した苦渋の決断でした。
13. 流水型ダムが抱える「土砂」の限界
治水と環境保全を両立させようとする動きはあるものの、大熊さんは「流水型ダムであっても、河川が受ける影響は避けられない」と指摘しています。
大熊さんの懸念 「球磨川の川辺川ダムは巨大なダムです。流水型ということで、できるだけ土砂を溜め込まないように計画されていますが、洪水時には水を貯めるため、上流から流れてきた土砂の何分の一かはどうしても溜まってしまうんです。 そうなれば、ダム末端の自然も下流の環境も大きく変わってきます。すでに土砂で満杯になっているダムはいくつもあります。100年後、200年後に土砂で満杯になってしまったら手の打ちようがありません。その時、未来の技術者たちは困るでしょうね」
14. 災害の裏にある「恵み」と、昔ながらの備え
大熊さんがこう考える背景には、河川の氾濫を単なる「災害」として捉えるだけでなく、自然からの「恵み」として受け入れてきた人々の生き方がありました。それは、川とともに生きる現場の人たちから教えられたことでした。
農家の知恵と自然観 「命がなくなるようでは困りますが、農家の人から『10年にいっぺんくらい田んぼが水に浸かることは、翌年からしばらく肥料をやる必要がなくなるから、大変いいことだ』という話をずいぶん聞かされました。平野部で氾濫が起こると、畑や田んぼに肥沃な土を置いていってくれていたわけです」
かつての人々は、自然を完全にコントロールしようとはしませんでした。 自分の家が浸水しないよう、少し土盛りをした高い場所に家を建て、さらに大きな水害に備えて敷地内に小さな小山(高い土台)を築き、そこに「水屋(みずや)」と呼ばれる避難用の蔵を建てていました。 いざという時に備えて、水屋には米や味噌などの食料を蓄え、移動用の小舟を置いておく。そうした「備え」をしながら、川の氾濫という自然の猛威と恵みの両方を受け入れ、共に生きていくのがごく当たり前の姿だったのです。
引き続き、音声認識の誤変換やノイズを修正し、文脈がスッと頭に入ってくるように整理しました。
今回は、番組のクライマックスにあたる重要なメッセージが含まれています。「サンセイ総務室部署(山川草木悉皆成仏)」「山本線(山手線)」「氷(驕り)を捨て」「蒲(川)にお願いして」など、AIの聞き間違いにより意味が通らなくなっていた部分を文脈に合わせて大幅に補正しました。
15. 哲学から見つめ直す「人間と自然の共存」
「常に災害の裏には、恵みをもたらしてくれている自然がある」 大熊さんは、川とともに生きる現場を訪ね歩くとともに、哲学や倫理学などあらゆるジャンルの人たちと対話を重ね、川に対する考えを深めていきました。その1人が、哲学者の内山節(たかし)さんです。
哲学者の視点(内山さん) 「明治期以降の日本の近代国家は、欧米の技術を取り入れ、人間がいかに自然の支配者になるかを目指してきました。自然を『人間の都合の良いように』コントロールし、不都合なものは力で抑え込もうとしたのです。 しかし本来、人間は自然との『関係』によって生かされている存在にすぎません。自然の変化に合わせて、人間が柔軟に関わり方を修正し、作り直していく。未完成な関係をこそ大事にしながら、絶えず関係を創造していくことが『共に生きる』ということなのです」
自然を支配するのではなく、常に移り変わる自然と私たちの関係を見直して、どう生きるべきか問い続けること。それが、大熊さんがたどり着いた答えでした。
16. 山川草木悉皆成仏:自然への「後ろめたさ」と感謝
様々な現場を訪ね歩き、数多くの人や自然に巡り合った末にたどり着いた言葉。大熊さんが自分のお墓に刻んだ言葉が「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」です。
大熊さんの死生観と自然観 「山であれ、川であれ、草木であれ、あらゆる存在は平等の関係性にあり、仏の心を持っています。それで自然界は成り立っている。ただ、人間だけは欲があって、その自然界の関係性を壊してしまうんです。 だから人間は、その『後ろめたさ』を自覚して生きていきなさい、と。自覚した形で、自然に感謝しながら行動をとっていれば、地球の自然が壊れることはないだろうと感じます。現代において非常に重要な思想です」
豊かな清流や命を懐に抱く川に対し、私たちは「驕り(おごり)」を捨て、どう向き合っていけば良いのか。大熊さんは、都市と地方の関係性にも言及します。
「新潟に住んでいて東京の人に思うのは、例えば『山手線が信濃川の水力発電の電気で動いている』ということを知ってほしい。普段の生活がどんな自然の恩恵で成り立っているかを知り、感謝の気持ちを持てば、いずれ都市と地方のあり方も変わっていくはずです」
17. 技術者たちとの衝突、そして歓迎する「議論」
災害を防ぎ、命を守ること。それとともに、長い歳月をかけて培われてきた川と人の深い結びつきを見失わないこと。この両立に向け、河川工学の現場でも議論が続いています。
ある日、北海道で開かれたダムや河川工事に関わる技術者の会議に、大熊さんは初めて招かれました。
大熊さんが「川にとってダムは水を遮断する異物である。自然征服ではなく、川に感謝して作るべきだ」と問題提起をすると、会場の技術者たちからは「今のままの設計技術基準で結構だ」「今日はそういう価値観を議論する場ではない」と反発の声が上がり、激しい議論(バトル)が交わされました。
しかし、大熊さんはその光景を笑って振り返ります。 「普段の会議は『なあなあ』で終わっているから、ああいうバトルが起きて意見が飛び交うのは大歓迎ですよ。そこからまた皆が考えるじゃないですか。一人でも多く川の本質を知って、川を良くしていこうと思う人間が増えればいいと思っています」
18. 自然に許しを請う「慎ましさ」
この日、新潟の川のほとりに市民たちが見学に訪れたのは、川沿いの住宅への水害を防ぐために建設中の「水門」でした。 大熊さんの薫陶を受けた教え子が設計に関わったその水門は、周囲の自然環境に敬意を払い、十分な議論の上で配慮されたものでした。水門の色は、毎年この場所に飛来する渡り鳥の羽の色に合わせて、目立たないように塗られていました。
「これで日本の水門の中で、一番いいデザインの水門になると思っています」と大熊さんは目を細めます。
川が人間に何を与えてきたのか。長い歴史の中で、人の暮らしをどう支えてきたのか。その原点にいつも立ち戻って、川を見つめる。それが、河川工学者・大熊孝さんが半世紀を通じて築いてきた道のりです。
大熊孝さんの最後の言葉 「やっぱり、可能な限り自然の中で慎ましく生きたい。 『川にお願いして作らせてください』『どうしても電気や下流の治水に必要だから、作らせてください』という気持ちで作っているか。それとも、『俺たちが自然を改造して下流の命を救うんだ、だからダムが要るんだ』という自然征服の考え方で作っているか。それで作り方は圧倒的に変わってくる。 永平寺のお坊さんのような完璧な生活はできないかもしれない。でも、一つ一つの仕事において、『自然の営みの中に我々の存在があって、そこをもうちょっと住みやすくしたいから、許してね』という気持ちがあるかどうか。それが一番大事なんだよね」
