未完のプロジェクト「こどもまんなか社会」——歴史から紐解く、はじめの100か月の育ちと未来
「こどもまんなか社会」——。今、国を挙げて推進されているこの言葉は、決してこどもを無批判に優先するだけの、耳障りの良いスローガンではありません。
それは、現代の日本社会を深くむしばむ「自己責任論」という病理を打ち破り、社会全体の活力を取り戻すための壮大な「やり直し」の試みなのです。
本特集では、こども家庭庁が打ち出した「はじめの100か月の育ちビジョン」の背後にある、歴史的・思想的な基盤に迫ります。戦後日本の教育現場が血の滲むような熱量で取り組んだ「バズ学習」による民主化のプロセスから、不登校ゼロを実現した大空小学校のインクルーシブな実践まで。
そこから見えてくるのは、こどもが失敗を恐れずに自ら問いを立てるための「安心と挑戦の循環」を、いかにして社会全体で保障するかという本質的な問いでした。
家庭や学校という閉じた空間から抜け出し、多様な大人が関わる「ナナメの関係」を通じて、地域を「みんなの学校」へとどう育てていくのか。
現場の疲弊や冷ややかな懐疑主義といった現実の壁に正面から向き合いながら、私たち大人が当事者として引き受けるべき「未完のプロジェクト」の行方と、未来への羅針盤を多角的な視点から読み解きます。
「こどもまんなか社会」と「はじめの100か月の育ちビジョン」
現在推進されている「こどもまんなか社会」および「はじめの100か月の育ちビジョン」を単なる新規政策としてではなく、戦後民主主義の教育的実践からの歴史的連続性と、現代の「自己責任論」という社会病理へのカウンター(やり直し)として位置づけ、その構造と課題、未来への展望を論じたものです。
1. 歴史的・思想的基盤:運動としての民主主義
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「する」論理としての民主主義: 政治学者・丸山眞男の指摘の通り、民主主義は完成された制度(絶対値)ではなく、現状を絶えずより良くしようとする「プロセス・運動(ベクトル)」である。
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教育現場の原点(バズ学習): 戦後日本の教育現場では、上からの管理ではなく、小集団での討議を通じて相互の信頼と協働を促す「バズ学習」が実践された。これは教室における民主化プロセスの体現であった。
2. 現代社会の病理:「自己責任論」の罠
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構造的課題の矮小化: 貧困や虐待といった社会構造の歪みが「個人の努力不足(自己責任)」として処理されることで、社会全体の活力が奪われている。
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「問いを立てる力」の喪失: 失敗を過度に恐れる環境下では、こどもたちは自発的に「問いを立てる」機会を奪われる。結果として、主体的な挑戦と試行錯誤のプロセスである「PDCAサイクル」が回せなくなっている。
3. 実践のモデル:大空小学校が示す「やり直す」権利
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インクルーシブ教育の体現: 全てのこどもの学習権を保障し、「不登校ゼロ」を達成した大阪市立大空小学校の実践が、未来のエコシステムのモデルとなる。
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心理的安全性と挑戦: 唯一のルールである「自分がされていやなことは人にしない」を破った際、罰ではなく「やり直す」ための対話を重視。この「失敗してもやり直せる(安全)」環境こそが、主体的な「挑戦」を生み出す基盤となる。
4. 国家戦略:「はじめの100か月の育ちビジョン」
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政策の目的: 2023年に創設されたこども家庭庁が打ち出した、妊娠期から小学1年生(約100か月)までのウェルビーイングの基盤を築くための羅針盤。縦割り行政の「切れ目」を埋めることを目指す。
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「安心と挑戦の循環」: ビジョンの核心は、身近な大人との愛着(安心)を土台に、豊かな遊びや体験(挑戦)を促すことにある。これは、大空小学校の理念やバズ学習の歴史的蓄積と完全に軌を一にする教育学的コンセプトである。
5. 社会実装への壁と未来への展望
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立ちはだかる課題: 予算対効果への批判、過酷な労働環境下での「こどもまんなか」というスローガンの空疎化懸念、現場の疲弊(公立保育所の民営化問題など)といった現実的な壁が存在する。
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地域共創(Co-creation)の必要性: 家庭や学校という閉じた空間ではなく、多様な大人が関わる「ナナメの関係」を構築する地域コーディネーターの役割が重要となる。
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パラダイムシフト: 大人が一方的に「教える」社会から、地域全体でこどもの育つ力を「見守り、共に育つ(共育ち)」社会への転換が求められている。
結論
「こどもまんなか社会」は、決してこどもを甘やかすための免罪符ではなく、自己責任論によって縮小する日本社会を反転させるための「未完の国家プロジェクト(社会実験)」です。
ビジョンを絵に描いた餅に終わらせず、社会全体で引き受け、地域社会を「みんなの学校」へと成熟させていくことこそが、次世代に対する大人の責任であると結論付けています。
「こどもまんなか社会」と「はじめの100か月の育ちビジョン」の歴史的・思想的基盤と未来への展望
序論:歴史的連続性のなかで捉える「こどもまんなか社会」
現代の日本において、国を挙げて推進されている「こどもまんなか社会」というスローガン、およびこども家庭庁が打ち出した「はじめの100か月の育ちビジョン」は、突如として生まれた政策的特異点ではない。
それは、戦後の民主主義教育の原点から始まり、高度経済成長期の管理教育や、現代社会を覆う自己責任論の蔓延といった社会構造の変容を経て、これまでの日本社会が抱え込んできた根深い課題に対する、ひとつの歴史的な回答、あるいは「やり直し」の試みとして位置づけることができる。
1945年の敗戦後、日本国憲法と教育基本法が制定され、個人の尊厳と民主的な社会の構築が国家と教育の至上命題として定められた。
戦中・戦後の激動期を経験した世代にとって、この「民主的な社会を創る」という理念は、単なるお題目ではなく、文字通りゼロから社会を再構築するための血の通った目標であった。
当時の社会環境を客観的指標(絶対値)として評価すれば、男尊女卑の慣習や村社会的な同調圧力は現在よりも遥かに強固であり、人権意識の欠如という点では極めて過酷な状況にあったと言える。
しかし、そうした厳然たる差別や抑圧が存在していたからこそ、教育の現場を中心に、なんとかして現状を打破し、人権を重んじる社会を打ち立てようとする現場の教師たちの凄まじい熱量と実践が存在していた。
本報告書は、こうした歴史的背景——戦後民主主義の運動論、バズ学習に代表される教育現場の試み、そして大空小学校に象徴される現代のインクルーシブな取り組み——を思想的基盤として踏まえつつ、現代の日本社会をむしばむ「自己責任論」の弊害を解明する。
その上で、次世代のウェルビーイングを生涯にわたって保障するための体系的な国家戦略である「はじめの100か月の育ちビジョン」の構造と、その実現に向けた社会的課題について、徹底的かつ多角的に論考する。
第1章:運動としての民主主義と教育の原点
ベクトルとしての民主主義:丸山眞男の視座から
戦後日本の教育現場において、民主的な社会を創り上げるという目標は、完成された制度を天下り式に導入することを意味しなかった。
このダイナミズムを深く理解する上で不可欠なのが、政治学者・丸山眞男が提示した「『である』ことと『する』こと」という民主主義論である。
民主主義とは、決してあらかじめ完成された「ベストな政治体制」ではない。
丸山が指摘するように、民主主義というものは、人民が本来、制度の自己目的化や物神化を不断に警戒し、現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって初めて生きたものとなる。
すなわち、民主主義とは、今ある現状・事象・課題に対して「民主的であろうとする」こと、現状をどう変えていくかという「プロセス(運動)」そのものに他ならない。
数学の概念を借りて表現するならば、民主主義とは現状の「絶対値」の良し悪しを測定する定規ではなく、今ある値をどう変化させるか——悪いものは小さくし、良いものであれば広げていく——という「ベクトル」である。
戦後間もない時期の教育現場には、客観的な絶対値としては今より遥かに悪い社会状態が存在していた。
しかし、一人ひとりの熱情により、生まれながらの差や厳然たる差別に対して跳ね返そうとする力、何度踏まれても起き上がるようなベクトルとしての強烈なエネルギーが存在していたのである。
「バズ学習」の導入と人間関係の再構築
こうしたベクトルとしての民主主義を、学校というミクロな社会において具現化した歴史的実践のひとつが「バズ学習(Buzz Learning)」である。
バズ・セッションの起源は、アメリカのJ.D. Phillipsが考案した討議技法(Discussion 66:6人が6分間討議する手法)にあるが、日本においてこれを単なる話し合いの技術から「教育と指導の理論」へと昇華させたのは、名古屋大学の塩田芳久らによる愛知県海部郡八開中学校などでの実践であった。
1950年代後半から1960年代にかけて、塩田らは生徒の非行や学校生活への消極的態度といった問題に対して、上からの「管理」ではなく、生徒自身の自己発見と集団内の「人間関係の修復」というアプローチで立ち向かった。
バズ学習は、小集団での自由な討議を通じて、生徒一人ひとりの参加を促し、相互の信頼に基づく協働学習を実現するものである。
バズ学習の根底には、「課題のないところに学習は存在しない」という確固たる仮定がある。
教師が一方的に知識を与え、生徒がそれを受動的に飲み込むのではなく、学習者自身が直面する課題(解決を要する不確定な部分を含む仕事)を明らかにし、集団の力で解決策を模索する。
バズ学習は序列づけや競争をゴールとせず、学級のメンバー一人ひとりの成長を互いの喜びとする学習事態を一貫して作り出した。
これはまさに、個人の尊厳を守りながら他者と協調するという、教室における民主化プロセスの体現であった。
第2章:自己統制社会と「自己責任論」の罠
熱量の喪失と抑圧の内面化
戦後の激動期から高度経済成長、そして現代に至る過程で、社会の絶対的な豊かさは向上し、制度的な整備(絶対値の改善)も格段に進展した。
しかし、それと反比例するように、かつて存在した社会を変革しようとする熱量や、困難に直面した際の反発力は失われていった。
この背景には、親世代や祖父母世代が獲得してきた制度的安定が、皮肉にも次世代に対する過度な「自己統制(セルフコントロール)」の要求へと転化していったという構造がある。
現代の日本社会を覆っている最も深刻な病理は、「自己責任論」の蔓延である。
「あなたの努力が足りなかったから、今の結果がある。だから仕方がない」という論理は、個人の尊厳を根底から破壊し、社会全体の活力を奪っている。
本来、こどもの貧困、孤立、不登校、いじめ、虐待といった問題は、家庭環境や社会構造の歪みがもたらすものであり、個人の努力不足に帰責されるべきものではない。
例えば、2022年の厚生労働省の調査によれば、日本の子どもの相対的貧困率は11.5%(約9人に1人)に達しており、さらに児童虐待の相談件数や、小中高生の自殺者数(年間500人超)は増加の一途をたどっている。
これらは明らかな構造的課題であるにもかかわらず、社会は自己責任の名の下にこれを個人の問題へと矮小化してきた。
「問いを立てる力」の喪失とPDCAの機能不全
自己責任論が内面化された社会において、こどもたちは失敗を極端に恐れるようになる。指示された正解をいかに効率的になぞるかが評価の対象となり、自発的に疑問を持ち、自ら「問いを立てる」機会が決定的に奪われているのである。
現代の教育やビジネスにおいてPDCA(Plan-Do-Check-Action)サイクルの重要性が叫ばれるが、このサイクルは自発的な「問い(Planの源泉)」と、そこから生じる「挑戦(Do)」、そして何より「多少の成功体験」が存在して初めて回るものである。
自ら問いを立て、1人では解決できないからこそ周りの人と協調・調和し、試行錯誤を通じて解決へと向かう経験を持たないこどもに、突然PDCAを回せと要求しても機能するはずがない。
ぐるっと一周して、結局「自分で解決できない」「経験がないから問いも立てられない」という自己否定に行き着いてしまうのが現状である。
新しい幼児教育や学校現場において求められているのは、この「自ら問いを立てる力」の回復である。
幼児期におけるイヤイヤ期などの自己主張は、単なるわがままではなく、自らの意思を伝え尊重されるための「意見表明権」の行使として肯定的に捉え直されるべきであり、その受容こそが自己肯定感を育む第一歩となる。
第3章:「みんなの学校」が示す未来の教育エコシステム
インクルーシブ教育と「やり直す」権利
失われた社会の活力と個人の尊厳を取り戻し、自ら問いを立てる力を育むための具体的な実践として、全国から極めて高い注目を集め続けているのが、大阪市立大空小学校(木村泰子初代校長)の取り組みである。
同校は2012年度時点で児童数約220名に対し、特別支援の対象となる児童が30名を超えていたにもかかわらず、すべてのこどもが同じ教室で学ぶインクルーシブ教育を実践し、「不登校ゼロ」を達成した。
大空小学校が掲げた理念は、「すべてのこどもの学習権を保障する学校をつくる」という一点に尽きる。
そして、同校に存在する唯一のルールは「自分がされていやなことは人にしない・言わない(たったひとつの約束)」のみである。
この約束を破った場合、こどもたちは罰を受けるのではなく、校長室へ赴き「やり直す」ための対話を行う。
「安全」と「挑戦」の循環を保証する環境
この「やり直せる」という環境こそが、前述したPDCAサイクルを回すための決定的な基盤となる。
失敗が許されない自己責任の空間では、こどもは決して自ら問いを立てる(挑戦する)ことはない。
大空小学校の卒業生たちが「人と意見がぶつかったとき、多くのことを話し合いで解決することができた」「自分の言葉で語ってきたことが力になった」と証言するように、多様な他者との摩擦と、その後の「やり直し(関係の修復)」の経験こそが、生涯にわたる生きる力(ウェルビーイング)を形成する。
また、同校の特筆すべき点は、教職員だけでなく地域の住民や保護者が日常的に学校に入り込み、こどもたちを見守る「地域に開かれた学校」を実現したことである。
これは、こどもの育ちを家庭や学校という閉鎖空間から解放し、地域社会全体のエコシステムの中で包摂しようとする試みであり、まさに次章で述べる「こどもまんなか社会」の先駆的なモデルと言える。
第4章:国家戦略としての「はじめの100か月の育ちビジョン」
「はじめの100か月」の定義と政策的背景
教育現場の歴史的蓄積と、深刻化する現代の課題(自己責任論による孤立、児童虐待の増加、少子化)に対するマクロな政策的回答として、2023年(令和5年)4月に創設されたこども家庭庁が、同年12月に閣議決定したのが「幼児期までのこどもの育ちに係る基本的なビジョン(はじめの100か月の育ちビジョン)」である。
「はじめの100か月」とは、母親の妊娠期からこどもが小学校1年生の途中(概ね94〜106か月)までの期間を指す。
この時期は、こどもの生涯にわたる身体的・精神的・社会的(バイオサイコソーシャル)なウェルビーイングの基盤を築く、人生において最も重要な時期と位置づけられている。
これまで、日本のこども政策は、厚生労働省(保育所・母子保健)、文部科学省(幼稚園・小学校)、内閣府(認定こども園・少子化対策)など、複数の省庁による縦割り行政の弊害に苦しんできた。
こども家庭庁はこれらの機能を一元化し、誕生、就園、就学の前後や、家庭、園、関係機関、地域の間に存在する「切れ目」を埋める強力な司令塔として設立された。
5つのビジョンとその構造
「はじめの100か月の育ちビジョン」は、以下の5つの柱(ビジョン)から構成されており、国や自治体、そして社会全体が同じ方向に向かうための「羅針盤」として機能することが意図されている。
| ビジョン | 概要と政策的意図 | こどもまんなか実行計画における具体的施策例 |
|---|---|---|
| 1. こどもの権利と尊厳を守る |
こどもを保護の対象ではなく「生まれながらの権利の主体」として尊重する。乳幼児の思いや願いを受け止め、生命と生活を保障する。 |
こどもの権利に関する社会全体への普及啓発。児童虐待の未然防止・対応強化(こども家庭センター・児童相談所の体制整備)。 |
| 2. 「安心と挑戦の循環」を通してウェルビーイングを高める |
身近な大人とのアタッチメント(愛着)による「安心」を土台に、豊かな遊びや体験を通じた「挑戦」を促す。 |
未就園児を含めた「こども誰でも通園制度」の創設・推進。乳幼児期の遊びと体験の重要性に関する科学的知見の普及。 |
| 3. 「こどもの誕生前」から切れ目なく育ちを支える |
妊娠・出産から幼保小接続期に至るまで、発達段階や環境の変化に伴う「切れ目」をなくし、伴走型の支援を構築する。 |
妊婦等包括相談支援事業。地域における医療、療育、保育等の関係機関の連携強化(児童発達支援センターの機能強化)。 |
| 4. 保護者・養育者のウェルビーイングと成長の支援 |
こどもに最も近い大人をきめ細かく支援する。支援・応援を受けることを「当たり前」とし、保護者の孤立を防ぐ。 |
産前産後ケア、地域子育て支援拠点事業の拡充。共働き・共育ての推進(男性の育休取得促進等の労働環境整備)。家庭教育支援。 |
| 5. 育ちを支える環境や社会の厚みを増す |
家庭や園だけに責任を負わせず、多世代の地域住民や専門職連携を通じて、社会全体でこどもを育むエコシステムを構築する。 |
地域コーディネーターの養成。小中高生・大学生、高齢者等による多世代交流の促進。乳幼児触れ合い体験の推進。 |
「安心と挑戦の循環」の教育学的意義
ビジョンの第2項に掲げられた「安心と挑戦の循環」は、極めて重要な教育学的・心理学的なコンセプトである。
身近な大人(保護者や保育者)が寄り添うことで得られる「アタッチメント(愛着)」が心理的安全基地(安心の土台)となり、それを基盤としてこどもは未知の環境(他者、自然、モノ)へ興味・関心を持ち、「豊かな遊びと体験(挑戦)」へと向かう。
この循環構造は、バズ学習が証明した「温かい人間関係の構築が学習意欲の向上をもたらす」という原理や、大空小学校における「失敗してもやり直せる安心感が生む主体的な学び」と完全に軌を一にしている。
自ら問いを立てる(挑戦する)ためには、何度失敗しても受け入れられるという絶対的な安心(自己肯定感)が必要不可欠であり、これこそが、他者の失敗を責め立てる「自己責任論」への最強のアンチテーゼとなるのである。
第5章:社会実装への壁——異論、批判、そして課題
「こどもまんなか社会」や「はじめの100か月の育ちビジョン」という政策パッケージは、極めて体系的に整理された高度な理念である。
しかしながら、この理念が現実社会において100%正しく機能するのか、あるいは必要な効果を生むのかについては、様々な異論、批判、議論、懸念が存在することもまた事実である。
「本当にそんなことができるのかよ」という根強い懐疑主義に向き合わなければ、政策は画餅に帰す。
1. 「予算の無駄遣い」「成果が見えない」という批判
こども家庭庁の設立以降、SNSや一部の言論において「巨額の予算を使っているのに成果が乏しい」「組織を解体すべきだ」といった批判が散見される。
実際には、こども家庭庁の予算の大半は児童手当や保育所の運営費など、こどもや子育て世代を支えるために直接的に充てられている。
しかし、少子化の歯止めや児童虐待の減少、こどもの自己肯定感の向上といったマクロな指標は、即座に結果が出る性質の政策ではないため、国民の体感としての「成果」が得られにくいというジレンマが存在する。
2. 「こどもまんなか」というスローガンの空疎化懸念
社会の現場(労働環境や経済状況)が過酷なままであるにもかかわらず、「こどもまんなか」というスローガンだけが先行することへの当事者からの冷ややかな視線もある。
「長時間労働でこどもと接する時間がない」「奨学金の返済や経済的困窮により未来に希望が持てない」といった若者や子育て世代の切実な声がある中で、理念だけを強調すれば、かえって「立派な子育てができない親の自己責任」という圧力を強化しかねない。
3. 「誰がやるのか」という現場の疲弊と公立保育所の民営化問題
理念の実現には地域社会の連携が不可欠とされるが、その受け皿となる地方自治体、保育・教育現場などは、すでに人手不足と高齢化によって疲弊の極みにある。
また、自治体によっては財政負担の軽減を名目に公立保育所の民営化(移管)を推し進める動きがあり、市民からは「市の財政的な都合を最優先しており、福祉の砦が崩れるのではないか」という強い懸念が示されている。
大空小学校のような実践は、強力なリーダーシップと教職員の献身によって成し遂げられた「名人芸」とみなされることも多く、これを全国の公教育や地域社会に一般化し、持続可能なシステムとして定着させることは極めて難易度が高い。
第6章:未来への展望——地域社会の再構築と協働(Co-creation)
前章で挙げたような構造的課題や根強い懐疑主義に対し、それでもなお、社会はこの課題に正面から向き合わなければ未来はない。
そのための現実的なアプローチとして、現在展開されている最も重要な施策が「地域コーディネーターの養成」と「共創型支援(Co-creation)」である。
地域コーディネーターと「ナナメの関係」の構築
家庭や園(学校)という閉じた空間だけで「100か月」の育ちを支え切ることは不可能である。そこで、こども家庭庁は令和6年度補正予算等を通じて「はじめの100か月の育ちビジョン」地域コーディネーター養成事業を開始した。
地域コーディネーターの役割は、単なる行政の下請けではない。会社員、大学生、主婦、シニア層など多様なバックグラウンドを持つ人材がハブとなり、地域内の企業、商店街、学校、NPOなどを有機的に結びつけることにある。
全国で採択されたモデル団体は、地域の実情に応じた多様なアプローチを展開している。
| 実施地域 | モデル団体 | 主な活動内容(共創型支援の事例) |
|---|---|---|
| 石川県野々市市 | 一般社団法人 はぐネット |
商店街に「こども服のクローゼット」を常設。公民館等で交換イベントを開催し、乳幼児親子と地域住民が交流。 |
| 埼玉県久喜市 | 学校法人 柿沼学園 |
園や支援センター、学校、自治会等と連携し、乳幼児親子と地域住民が交流するイベントや講習会を開催。 |
| 東京都新宿区 | スリール株式会社 |
プレママ・プレパパが先輩家庭と関わる機会や、学校・大学での乳幼児触れ合い体験を通じ、多様な家族のあり方を学ぶ。 |
| 兵庫県姫路市等 | 特定非営利活動法人 棚田LOVERS. |
里山・棚田・古民家を活用し、大学生や会社員、高齢者が農作業や自然体験を通じて乳幼児親子と交流。 |
| 神奈川県横浜市 | 特定非営利活動法人 びーのびーの |
「産前産後のおうち」で高齢者と関わり、小中高生の触れ合い体験やこども食堂でのボランティアを通じて地域交流を図る。 |
こうした取り組みは、こどもにとって親や教師以外の「ナナメの関係」を構築し、多様な価値観に触れるサードプレイス(第3の居場所)を提供する。
同時に、こどもと触れ合う大人(特に若者やシニア層)にとっても、利害関係のないフラットな対話を通じて凝り固まった思考をほぐし、ポジティブに社会参画するきっかけ(脳内ストレッチ)となり、社会全体のウェルビーイングを向上させる相乗効果を生むのである。
「教える」から「見守る・共育ち」へのパラダイムシフト
教育の現場においても、地域社会においても、かつての「正しい知識を大人が一方的に教え込む」というパラダイムから、「こども自身の育つ力を信じ、おおらかに見守る(共育ち)」への転換が強く求められている。
こども家庭庁が専門職(医療関係者、保育士、子育て支援施設等)向けに公開した取組事例集では、病気だけを診るのではなく親子の不安を受け止めるクリニックや、地域の高齢者を園に受け入れる保育施設の事例が共有されている。
福祉や医療、教育の専門職がそれぞれの「縦割り」の殻を破り、地域住民や民生委員等とフラットに繋がり合う「共創型支援」の成功モデルを社会全体に波及させることが、こどもまんなか社会実現のための最大の戦略である。
結論:未完のプロジェクトとしての「こどもまんなか社会」
「こどもまんなか社会」とは、決して甘い理想論や、こどもを無批判に甘やかすための免罪符ではない。
それは、戦後の過酷な環境の中から民主主義と人権教育を立ち上げ、バズ学習を通じて集団内の人間関係の修復を図り、大空小学校のようなインクルーシブな「みんなの学校」の実現へと至る、先人たちの数々の泥臭い試行錯誤の歴史的延長線上に位置する、国家レベルの壮大な社会実験である。
私たちが直面している現状は、自己責任論によって個人の尊厳が削られ、一人ひとりの努力不足という名目で社会構造の歪みが隠蔽され、少子化という形で社会そのものが縮小のベクトルを描いている危機的状況にある。
この流れを反転させるためには、丸山眞男が説いたように、民主主義を完成された「制度(である)」として放置するのではなく、今ある課題に対して批判し、行動し、より良くしていこうと「する(プロセス)」不断の運動を取り戻さなければならない。
「はじめの100か月の育ちビジョン」は、そのプロセスを再起動するための極めて体系的な設計図であり、未来への羅針盤である。
もちろん、この制度やビジョンを打ち出しただけで、明日から社会が劇的に変わるわけではない。予算配分のあり方、現場の労働環境、公立保育所の統廃合問題、そして何より私たち大人自身のマインドセットの変革など、課題は山積している。
しかし、こどもが自ら問いを立て、失敗を恐れずに挑戦し、他者と協調しながら人生のPDCAを回していけるような力強い社会を取り戻すためには、最初の100か月における「絶対的な安心と豊かな挑戦の循環」を、親だけの個人的な責任にするのではなく、社会全体で引き受けるしか道はない。
様々な異論や困難があろうとも、私たち自身がこの「こどもまんなか」という未完のプロジェクトに当事者として向き合い、地域社会を「みんなの学校」へと成熟させていくこと。
それこそが、次の時代を生きるこどもたちに対する、大人としての唯一の責任の果たし方なのである。
