現代の気候変動によって激甚化する水害を前に、私たちは自然とどう向き合い、命を守るべきなのでしょうか。
半世紀にわたり、国家主導の「コンクリートと巨大ダムによる自然の完全制御」という治水政策に異を唱え続けた異端の河川工学者がいます。新潟大学名誉教授の大熊孝氏です。彼は、巨大インフラ計画の根底にあるデータ操作や歴史認識の欺瞞を実証的に暴き、学界で孤立しながらも、地域住民とともに法廷や市民運動の最前線に立ち続けました。
本稿では、大熊氏が膨大な現場調査と思索の末に見出した近代技術至上主義の限界と、地域コミュニティが主体となって川と共生する「川辺の民主主義(民衆の自然観)」の思想を紐解き、これからの時代に求められる真の治水戦略と豊かな社会のあり方に迫ります。
大熊孝の河川工学と「川辺の民主主義」要約
1. 市民の河川工学者としての原点
大熊孝氏(新潟大学名誉教授)は、日本の近代河川行政が掲げてきた「コンクリートや巨大ダムによる自然の完全制御」という国家主導の治水に異を唱え続けた河川工学者です。彼はデータを捏造・操作して巨大事業を正当化する行政側の欺瞞を実証的に暴き、学界で孤立しながらも水害訴訟などで住民側の鑑定人を務めるなど、実践的な研究を貫きました。
2. 近代河川行政の虚構性の指摘
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「利根川東遷」神話の打破: 江戸時代に行われたとされる巨大プロジェクトは、実は明治以降の国家事業を正当化するための神話に過ぎないことを指摘しました。
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「基本高水」のデータ操作: 治水計画の根拠となる洪水流量(基本高水)が、実際には水が溢れていない高台まで算入して意図的に水増しされ、巨大ダム(八ッ場ダムなど)建設の口実にされている構造を厳しく批判しました。
3. 「技術の自治」の喪失と二つの自然観
大熊氏は、治水における根本的な問題を哲学・思想の観点から分析しています。
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技術の自治の喪失: 近代化により、巨大な土木機械やコンクリートを用いた「大技術(国家主導)」が主流となり、かつて地域コミュニティが担っていた水防や維持管理といった「中技術・小技術」が排除されました。これにより、住民から川への関心と「技術の自治」が奪われました。
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「国家の自然観」vs「民衆の自然観」:
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国家の自然観: 自然は統制・管理できる対象であり、ダム等で洪水を完全に封じ込めようとする傲慢な姿勢。結果として被害を激甚化させました。
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民衆の自然観: 自然は畏敬の対象であり、氾濫の力を受け流し、時に被害を受容しながら恩恵とともに生きる共生の姿勢。
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4. 氾濫受容型モデルと治水への具体的提言
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ダム依存(ギャンブル治水)の限界: ダムは上流域に正確に雨が降らなければ機能しないため、気候変動による想定外の豪雨には無力です(2020年球磨川水害で実証)。また、環境配慮型とされる「流水型ダム」も生態系を破壊すると警告しています。
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耐越水堤防(フロンティア堤防)の提唱: ダム偏重からの転換策として、「万が一水が溢れても決壊しない(破堤しない)堤防」の整備を強く主張。被害を緩やかな浸水にとどめる「被害の最小化」こそが命を守る治水であると提言しています。
5. 「川辺の民主主義」の実践と社会的共通資本
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地域との連帯: 映画『阿賀に生きる』の製作を通じ、川と共に生きる人々の「自然との共生感覚」に感銘を受けました。また、「新潟水辺の会」を立ち上げ、行政のフェンスを撤去させて川と人との関係を回復させたり、サケの遡上を復活させるなど、草の根の活動を牽引しました。
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社会的共通資本としての川: 経済学者・宇沢弘文氏と共鳴し、川の恵みは中央集権的に収奪されるべきではなく、流域住民のコモンズ(共有財産)として自治的に管理されるべきだと説きました。
6. 現代における歴史的意義
気候変動により豪雨災害が頻発し、従来のインフラ至上主義が限界を迎える中、大熊氏が提唱した「ハードウェアの限界を直視し、地域社会のレジリエンス(回復力)を高める」という適応戦略は極めて合理的です。彼が説く、暴れ川という巨大な他者と対話し妥協点を探る「川辺の民主主義」は、これからの時代の国土構想に向けた重要な羅針盤として、近年(2020年の毎日出版文化賞・土木学会出版文化賞ダブル受賞など)高く再評価されています。
大熊孝の河川工学における業績と「川辺の民主主義」に関する総合的研究
序論:市民の河川工学者・大熊孝の思想と学問的系譜
現代日本の土木工学、とりわけ河川工学の分野において、新潟大学名誉教授の大熊孝(1942年生まれ)が構築した学術的・実践的業績は、単なる技術論の枠組みを大きく凌駕し、社会科学や哲学の領域にまで深く到達している。
近代以降の日本の河川行政は、国策としての国土開発と密接に結びつき、コンクリートや巨大ダムによる自然の完全な制御を目標としてきた。
しかし大熊は、その根底にある「国家の自然観」の限界と構造的矛盾を学術的データに基づいて鋭く指摘し、地域住民の立場を尊重する「民衆の自然観」の復権を半世紀にわたって唱え続けた。
大熊は1942年に台北市で生まれ、戦後の引き揚げを経て高松、千葉、長岡、新潟と移り住んだ。
千葉県立千葉第一高等学校時代にはサッカーに没頭し県大会優勝を経験するなど、スポーツに打ち込む青年期を過ごした。
1967年に東京大学工学部土木工学科を卒業後、当時の国家公務員試験上級甲種に合格しながらも官僚の道へは進まず、同大学院修士課程から高橋裕(河川工学)に師事する道を選んだ。
この決断が、後の「河川工学者三代(安藝皎一から高橋裕、そして大熊孝へ)」と呼ばれる、近代河川行政に批判的な視座を持ち続ける独自の学問的系譜を決定づけることとなった。
| 年次 | 経歴および主要な活動 |
|---|---|
| 1942年 |
台北市にて出生。戦後、日本へ引き揚げ。 |
| 1967年 |
東京大学工学部土木工学科卒業。卒業論文は応用力学分野。 |
| 1969年 |
東京大学大学院修士課程修了。高橋裕に師事し河川工学へ転向。 |
| 1974年 |
東京大学大学院博士課程修了。工学博士。新潟大学工学部助手となる。 |
| 1980年 |
新潟大学工学部助教授に就任。 |
| 1981年 |
博士論文を基にした『利根川治水の変遷と水害』を出版。 |
| 1985年 |
新潟大学工学部建設学科環境計画講座教授に就任。 |
| 1987年 |
NPO法人「新潟水辺の会」の前身となる市民団体を設立し代表に就任。 |
| 1998年 |
土木学会土木史研究委員会委員長に就任(2000年まで)。 |
| 2008年 |
新潟大学を定年退職、名誉教授。新潟日報文化賞受賞。 |
| 2014年 |
新潟市潟環境研究所所長、水の駅・ビュー福島潟名誉館長に就任(2019年まで)。 |
| 2020年 |
著書『洪水と水害をとらえなおす』で毎日出版文化賞、土木学会出版文化賞を受賞。 |
[表1:大熊孝の略歴と主要な学術的歩み(関連文献より構成)]
1974年に提出された博士論文『利根川における治水の変遷と水害に関する実証的調査研究』は、土木工学の学位論文でありながら数式を一切用いず、歴史的文書と現地調査に基づく実証的アプローチを採用するという画期的な試みであった。
現象を数式に還元して普遍化しようとする近代科学の還元主義に対し、現場の痕跡と歴史的文脈を重視するこの方法は、その後の「大熊河川工学」の確固たる基盤となった。
近代河川行政史の再検証と「基本高水」の虚構性
大熊の初期の決定的な業績は、日本の治水行政の根幹をなすデータや歴史認識の欺瞞を学術的に実証したことにある。
その集大成が、博士論文を加筆修正して出版された『利根川治水の変遷と水害』(1981年)である。
「利根川東遷」の史実と治水計画の極大化
日本の河川行政において、江戸幕府(徳川家康)による「利根川東遷事業」は、利根川の洪水を東京湾から銚子方面へと付け替えた歴史的偉業として長く位置づけられてきた。
しかし大熊は、江戸時代の土木技術では現在の利根川下流に全洪水を流下させるような大工事は物理的に不可能であり、普段少しの舟が通れる程度の水量を流したに過ぎないと論破した。
実質的な東遷事業は、近代的土木機械が導入された明治政府以降の事業にほかならず、国家主導の巨大工事を歴史的に正当化するための神話であったことを明らかにしたのである。
さらに深刻な問題として大熊が指摘したのが、治水計画の根拠となる「基本高水(計画降雨が河川に流れ出た場合のピーク流量)」の恣意的な操作である。
建設省(現・国土交通省)は、1947年に未曾有の被害をもたらしたカスリーン台風をベースに利根川の基本高水を設定していた。
大熊は、当時の建設省が作成した氾濫図を手に利根川流域を隅々まで歩き、氾濫の痕跡を実地検証した。
その結果、実際には水が溢れていない高台までもが「氾濫区域」として算入され、洪水の流量が人為的に水増しされている事実を突き止めた。
このデータ操作は、治水計画の規模を極大化し、結果として上流における八ッ場ダムなどの巨大ダム建設を正当化するための論理的基盤として機能していた。
大熊は、「人間が水害をなくそうとして治水を行っているのに、計画上の洪水流量ばかりが大きくなり、さらなる巨大事業を生み出す」という無限ループの構造的矛盾を突き、土木技術者としての倫理的観点からこれを厳しく糾弾した。
孤立と実践:水害訴訟から雪氷工学への展開
大熊の批判的視座は、書斎の中にとどまらず、実際の法廷闘争における科学的立証という形でも実践された。
しかし、国家の土木行政に異を唱える行動は、彼を学界の中で一時的に孤立させることにもなった。
太田川水害・加治川水害における鑑定と学問の矜持
大熊は東京大学大学院に在籍していた1967年(昭和42年)、新潟県の加治川水害に関する訴訟において早くも住民側に協力し、専門的知見を提供している。
新潟大学に赴任したのちの1972年には、広島県の太田川水害における立岩ダム訴訟において住民側の原告鑑定人を引き受けた。
当時、国立大学の若手教員が国や電力会社の河川管理の瑕疵を真っ向から指摘し、ダムの誤操作が水害の原因であると法廷で証言することは、学界における自身のキャリアを危うくしかねない極めて異例な行動であった。
1981年に提出された大熊の鑑定書は、ダム管理者の責任を科学的・水理学的に裏付け、水害が純粋な「天災」ではなく近代技術の運用ミスが招いた「人災」であることを証明する決定的な役割を果たした。
大熊自身は、「日本の河川工学の本流を歩いているのは自分であり、国交省の論理のほうが間違っている」という強烈な自負があったため、国からの圧力を恐れることはなかったと述懐している。
雪氷工学への一時的転向と研究への姿勢
1980年代の日本はバブル経済の絶頂期にあり、全国で公共事業が強力に推進され、新潟県下でも数兆円規模のインフラ投資が行われていた。
この時代、「三面張りのコンクリート護岸の否定」や「治水におけるダムの限界」を唱える大熊の主張は誰の耳にも届かず、彼は完全に孤立無援の状況に置かれていた。
学生の卒業論文のテーマとして河川行政批判を扱わせるわけにもいかず、大熊は一時的に河川工学の表舞台から距離を置き、雪国・新潟という地域特性を活かした「雪氷工学」の研究へと舵を切った。
この時期、新潟県職員で技監を務めていた天城幹郎が大熊の姿勢を評価し、除雪関係の研究予算として800万円を提供した。
大熊はこの資金を活用し、雪を溝に入れて溶かす「消融雪溝」や、流す「流雪溝」、さらには「路面流水道路」の実証研究に没頭し、約10年間にわたって雪の研究を納得のいくまでやり遂げた。
この経験は、研究とは助成金など他人の金を当てにするのではなく、自腹を切る覚悟を持って取り組むべきであるという大熊の実学主義的な哲学をさらに強固なものとした。
「技術の自治」の提唱と自然観の哲学的転換
大熊孝の業績を思想的側面から支えているのが、「技術の三段階分類」に基づく「技術の自治」の提唱と、日本人の伝統的自然観の再評価である。
著書『技術にも自治がある―治水技術の伝統と近代』(2004年)などで展開されたこの理論は、河川工学の技術論を超え、社会哲学や文明論の領域にまで深く踏み込んでいる。
技術の三段階分類と「技術の自治」の喪失
大熊は、技術を単なる道具としてではなく、「技術が作られる過程」と「技術の担い手」という二つの軸から社会構造の中に位置づけ、近代化によって技術がどのように地域から奪われていったかを精緻に論じている。
| 分析の観点 | 分類と段階 | 概要と具体例 |
|---|---|---|
| 技術が作られる過程 | ① 思想的段階 |
川をどう捉え、開発・保全するかという大局的観点。社会や為政者の自然観が直接反映される。 |
| ② 普遍的認識の段階 |
降雨や流水といった自然現象を科学的・普遍的に理解する段階。近代水理学など。 |
|
| ③ 手段的段階 |
思想や普遍的認識を具現化するための具体的手段。土工機械、コンクリート、大型ポンプなど。 |
|
| 技術の担い手 | ① 私的段階(小技術) |
各家屋における高床式の水屋(輪中など)や避難用舟の準備など、個人・家族単位での対応策。 |
| ② 共同体的段階(中技術) |
地域住民が協力して行う江浚い(水路清掃)、水害防備林の維持、霞堤の管理、水防活動。 |
|
| ③ 公共的段階(大技術) |
国家・為政者・専門家のみが計画し実行する大規模なインフラ整備。巨大ダムや連続高堤防。 |
[表2:大熊孝による技術の分類と段階的構造(関連文献より構成)]
明治時代中期以降、「大規模な浚渫・掘削を可能にした土工機械力」「コンクリートと鋼による一体的な堰・水門」「重力に反して大量の水を揚げるポンプ」という画期的な三大手段が登場したことで、河川技術は急速に国家主導の「大技術(公共的段階)」へと純化されていった。
これにより、かつて各家庭や集落単位で維持されてきた「小技術」「中技術」は不要とされ、地域住民は川の維持管理から完全に排除された。
大熊は、これを「私的段階・共同体的段階の技術の崩壊」と呼び、技術の選択と実行プロセスに普通の人々が関与できなくなった状態を「技術の自治の喪失」と定義した。
技術の自治が失われることは、住民が川への関心を失い、自然との関わり合い(共生)を絶たれることを意味する。
大熊は、真の治水とは国家に丸投げするものではなく、地域コミュニティが技術の担い手として再浮上し、ローカルな自然環境に根ざした「技術の自治」を取り戻すことにあると説く。
「国家の自然観」対「民衆の自然観」
さらに大熊は、水害をめぐる問題の根底に、二つの相反する自然観の衝突を見出す。
すなわち、西洋近代的な科学技術文明に基づく「国家の自然観」と、日本人が古来より生活の中で培ってきた「民衆の自然観」である。
| 比較項目 | 国家の自然観 | 民衆の自然観 |
|---|---|---|
| 自然へのスタンス |
自然は人間の都合のよいように統制・管理できる対象である。 |
自然は人間の力では制御しきれない「他者」であり、畏敬の念を抱く対象である。 |
| 水害対策の手法 |
コンクリートやダムによって洪水を完全に制圧(封じ込め)しようとする。 |
氾濫の力を受け流し、避難や伝統的工法で被害を最小化して共存しようとする。 |
| もたらした結果 |
水害犠牲者を一時的に減らしたが、自然の恐ろしさを忘れさせ、被害を大規模化・激甚化させた。 |
洪水による肥沃な土壌の恩恵を受けつつ、水辺の文化や強靭な身体・精神を育んできた。 |
[表3:国家の自然観と民衆の自然観の比較]
越後平野の歴史を紐解くと、かつてこの地域は雨が降るたびに水が滞留し、横田切れ(信濃川の破堤により3ヶ月におよぶ浸水と伝染病が発生した大水害)などに苦しめられてきた。
近代国家は新川の開削や大河津分水の建設などによって強引な国土開発を進め、安全をもたらしたかのように見えた。
しかし大熊は、その過程で国家が「民衆の自然観」を破壊し、人々に「ダムや堤防があれば完全に安全である」という見せかけの快適性と錯覚を与えてしまったと批判する。
その結果、人々は自然の本当の恐ろしさを忘れ、本来なら災害に遭いやすい低平地や氾濫原にまで無防備に活動域を広げてしまった。
近年の豪雨災害において、想定外の洪水が発生した際に寝たきりの高齢者が逃げ遅れて溺死するような悲劇が多発しているのは、この自然観の喪失と、地域コミュニティの分断・孤独化に根本的な原因があると喝破したのである。
氾濫受容型モデルと良寛の思想
大熊の思想的成熟において特筆すべきは、江戸時代後期の禅僧・良寛の言葉「災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃れる妙法にて候」から深い示唆を得ている点である。
当初はこの言葉の真意を測りかねていた大熊だが、長年のフィールドワークと住民との対話を通じて、自然災害(台風、豪雪、津波など)が、人間に害を与えるだけでなく、同時に海のヘドロを浄化し、肥沃な土壌をもたらすといった「豊かな恵み」の源泉でもあるという自然の二面性に気づく。
この悟りから、大熊は「洪水を完璧に制御しようとするのではなく、ある程度の被害は受容して対応したほうがいい」という「水害の受容」宣言へと至った。
この哲学的到達点は、具体的な工法論として「氾濫受容型モデル」の提唱へとつながる。
江戸時代以前に広く見られた「霞堤(かすみてい)」は、堤防にわざと切れ目を入れ、洪水を段階的に遊水地に溢れさせることで下流への激流を防ぐ仕組みである。
水が溢れることを前提とし、農業用水の利用において対立がある右岸と左岸の住民同士が、治水に関してはどこで溢れさせるかを徹底的に議論し合意形成を図ってきた歴史こそが、高度な「川辺の民主主義」の実践であったと大熊は評価している。
この共生の実感は、地域の文化にも根付いている。大熊が感銘を受けた長岡市立岩塚小学校の校歌には、「川は溢れるものであり、溢れることが我々の肉体と精神をともにつくってくれている」という哲学が堂々と歌い上げられており、まさに民衆の自然観の結晶であると指摘している。
治水政策への具体的提言:ダム依存の限界と耐越水堤防
大熊孝の提言は、抽象的な思想論にとどまらず、国土交通省の河川計画に対する極めて具体的で実践的な技術批判として表出している。
とりわけ、ダムへの過度な依存に対する批判と、堤防強化策(耐越水堤防)の推進は、彼の治水論の核心をなす。
ダム依存型治水(ギャンブル治水)の限界と球磨川水害の検証
大熊は、ダムによる治水機能の根本的な限界を科学的かつ論理的に証明し続けた。
ダムが治水効果を発揮するのは、降雨が正確にそのダムの集水域(上流域)に降った場合のみである。
降雨域が少しでも下流や支流にずれれば、ダムは全く機能しない。大熊はこれを「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の「ギャンブル治水」と呼んで強く批判した。
この理論の正しさが悲劇的な形で裏付けられたのが、2020年7月の令和2年7月豪雨(九州豪雨)による球磨川水害である。
この水害では球磨川水系だけで67人(身元判明者51人のうち、65歳以上が45人、80歳以上が27人を占めた)という多数の犠牲者を出した。
国土交通省九州地方整備局は、過去に計画が中止された川辺川ダムが完成していれば、人吉市街の最大水量を約4割削減できたとの検証結果を発表し、ダム計画復活への動きを加速させた。
これに対し、大熊はいち早く科学的な反証レポート(『2020・7・4 球磨川水害覚書』等)を公表した。
| 検証項目 | 国土交通省の主張・推定データ | 大熊孝による分析・反証データ |
|---|---|---|
| 洪水時の流量 |
ピーク時に毎秒約7,500トン(安全な流下能力は約3,600トン)に達した。 |
過去最大級の降雨であり、毎秒3,900トンのオーバーフローはダムの能力を遥かに超える。 |
| ダムの洪水調節容量 |
ダムがあれば被害を約4割軽減できた。 |
約1,100万㎥の容量を流域面積157.8k㎡で割ると、相当雨量はわずか約70mmに過ぎない。 |
| 氾濫のメカニズム |
川辺川からの流入が氾濫の主因である。 |
合流部付近の調査から、球磨川本川の水位が高く、本川から支流側へ逆流していた痕跡を確認。 |
[表4:2020年球磨川水害における川辺川ダム効果の検証(関連文献より構成)]
何百ミリという猛烈な豪雨に対して、ダムの貯水能力(相当雨量約70mm分)は焼け石に水であり、仮にダムがあっても早期に満水となり、結果的に大規模な氾濫は防げなかったと結論づけたのである。
さらに、水位のピーク時には球磨川本川から支流の川辺川へ逆流が生じていた痕跡を指摘し、本川の水位が高すぎる状態では支流のダムがいかに水を貯めても市街地の浸水は免れなかったと論破した。
また、環境配慮型として国が推進する「流水型ダム(穴あきダム)」についても、大熊は河川生態系に致命的なダメージを与えると警告した。
流水型ダムの底部トンネルは、物理的な摩耗を防ぐために数十メートルにわたってステンレス板などで覆われることが多く、岩や石、淀みといった自然の河床環境が完全に失われる。
そのような無機質な暗渠をアユなどの魚類が遡上することは生態学的に極めて困難であり、「環境に優しいダム」という触れ込みは欺瞞であると厳しく批判した。
耐越水堤防(フロンティア堤防)と連続地中壁工法の提唱
ダム偏重の治水政策に対する具体的オルタナティブとして、大熊が強く主張し続けたのが「溢れても決壊しない堤防」の整備である。
日本の河川堤防は伝統的に土で築かれており、水が堤防を越える(越水)と、裏のり面(川の反対側の斜面)が洗掘され、短時間で破堤(決壊)して壊滅的な被害をもたらす。
これに対し、1990年代後半に当時の建設省も「フロンティア堤防(耐越水堤防)」と呼ばれる、天端(堤防の頂部)や裏のり面を保護し、水が溢れても崩壊しない技術の導入を進めていた。
ところが、建設省は2002年に突如として河川堤防設計指針を廃止し、耐越水堤防の普及を中止してしまう。
大熊や今本博健(京都大学名誉教授)らは、その背景に「堤防を越水しても破堤しない程度に強化してしまえば、上流の治水ダムの必要性(費用対効果)が根底から否定されてしまう」という、官僚組織の組織防衛に向けた強烈な政治的意図があったと厳しく糾弾している。
大熊は、「想定外」の豪雨が頻発する現代においては、100年や150年に一度の確率を元に算出した計画高水流量を前提とするダム計画は既に破綻していると指摘する。
いかにダムを造ろうと、計画を超える洪水は必ず発生する。
したがって、真に命を守る治水とは、連続地中壁工法などを用いて堤防の芯を強化し、「天端まで洪水を河道で流す」「仮に越水しても破堤させず、被害を緩やかな浸水にとどめる(被害の最小化)」ことにあると提言し続けている。
これはまさに、近代技術の力で自然を制圧するという傲慢さを捨て、自然の猛威を謙虚に受け入れる「溢れても安全な治水」の実践的表現である。
地域社会との連帯:新潟水辺の会と「阿賀に生きる」
大熊孝の学問的特徴は、理論的探求と市民運動への参加が表裏一体となっている点にある。
大学教員としての立場に安住せず、地域の最前線に立って環境再生や住民の合意形成に身を投じる姿は、多くの人々に影響を与えてきた。
ドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』の製作
大熊の実践活動において重要なマイルストーンとなったのが、1992年に完成した自主制作ドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』(佐藤真監督)の製作委員会代表を務めたことである。
この映画は、阿賀野川流域で未認定の新潟水俣病患者として生きる人々の姿を追った作品であるが、同時に、川と共に生き、川の恵みを享受してきた人々の豊かな生活文化を克明に記録したものであった。
バブル経済期における映画製作は資金面でのリスクが大きく、大熊は赤字が出た場合には自らが借金を被る覚悟で代表を引き受けた。
大熊は、高度経済成長期に原因企業が引き起こした公害に対する強い怒りを表明しつつ、同時に、映画に登場する川漁師や船大工(遠藤武ら)が持つ「自然との共生感覚」に深い感銘を受けた。
「彼らは、自然とどう付き合ったらいいかを身をもって知っている哲学者である。
逆に、自然から切り離された我々現代人はいかに意地汚く、肉体的にも衰えているか」と大熊は述懐している。鮭が上流に上って熊の餌になることまでを含めた生態系の連鎖を理解し、川から恵みを獲り尽くさない謙虚さを持つ彼らの姿は、大熊に「川辺の哲学」の真髄を教えた。この体験が、後の『川がつくった川、人がつくった川』(1995年)や『洪水と治水の河川史』(2007年)といった著作における思想的深化の強力な原動力となった。
また、大熊はマザー・テレサの言葉(あるいはそれに類する逆説の祈り)を引用し、「善い行いをしても忘れられるかもしれないが、気にすることなくし続けなさい。
最良のものを世に与え続けなさい」という精神を、終わりの見えない市民運動を継続するための倫理的支柱としていた。
NPO法人「新潟水辺の会」の創設と通船川・鳥屋野潟の再生
1987年、宮崎駿監督のドキュメンタリー映画『柳川堀割物語』(福岡県柳川市のドブ川再生の記録)の上映会をきっかけに、大熊は相楽治ら市民有志とともに「新潟の水辺を考える会」(後のNPO法人「新潟水辺の会」)を設立し、自ら代表世話人に就任した。
当時の新潟市は、1964年の新潟地震後の地盤沈下対策として水位調整が行われた結果、通船川などが深刻な水質汚濁に見舞われ、日本一汚い川とまで呼ばれていた。
大熊らは、単に行政に浄化を要求するのではなく、住民自らが川の現状を観察する「水辺ウォッチング」や、近自然河川工法の研究、さらには川岸のゴミ拾いなどを通じて、地域社会の河川への関心を草の根から喚起していった。
特筆すべきは、水辺から人を遠ざけていた行政のフェンスを撤去させ、親水性の高い階段護岸や舟着場を整備させたことである。
新興住宅地の住民からは当初「なぜ危険な川に柵がないのか」と苦情が寄せられたが、大熊は「もともと子どもが遊んでいたのだから優先権は子どもにある。
柵で隔離することは近代技術者の精神の弱さの表れだ」と反論し、川と人との関係性の回復に尽力した。
現在では、通船川はカヌー遊びができるまでに再生し、鳥屋野潟でもヨシ狩りやハス取りといったワイズユース(賢明な利用)が実践されるなど、地域エコブランド(亀田縞、ヨシ糸)の発信拠り所へと成長している。
また、2006年からは信濃川・千曲川でのサケの稚魚放流活動(市民環境放流)を開始。
数年後には長野県上田市で半世紀ぶりとなるサケの遡上が確認されるなど、縄文時代から続く川と人との生命の連鎖を取り戻す壮大な生態系回復プロジェクトを成功に導いている。
社会的共通資本としての川と今後の展望
大熊の河川哲学は、日本を代表する経済学者・宇沢弘文が提唱した「社会的共通資本」の概念と深く共鳴し、2010年には宇沢との共編著『社会的共通資本としての川』を上梓するに至る。
社会的共通資本とは、自然環境や社会的インフラが、国家の官僚的統制や市場原理主義的な利益追求に委ねられるのではなく、市民のコモンズ(共有財産)として専門的な知見に基づき自律的に管理されるべきもの、という概念である。
この視座から、大熊は信濃川や阿賀野川の悲劇的現状を鋭く告発した。
かつて鮭が数万尾遡上し、沿川住民の豊かな食文化を支えていた川の生態系は、首都圏向けの電力を生み出す水力発電ダム群によって無残に分断・収奪された。
川の水は発電のために根こそぎ抜き取られ、その電力は東京へと送られて山手線を動かしているにもかかわらず、地元の鉄道路線(磐越西線、飯山線など)はいまだに非電化のままである。
大熊は、このような中央集権的な収奪構造を「植民地主義的」と批判し、川の恵みはまず第一にその流域の生態系と沿川住民に還元されるべきであると主張した。
ダム建設を至上命題とする国家主導の河川行政(独善)から、地方分権とコモンズによる「川の自治」へのパラダイム転換を説いたこの著作は、工学と経済学という境界を超え、河川を社会科学的・歴史的存在として価値づけた極めて重要な知的成果である。
学術的評価と後世への影響
大熊孝の長年にわたる反骨の研究と市民活動は、晩年に至って学界・出版界から相次いで高い評価を受けることとなった。
2020年に刊行された集大成とも言える著作『洪水と水害をとらえなおす―自然観の転換と川との共生』は、第74回毎日出版文化賞(自然科学部門)および令和2年度土木学会出版文化賞をダブル受賞するという快挙を成し遂げた。
土木学会の授賞理由において、「近年の水害の頻発化は気候変動にも一因があるが、むしろ人が自然とのかかわり方を忘れ、無防備に活動域を広げてきたことが根本にあると喝破している」「治水技術や防災についてだけではなく、社会と自然との関わりをどう構築するかという土木の本質を問う書籍と言える」と絶賛されたことは、かつて異端視された大熊の哲学が、気候危機時代を迎えた現在の土木界において不可欠な基本理念としてついに公認されたことを意味している。
また、2018年に東京大学名誉教授の篠原修によって著された『河川工学者三代は川をどう見てきたのか:安藝皎一、高橋裕、大熊孝と近代河川行政一五〇年』は、大熊を近代河川行政への批判的視座を持ち続けた「市民の河川工学者」として歴史的に位置づけた重要な評伝である。
権力や権威におもねることなく、地道な現場調査と深い思想的洞察に基づいて独自の「大熊河川工学」を築き上げたその足跡は、後進の技術者や研究者に対し、真の技術者倫理とは何かを問いかけている。
結論:気候変動時代における大熊河川工学の歴史的意義
河川工学者・大熊孝の業績を俯瞰するとき、そこに浮かび上がるのは、工学という学問が本来持つべき「ヒューマニズム」と「自然への畏敬」の回復という壮大なテーマである。
近代の土木技術は、自然を対象化し、力でねじ伏せることで一時的な安全と繁栄を人類にもたらした。
しかし、大熊が半世紀にわたって警告し続けた通り、その「国家の自然観」に基づく硬直化したインフラ至上主義は、気候変動による未曽有の豪雨災害の前に今、限界を露呈している。
越水すれば一瞬で破堤する土堤防、想定外の降雨には無力なダム、そして川との関わりを絶たれ、逃げる術を持たないまま孤立する高齢者たち。
これらの現代的水害の悲劇は、大熊が予見していた「技術の自治の喪失」の帰結に他ならない。
大熊が提唱する「民衆の自然観」への回帰、すなわち氾濫の受容、耐越水堤防や霞堤の活用、そして地域コモンズによる水辺の管理というアプローチは、決して前近代への単なるノスタルジーではない。
それは、ハードウェアの限界を直視し、ソフトウェア(地域社会の絆、文化、生態系)のレジリエンス(回復力)を最大化させるための、極めて合理的かつ最先端の適応戦略である。
「災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候」。
大熊が良寛の言葉に見出したこの諦観と受容の精神は、自然をコントロールするという近代の驕りを捨て、暴れ川という巨大な他者と対話し、妥協点を探りながら、時に傷つきながらもしなやかに生き延びていくという「川辺の民主主義」の真髄である。
大熊孝という一人の研究者が、法廷に立ち、住民とともに川辺のゴミを拾い、映画を作り、雪と格闘し、そしてダム推進派と論陣を張ってきたその歩みは、工学が社会や思想と分断されるべきではないことを証明している。
彼が残した膨大な実証データと思索の軌跡は、自然災害が日常化するこれからの時代において、我々がどのように国土を構想し、どのように生きていくべきかを示す、かけがえのない羅針盤であり続ける。
