【弥富市民向け特別サマリー】
弥富市の「広島研修」が受け継ぐもの ―― 命のバトンと平和への軌跡
1. 広島修学旅行のルーツ:「上平井方式」の誕生
現在では当たり前となった「広島での平和学習」ですが、1970年代まではタブー視されることも多く、実現が難しいものでした。その壁を打ち破ったのが、自身も長崎で被爆した中学校教師・江口保(えぐち たもつ)先生です。
江口先生は新幹線の開通を機に広島への修学旅行を企画し、数百人で講堂の話を聞くのではなく、「少人数のグループに分かれ、慰霊碑の前で直接被爆者から証言を聞く」という画期的なスタイルを考案しました。これが後に全国の標準となる「上平井方式」です。
2. 被爆者たちの勇気と「伝えておかなければ」という思い
江口先生の熱意に打たれ、辛い記憶を封印していた被爆者の方々が立ち上がりました。その代表が切明千枝子さんです。当初は凄惨な記憶を思い出す恐怖から証言を断っていましたが、同級生と「3人1組」で互いに言葉を補い合う形で語り始めました。彼女たちが身を削るような思いで流した涙と勇気が、何十万人もの子どもたちの心を動かす教育のうねりとなっていったのです。
3. 弥富市が受け継ぐ平和へのバトン:驚くべき「広島研修」
江口先生と被爆者の方々が築き上げたこの「生々しい体験を心で受け止める」という教育手法を、現代において最も洗練された形で引き継いでいるのが、私たち弥富市です。
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異例の「中2・全員参加」: 一般的な観光旅行とは異なり、弥富市では「平和都市宣言」の具現化として、市内3中学校の2年生全員(約400名)が参加する独立した平和学習を行っています。
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「上平井方式」の直系継承: 平和記念公園では、まさに江口先生が考案した通り、少人数グループに分かれてボランティアガイドと慰霊碑を巡り、歴史を肌で感じます。
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究極の追体験「しげるちゃん弁当」: 研修中、子どもたちは原爆で亡くなった同年代の少年「しげるちゃん」の最後の食事を完全に再現した質素なお弁当を食べます。「当時はこれがごちそうだったんだ」——味覚と空腹感を通じたこの圧倒的な追体験は、平和の尊さを「自分事」として深く心に刻み込ませます。
4. 子どもたちは「平和の伝達者」へ
広島から帰ってきた弥富市の中学生たちは、単なる体験者で終わることはありません。事前学習から事後の作文、そして報告会を通じて、彼らは「あの時代を乗り越えてくれたから今の私がある。戦争を知らない私たちが、これを伝えていかなければならない」という強い使命感を持つようになります。
おわりに
弥富市の「広島研修」は、被爆者の方々の「伝えておかなければ」という切実な願いと、先人たちの情熱が結実した、日本有数の平和教育プログラムです。この研修を通じて、本市の子どもたちが命の尊さを学び、未来の平和を担う立派な伝達者として育っていることを、市民の皆様と誇りに思いたいと思います。
広島修学旅行の史的展開と被爆体験継承の現在:江口保の「上平井方式」から弥富市「広島研修」への軌跡
はじめに:平和教育におけるパラダイムシフトと記憶の継承
戦後日本の教育史において、「平和教育」はその時代の社会的・政治的要請と密接に結びつきながら変容を遂げてきた。
とりわけ、1970年代半ばから始まった被爆地・広島への修学旅行は、単なる観光や知識の付与を超え、次世代の児童・生徒が「ホロコーストの記憶」を直接的に内面化するための極めて実践的な教育手法として機能してきた。
現在の広島観光において、原爆ドームや宮島といった世界遺産巡りと並び、平和をテーマとした教育旅行(修学旅行)は広島観光の重要な特徴の一つとして位置づけられている。
この教育旅行における「広島修学旅行」の定着と、そこにおける被爆体験証言の体系化において、最も決定的な役割を果たしたのが、東京都の公立中学校教員であった江口保(えぐち・たもつ)である。
本報告書は、江口が1970年代に確立した「上平井方式(小グループによる慰霊碑前での直接証言)」の成立過程を詳細に紐解くとともに、当時タブー視されていた被爆体験を語るに至った広島県立広島第二高等女学校(以下、第二県女)出身の被爆者・切明千枝子らの葛藤と精神的軌跡を分析する。
さらに、この歴史的実践が現代においてどのように制度化され、次世代への平和教育として結実しているかを、愛知県弥富市が市を挙げて取り組む「広島研修」の緻密なカリキュラム分析を通じて明らかにする。
第1章:1970年代の教育環境と「広島修学旅行」の黎明
山陽新幹線の全線開通と「72時間ルール」の壁
広島を目的地とする修学旅行が首都圏の公立中学校で実現可能となった背景には、日本の交通インフラストラクチャーの劇的な発展が存在する。
1975年(昭和50年)、山陽新幹線が岡山から博多まで全線開通したことは、修学旅行の歴史においてエポックメイキングな出来事であった。
当時、東京都の公立中学校における修学旅行の行程には、「全行程を72時間以内(2泊3日)に収めなければならない」という厳格なルールの枠組みが存在していた。
新幹線の延伸以前、東京から西日本への修学旅行は物理的な時間制約から京都や奈良などの近畿圏が限界であった。
しかし、新幹線が博多まで開通したことにより、東京から広島までであれば、この「72時間」という制限時間内で往復し、現地での平和学習活動を行うことが実務上可能となったのである。
このインフラの変化にいち早く着目し、広島への修学旅行を企画・立案したのが、当時、東京都葛飾区立上平井中学校で教鞭を執っていた江口保であった。
江口保の原点:長崎での被爆と「生き残った者」の使命
江口保が修学旅行の目的地として被爆地に固執した根底には、彼自身が経験した凄絶な過去がある。
江口は1928年(昭和3年)7月17日、長崎県長崎市に生まれた。1945年(昭和20年)、当時の勤務先(あるいは在籍校)であった旧制長崎県立瓊浦中学校(後の長崎県立長崎西高等学校)において、17歳の時に長崎市への原子爆弾投下に遭遇し被爆した。
この惨禍において、江口は親友と死別し、自身も重傷を負って死線を彷徨うという極限状態を経験しながらも、奇跡的に被爆地を生き延びたサバイバーであった。
1951年(昭和26年)に上京して東京都の地方公務員(教員)となった江口にとって、次世代の子供たちに生命の尊厳と平和の尊さを伝えることは、生き残った者の絶対的な使命であった。
江口自身は長崎の被爆者であったが、新幹線のスピードをもってしても当時の交通網では長崎まで72時間以内で往復することは不可能であったため、彼は平和学習の舞台として広島を選定したのである。
職員室の激論と社会的タブー
江口の「広島修学旅行」の提案は、教育現場において即座に歓迎されたわけではなかった。
1970年代半ばの日本社会では、被爆から30年が経過していたものの、その体験は依然として生々しいトラウマとして社会の深層に沈殿していた。
上平井中学校の職員室においては、江口の提案に対して激しい議論が巻き起こった。
議論の最大の焦点は、「中学生という多感な時期の子供たちに、原爆の残酷でむごい現実を見せ、聞かせることが教育的に適切であるか」という点であった。
保護者の中にも強い反発や懸念があり、実現は困難を極めた。
さらに、被爆者自身が過去の辛い記憶を話したがらないという社会的風潮(タブー視)が極めて強く、証言を引き受けてくれる現地の被爆者を探し出すこと自体が絶望的な状況であった。
第2章:切明千枝子との邂逅と「上平井方式」の確立
慰霊碑という「場所の記憶」への着目
職員室や保護者の反対を押し切る形で広島修学旅行の準備を進める中、江口は自ら幾度も広島へ足を運び、現地の慰霊碑を巡回した。
そこで彼が考案したのが、数百人の生徒を大講堂に集めて講演を聞かせる従来型のスタイルではなく、生徒を少人数のグループに分割し、それぞれのグループが市内各所の「慰霊碑」の前に立ち、被爆者から直接体験を語り聞かせてもらうという極めて臨場感の高い研修手法であった。
江口がこだわったのは、学徒動員等で命を落とした「同世代の生徒たちの慰霊碑」の前で、被爆者やその遺族から直接証言を聞くことであった。
慰霊碑という物理的なアンカーを介して、過去の犠牲者と現在の生徒たちの空間を同期させるこの小グループ形式の指導法は、後に「上平井方式」と命名され、現代に至る広島修学旅行の標準的モデル(デファクトスタンダード)として定着していくことになる。
第二県女の悲劇と切明千枝子の沈黙
この「上平井方式」を具現化する過程で、江口が出会ったのが切明千枝子である。当時、切明は広島市役所の裏手(現在の中区国泰寺町)にある、広島県立広島第二高等女学校の「殉国学徒の碑」の世話係を務めていた。
第二県女の生徒たちは、原爆投下当日の8月6日、爆心地から約600メートルという至近距離で建物疎開の作業に従事しており、原爆の閃光を正面から浴びてそのほとんどが即死するという筆舌に尽くしがたい悲劇に見舞われていた。
被爆の翌年に建てられた木柱の前で、西組でただ一人生き残った坂本文子が弔辞を述べた際、娘を失った親たちから非難するような眼差しを向けられたという記録が残されている通り、生存者にとってもその記憶は重い十字架であった。
同級生の間でさえ当時の体験を語ることはタブーとされていた1970年代半ば、戦後は廃校となっていた第二県女の関係者を人づてに探し当てた江口は、切明のもとを訪れ、修学旅行生に対して証言をしてほしいと懇願した。
しかし切明は、「あのような辛い体験はできるだけ思い出さないように、忘れようと生きてきた」として、江口の依頼を幾度も断った。
恩師の代理証言から「3人1組」の連帯へ
江口の「土下座せんばかり」の熱意に対し、切明は折衷案として、自身の女学校時代の数学科の恩師である有田先生に証言を依頼した。
有田先生はこれを快諾し、碑の前で生徒たちに語り始めた。
この学生が被爆者から直接話を聞くという「上平井方式」は、葛飾区の別の学校から関東圏、さらには関西圏の学校へと急速に波及していった。
しかし、何度目かの証言の後、有田先生が病に倒れ、直接語り続けることが困難となった。
有田先生は自身の証言をカセットテープに録音し、「今後はこれを使ってください」と切明に託した。
だが、実際に殉国学徒の碑の前でカセットテープを再生してみると、碑のすぐ傍を通る国道の激しい交通騒音により音声がかき消され、生徒たちに伝える手段としてのテープ活用は断念せざるを得なかった。
証言者が不在となった絶望的な状況下で、江口から再度強く懇願された切明は、ついに自ら証言台に立つ決意を固める。
しかし、凄惨な記憶を一人で語る精神的負荷はあまりにも大きかった。
「話そうにも涙が先に立ってしまう」と考えた切明は、女学校時代の同級生に声をかけ、「3人1組」のチーム体制で証言活動を開始した。
誰かが言葉に詰まれば、別の誰かが即座に言葉を引き継ぐ。
この相互補完的な証言スタイルは、フラッシュバックの恐怖から自己を守りつつ、教育的使命を全うするための高度な心理的防衛機制であり、同時に強い連帯の証でもあった。
最初の2〜3年はこの3人体制で続けられたが、やがて1人が亡くなり、もう1人も病に倒れたため、現在では切明が単独で証言活動を継続している。
当初は目を背けようとしていた生徒たちも、話が進むにつれて目に涙をためて聴き入るようになり、「広島に行くと子供が変わる」と引率教員が驚嘆するほどの教育的成果を挙げた。
切明は後に、「話が辛いほどに、これは伝えておかなければならないという思いも強くなる。
江口先生がいらっしゃらなかったら私は証言を始めていなかった」と回顧し、江口への深い感謝を表明している。
研究においては、こうした葛藤の乗り越えこそが、広島観光における被爆者の「ホスピタリティ」の真髄であると評価されている。
| 証言体制の変遷フェーズ | 証言主体 | 背景と転換の理由 |
|---|---|---|
| 第1期(代理証言) | 有田先生(恩師) |
切明がトラウマから証言を固辞し、恩師に代理を依頼。 |
| 第2期(録音メディア) | カセットテープ |
有田先生が病に倒れる。野外(慰霊碑前)の交通騒音により実用不可となる。 |
| 第3期(連帯と補完) | 切明と同級生(3人1組) |
江口の再度の懇願。トラウマを分散し、言葉の詰まりを互いに補うために結成。 |
| 第4期(単独継承) | 切明千枝子(単独) |
同級生の他界と闘病により、切明がすべての記憶の伝達を背負うこととなる。 |
第3章:思想的対立の超克と「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」
孤立無援からの単身移住
江口保が確立した上平井方式は全国的な注目を集めたが、彼の教育実践は常に順風満帆であったわけではない。
1986年(昭和61年)、転勤先の中学校において、学校側から修学旅行の広島行きを拒否されるという事態が発生した。
自らのライフワークを否定された江口は妥協を許さず、定年を目前に控えた時期であったにもかかわらず教職を辞した。
そして、修学旅行生の受け入れを現地で直接支援するため、単身で広島へと転居したのである。
広島において江口は、たった一人でボランティア組織「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰した。
この会の主要な目的は、広島や長崎を訪れる修学旅行生の受け入れ態勢を整備し、学校の教員たちの相談役を請け負うとともに、証言者となる被爆者たちの世話と仲介(コーディネート)を行うことであった。
江口の類まれな行動力と手引きにより、切明千枝子のみならず、沼田鈴子、坂本文子、佐伯敏子といった、後に日本全国で著名となる被爆者・平和運動家たちが、次々と語り部として修学旅行生たちの前に立つようになった。
セクト主義の排除と「生々しい体験」の絶対的価値
1970年代から80年代にかけての日本の平和運動や原水爆禁止運動は、しばしば政治的イデオロギーやセクト(党派性)の対立によって分断される傾向があった。
しかし、江口が主導した平和教育のイデオロギーは、こうした「セクトを持ち込まないこと」を絶対的な信条としていた。
当時、慰霊碑の前で証言を行ったある語り部の女性に対し、彼女が「日本の加害責任や民族差別」について言及しなかったことを理由に、外部からその“不勉強”を問う非難の手紙が届いた事件があった。
ショックを受けたその女性は語り部活動を休止してしまう。
この事態に対し、江口は明確な反論を展開した。彼は「日本が戦争の加害者であることは紛れもない事実であり、その責任を免れることはできない。
しかし、被爆者の多くは直接の加害者ではない。
被爆者が自らの体験を語ることこそが重要であり、それは当事者にしかできないことである」と主張し、思想的枠組みによって個人の被爆体験を裁断する動きを強く牽制した。
当時の広島平和記念資料館館長であった高橋昭博らが「自らの被爆体験を語るだけでは不十分であり、歴史的背景も語るべき」という立場をとっていたのに対し、江口は一貫して「生々しい被爆体験」そのものの伝達に特化することを重視した。
江口は、被爆者が描いた絵や被爆前の原爆ドームの写真を用いて、初めて広島を訪れる生徒にも分かりやすい工夫を凝らし、被害の原初の驚きや悲しみを生徒と同じ目線で共有することに尽力した。
江口の純粋な献身と活動は高く評価された。
生涯において彼が修学旅行の助力をした学校は延べ1,000校、生徒数は20万人以上に上った。
1998年(平成10年)6月16日、江口は慢性腎不全(または急性骨髄性白血病)により69歳でこの世を去るが、その葬儀には全国の小中学校から数え切れないほどの弔電が寄せられた。
同年秋、財団法人ヒロシマ・ピース・センターから、平和への多大な貢献を称え、第10回「谷本清平和賞」が江口に対して追贈されている。
| 平和学習における証言の方向性の比較 | 主な提唱者 | 重視するポイントと教育的アプローチ |
|---|---|---|
| 体験至上主義(上平井方式) | 江口保 |
イデオロギーや加害責任の言及を必須とせず、「生々しい被爆体験」そのものの伝承に特化する。当事者しか語れない感覚的記憶の共有を最優先とする。 |
| 歴史・社会文脈主義 | 高橋昭博ら |
被爆体験の共有にとどまらず、日本の戦争加害責任や歴史的背景、民族差別などの構造的問題についても言及し、複合的な平和学習を目指す。 |
第4章:現代平和教育の最前線 ―― 弥富市「広島研修」の全容
江口保が切り拓き、切明千枝子らが身を削って構築した「上平井方式」の教育哲学は、現代の多くの自治体において高度に制度化された形で継承されている。
その最も洗練され、かつ徹底された実例が、愛知県弥富市(やとみし)が実施している「広島研修」である。
「平和都市宣言」の具現化と全市的取り組み
弥富市は、市の教育の三本柱として「平和教育」「防災教育」「英語教育」を掲げており、とりわけ平和教育の中心に据えられているのが、2011年(平成23年)度から継続して実施されている「広島研修」である。
この事業は、同市が行った「平和都市宣言」(核兵器のない世界の実現に向けた決意表明や、日本非核宣言自治体協議会への加盟)の具体的な具現化として位置づけられており、市長自らが「首長として世界に誇れる事業」と豪語するほどの強い政治的・行政的バックアップのもとで運営されている。
特筆すべきは、一般的な修学旅行が中学3年生で観光レクリエーションを含んで行われるのに対し、弥富市の広島研修は「中学2年生」を対象とした独立した平和教育プログラムとして実施されている点である。
市内の公立中学校3校(弥富中学校、十四山中学校、弥富北中学校)の2年生約400名が合同で1泊2日の行程に参加し、不登校傾向の生徒も含めほぼ全員が参加するという極めて高い包摂性を持っている。
カリキュラムの構造と「上平井方式」の直系継承
弥富市の広島研修の行程は、江口が1970年代に考案した理念を見事に現代化している。第1日目、新幹線でJR名古屋駅からJR広島駅へ到着した生徒たちは、平和記念公園へと向かう。そこで彼らは10〜15人程度の小グループに分かれ、ボランティアの語り部とともに公園内を散策し、慰霊碑を巡りながら当時の悲惨な状況について直接説明を受ける。
これはまさに「上平井方式」の直系のアプローチである。
その後、生徒たちは事前に作成した千羽鶴を「原爆の子の像」などに献呈し、世界の平和を願う折り鶴アートの献呈式を行う。
夜にはフェリーで江田島青少年交流の家に渡り、被爆ピアノのプロによる演奏会と講話を聴講し、そのお返しとして生徒全員で合唱を捧げる。音楽を通じた精神的な浄化と連帯の時間が設けられている。
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弥富市 中学2年生「広島研修」行程表(1泊2日) |
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| 【第1日目】空間と記憶の追体験 |
| 1. JR名古屋駅出発 → 新幹線 → JR広島駅到着 |
| 2. 平和記念公園にて小グループ(10〜15名)に分かれ、ボランティアガイドと園内散策・講話聴講 |
| 3. 昼食:「しげるちゃん弁当」の喫食(戦時中の食事体験) |
| 4. 原爆ドーム見学、原爆の子の像前での折り鶴献呈式・平和の合唱 |
| 5. 観光バスおよびフェリーで移動 → 江田島青少年交流の家 入所 |
| 6. 夕食後、被爆ピアノの演奏会と講話、生徒からの合唱の奉納 |
| 【第2日目】歴史的資料との対話 |
| 1. 広島平和記念資料館(原爆資料館)の広範な見学 |
| 2. 各校の案による独自研修(呉市の大和ミュージアム散策など) |
| 3. JR広島駅 → 新幹線 → JR名古屋駅帰着 |
| 【事後学習】アウトプットと市民への還元 |
| 帰着後、生徒による作文の執筆、クラス・全校・PTA向け報告会の開催(3年に1度は市民向け大規模報告会) |
究極の共感装置:「しげるちゃん弁当」
弥富市のカリキュラムにおいて、生徒の心に最も鮮烈なパラダイムシフトを引き起こすのが、1日目の昼食として提供される「しげるちゃん弁当」の喫食体験である。
「しげるちゃん」とは、現在の弥富市の参加生徒たちと全く同じ中学2年生の時に、爆心地から約600メートル離れた場所で建物疎開の動員作業中に原爆の閃光を正面から浴びて即死した被爆者、折免滋(おりめん・しげる)君のことである。
広島平和記念資料館には、滋君が亡くなった際に胸にしっかりと抱え込んでいた、真っ黒に焦げた弁当箱と水筒が現在も展示されている。
弥富市はこの弁当箱の中身に着目した。滋君の母親の証言に基づき、被爆当日の朝に作られた弁当を完全に再現し、それを研修中の生徒たちに昼食として配布しているのである。
そのメニューは、滋君が自ら初めて畑で収穫した作物を用いたという、少量の塩味がついた大豆入りの麦飯と、少しばかりの切り干し大根が添えられただけの極めて質素なものである。
平和記念公園の空の下、観光バスの中や公園内でこの弁当を口にする生徒たちは、味覚と空腹感という極めて直接的な身体感覚を通じて、「過去の犠牲者との対話」を余儀なくされる。
生徒の事後作文には、「少量の弁当は、今幸せに暮らせている私たちにとっては物足りなさを感じた。
しかし、当時は十分豪華だった。あの時代を乗り越えてくれたからこそ今の私たちがある」という痛切な自覚が綴られている。
知識として原爆の悲惨さを学ぶだけでなく、同年代の犠牲者の「最後の食事」を胃袋に入れることで、歴史を絶対的な「自分事」として昇華させているのである。
第5章:生存者のメッセージと次世代へのアウトプット
アオギリの生命力と回復のメタファー
弥富市の研修においては、単に被爆の残酷さを学ぶだけでなく、そこからの「回復と再生」のプロセスも重要なテーマとして扱われている。
その象徴として生徒たちが学ぶのが、被爆アオギリの語り部として知られた故・沼田鈴子(江口保の手引きで修学旅行生に証言を始めた代表的な被爆者の一人)のエピソードである。
被爆地から約1.3キロの地点で被爆し、膝から下を失った沼田は、絶望のあまり自殺まで考えたという。
しかし、熱線で黒焦げになりながらも立ち続け、やがて芽吹いたアオギリの木の勇ましい姿に感動し、生きる希望を取り戻した。
江口や沼田らの活動により、この被爆アオギリの種子(2世)は国内外へ贈られ、中国郵政局など多くの犠牲者を出した場所の「生き証人」として世界中で育成されている。
弥富市の生徒たちはこのエピソードを事前・事後学習で反芻し、生命の尊厳と自己肯定感を同時に学んでいく。
記憶を内面化し、伝達者となる中学生たち
研修を終え帰郷した生徒たちは、単なる「体験者」で終わることはない。
彼らは自らが感じた凄惨な事実(放射線被害による紫の斑点や、水を求めて川に飛び込み死体で埋もれた光景など)を言語化し、作文として記録する。
十四山中学校の教員が「東京や広島だけでなく愛知県でも大きな空襲があったことを生徒は学んだ」と語るように、事前学習と実地研修の相乗効果により、生徒たちの歴史認識は立体的になる。
弥富中学校の生徒の作文には、「当時の大人たちが忘れようとしていた過去を、当時の中学生が残そうとしたからこそ今の広島がある。
戦争を知りたくはなかったけど、知らなければいけないと思った。
そのことを伝え、広げるのが僕たちの役目だ」という、江口や切明らが命懸けで伝えようとした意志の完全な継承が見て取れる。
いじめ問題(大河内清輝君の事件)に関連した命の教育とも連動させながら、弥富市は生徒たちを「平和の伝達者」へと育成しているのである。
結論:江口保の思想的遺産と「ホスピタリティ」の未来
1970年代半ば、山陽新幹線の開通というインフラの発展を契機に、長崎の被爆者であった江口保の執念が生み出した「広島への修学旅行」と「上平井方式」は、日本の平和教育における決定的なパラダイムシフトであった。
それは、国家対国家のマクロな政治思想から、慰霊碑という空間を介在させた個人の「痛みへの共感(ミクロな対話)」への回帰であった。
自らのフラッシュバックの恐怖という巨大な障壁を乗り越え、江口の土下座せんばかりの情熱に応えて証言台に立った切明千枝子ら第二県女の生存者たちの勇気は、修学旅行生に対する最大限の「ホスピタリティ(もてなし、自己犠牲を伴う思いやり)」であったと位置づけられる。
彼女たちが流した涙と、「3人1組」で互いの言葉を補い合った連帯の証言は、結果として数十万人規模の子供たちの心に戦争の真実を刻み込む巨大な教育的うねりを作り出した。
そして現在、愛知県弥富市の「広島研修」が示すように、江口と被爆者たちが手探りで築き上げた実践的教育手法は、自治体の強固な制度として高度に洗練され、受け継がれている。
同年齢の犠牲者が残した「しげるちゃん弁当」を食し、少人数のグループでガイドの言葉に耳を傾ける弥富市の中学生たちは、半世紀前に上平井中学校の生徒たちが慰霊碑の前で体験したであろう「他者の痛みへの想像力」を、現代的なアプローチで追体験している。
原爆投下から長い年月が経過し、直接の語り部である被爆者が物理的に減少していく現代において、過去の悲惨な現実から目を背けず、生の証言やそれに準ずる圧倒的な追体験を通じて平和への想像力を育む江口保の思想は、決して色褪せることはない。
「伝えておかなければならない」という被爆者たちの切実な叫びと、それを教育というシステムに組み込んだ先人たちの努力は、これからも日本の平和教育の確固たる羅針盤として機能し続けるだろう。

