佐藤ひとし物語 (活動ストーリー)

●名古屋市役所・造園技術者として自費で各地を視察

「市民の力を活かすことが公務員の役割だ!」との思いが湧いてくる

名古屋市役所で公園の管理や工事の設計をする造園技術者として研鑽を積むため、各地の先進的な公園の整備事例を自費で見学していた。その中で、世田谷区・羽根木公園プレーパークで北欧の「冒険あそび場」にルーツをもつ日本初のプレーパーク(*1)を視察。運営主体は地域の父母たちだったが、それに地域の役員や、美大の先生・学生をマッチングするなど裏で支えていた「放し飼い公務員」に出会い裏話を聞き、市民と仕事に対する姿勢と独創的な手法に感染。「市民の力を活かすことが公務員の役割だ!」との思いを強く持つようになった。

*1プレーパーク…自分の責任で自由に遊ぶことをモットーにした遊び場。プレーワーカー(プレーリーダー)が常駐し、地域住民が運営している。

●「子どもの参画」と「住民参加のまちづくりの活動」に参加

子どもの遊びに注目!

名古屋市東区の橦木館(*2)で行われていたIPA japan(子どもの遊ぶ権利のための国際協会日本支部 *3)の定例会に参加するようになった。そこで、2代目代表であった奥田陸子さんや、1991年に「子どもの遊び研究会」を設立した原京子さん、「モンテッソーリ瑞穂子どもの家」を主宰する森下京子さんたちと出会い、子どもの参画とまちづくりの活動に入れ込む。

ハードなまちづくりに物語性を取り入れたい

また、住民参加のワークショップ達人として名をはせていた故・延藤安弘教授(熊本大学工学部→名城大学→千葉大学)と出会い、ハードなまちづくりに物語性を取り入れようと、延藤さんから住民参加のまちづくりを学ぶ。延藤教授を講師として招いて講習会をするなど、仕事の場にもつながりが生きていた。それは、その後の緑区・新海池(にいのみいけ)公園のコミュニティガーデンづくりにもつながる。

*2橦木館…大正末期から昭和初期にかけて陶磁器商・井元為三郎によって建てられた。洋館、和館、茶室、庭園などから構成され、2009年に名古屋市に寄贈されるまでも、まちづくり、子どもづくり等の活動団体が活用してきた。名古屋市が貴重な建築遺産の保存・活用を進めている「文化のみち」(名古屋城から徳川園まで)のきっかけとなったムーブメント。

https://www.shumokukan.city.nagoya.jp

*3 IPA japan(子どもの遊ぶ権利のための国際協会日本支部)…1979年2月に設立。何をどうすれば子どもがのびのびと遊べる社会になるのかを研究し、問題点を指摘、よいと思われることを実践し、普及活動を行う。初代代表は、1979年に世田谷区の羽根木公園に日本初のプレーパークを開いた大村璋子さん。

https://www.ipajapan.org

●演劇的な場づくりチームワークづくり

地域のまちづくりには演劇的なつながりの場づくりが有効

1997年、人業(ひとわざ)劇団「ひらき座」(*4)主催の「創造表現講座」で故・増原彬陽さんらから、演劇的な場づくり・チームワークづくりを学んだ。地域のまちづくりには、演劇的なつながりの場づくりが有効であることを確信する。

お祭りでも一人ひと役のつながりが大事

地元・五之三本田で取り組んできた神社のお祭りも、一人ひと役で同様のつながりの在り方と場づくりであると思っている。

*4 人業劇団「ひらき座」…誕生のきっかけは、1981年〜83年まで名古屋市北青年の家で開講された「演劇講座」。その講師が増原彬陽さんで、1983年の設立後は顧問となった。ひらき座の目的は、様々な表現活動を通して、仲間をつくり、自らを発見して元気になること。スタッフ、キャストを分けず、全団員が舞台に立つことをモットーにしている。

http://www.hirakiza.com

「モンテッソーリ瑞穂子どもの家」主宰 森下京子さん

●公園をフィールドに環境教育をスタート

公園で雑木林の手入れ&環境教育

1994年、千種土木事務所で勤務していた頃のこと。名古屋市美術館のデビッド・ナッシュ(造形作家)企画展に合わせ、雑木林の木を伐って、子どもたちが椅子を作る体験型ワークショップが計画された。その相談を受けたのが雑木林研究会。佐藤は、子どもたちの環境教育として木を伐って雑木林の手入れをし、その材料を生活に生かす意味を学ぶことをセットにする提案をし、木を伐る場所は千種区の茶屋ヶ坂公園としてワークショップを実現させた。

公園をフィールドにして子どもづくり・まちづくり

この成果を活かし、佐藤が調整役となって、千種社会教育センター(現・千種生涯学習センター)と雑木林研究会を結び付けて、同センターの親子講座「森で遊ぼう」の企画・実施に参画した。これが、公園をフィールドに環境教育として子どもづくり・まちづくりを実施するスタートとなった。同時に、市民団体と行政の橋渡しがここから始まったことになる。

●住民主体の森づくり・公園緑地づくりを仕掛ける

マッチングにより住民が主体に!

1996年から勤務していた緑土木事務所では、滝ノ水緑地の住民グループと市民専門家集団でもある雑木林研究会を、水広公園では住民グループと自然観察の専門家をマッチングし、住民参加の講座や森づくり活動を皮切りに、住民主体の公園緑地づくり、森づくり、コミュニティーづくりのきっかけをつくった。

●住民が公園の設計に関わるきっかけづくり

「子ども遊び研究会」に地元役員・まち育て専門家をマッチング

1990年代以前は、公園の樹林地や竹林はだれも利用しない場所として、不法投棄のゴミが捨てられ危険な場所で、緑区の新海池公園も例外ではなかった。その放置された新海池公園の樹林地で原京子さんを代表とする「子どもの遊び研究会」が子どもたちとプレーパークを目指して活動していた。しかし、地元住民からは得体のしれない外部の侵入者とみられていた。そこで、地元の学区区政協力委員長と原さんを引きあわせ、延藤安弘さんのまちづくりを紹介するなどして、新海池コミュニティガーデン公園愛護会を結成し、雑木林研究会の指導の下、竹やぶを手入れし雑木林に変えていく活動を行った。

住民がつくった公園改修案が採用される

新海池コミュニティガーデン公園愛護会の活動が軌道に乗った頃に、新海池公園の整備計画が持ち上がり、現場の係長である佐藤は本庁の公園設計者に公園愛護会の活動実績を訴えた。改修計画はほとんどコンサル案で決まりかけていたが、住民と新海池コミュニティガーデン公園愛護会と子どもの遊び研究会が一体となって1カ月で案をまとめ上げ、模型も作って名古屋市に提出。住民案は採用され、新海池公園は子どもたちのための遊び場として生まれ変わることになった。住民が地元の公園の設計に関わった前代未聞の出来事だった。

日本に入ってきたばかりのまちづくりワークショップの情報等、いろんな情報源が佐藤さんでした。 先進的な公務員でした!

●市民参加による食と農業と健康のネットワークづくり

市民が主体となって市民の手法を伝える講座を運営

2000年、戸田川緑地・農業文化園に異動する。農業文化園で、市民と農業のふれあい施設として子どもたちに農業体験を伝える講座を開催し展示を行っている。広く市民が参加し、子どもたちに自然や農業体験の必要性とその具体的な効果を示すために、佐藤は市民が各地域で具現化している手法を伝えるための公開講座の開催が必要だと考え、「事例に学ぶ 家庭・学校・地域のパートナーシップ~体験を通して学んでいく子どもたち 子どもたちと関わることで学んでいく大人たち~食べもの・農業・健康・自然環境についての原体験の大切さ」を市民が主体となった公開講座運営委員会により実施した。

市民参加の「とうかい食農健サポートクラブ」設立に参画

東海農政局からの要請により、佐藤は市民参加による食と農業と健康に関する新しいグループとして「とうかい食農健サポートクラブの設立に参画し、設立後は個人として会の企画運営に参画した。このネットワークは地元の「弥生小学校PTA自主活動部「地域・あそび・文化部」や「防災キャンプ」に活かされることになる。

●市民と行政の協働の森づくりを全市に展開

対話による行政と市民の協働を進める

1990年代の終わり頃までは、公園管理者と地元の自然保護活動グループの対話が少なく対立的な時代だった。2001年に東山総合公園事務所に異動した佐藤は、これまでの経験を活かし、平和公園愛護会に呼びかけ、共に現地を歩いて課題を共有する定例会を始め、対話による行政と市民の協働を進めた。

課題を共有し解決に向けて議論する場をつくる

その他の東部丘陵地(守山区、名東区、天白区、緑区)で活動する自然環境保全・森づくり系の愛護会でも管理者との対話はまちまちであった。また、各愛護会は、行政との協働の在り方や外来種の移入などの共通の課題を抱えている。そこで、それぞれの課題を共有し解決に向けて議論し共通のルールづくり、スキルアップのための交流を行い、行政と協働して自然環境の保全に取り組む必要性を感じ、東山総合公園事務所の佐藤と平和公園愛護会の瀧川正子会長が他の愛護会と各土木事務所、本庁に呼びかけ、話し合いの場をもち、2003年3月に「なごやの森づくりパートナーシップ連絡会」の設立にこぎつけた。

こうして、市民と行政の協働の森づくり、住民主体の公園づくりが全市に広がっていった。2019年11月現在、なごやの森づくりパートナーシップ連絡会には森づくりや自然観察会、花のまちづくりなどの活動に取り組む31団体が加盟している。

●環伊勢湾のネットワークをつくる

メーリングリストで情報と人の交流の場づくり

それまでの活動を通して、多様な活動をする人に出会い、一つ一つの活動が未来への可能性にあふれていること、異なる分野の人が交流することが無限の可能性を生むことを感じていた。そこで、子どもの原体験と環境保全の活動の連携をする手段として、当時インターネット通信の黎明期として利用できるインターネットメーリングリスト「環伊勢湾原体験 想いと智慧の交感広場」を立ち上げ、様々な情報を交換し、様々な人や組織を結びつけた。

伊勢三河湾流域のネットワークの設立に参画

そして、木曽三川下流の弥富市に生まれ育ったものとして「山・川・里・海」の「産・官・学・民」の連携の必要性を感じ、伊勢三河湾流域のネットワークの設立に参画。地元では木曽川下流河川事務所が仕掛けた「木曽三川 水の郷を育む会」の設立に市民と行政の橋渡しとして参画した。

生物多様性をめぐるネットワークのきっかけづくり

愛知県では2005年開催の「自然の叡智」をテーマにした愛・地球博、2010年開催の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)に向けて、生物多様性に取り組む市民活動団体と行政の双方からイベント、シンポジウム、エクスカーションなどの事業企画運営に連携が求められるようになり、公務員の一部が公私の融合を果たすべく活動し、佐藤も公と私の架け橋として各種のマッチングを活発化させた。特に、COP10に向けては、環境局職員と協力し、地元の市民団体の大同団結を図るために、市役所の会議室に市民団体を呼んで話し合いを主導。その会議は市役所を飛び出し市民主導で継続的に開かれるようになり、生物多様性条約市民ネットワーク(CBD市民ネット)結成へとつながった。

なごやの生物多様性の拠点づくり

名古屋市でも2008年から2010年度にかけて、市内10カ所のため池における生物調査や池干し(*5)が、地元の愛護会など自然環境保全に取り組む市民、専門家、関係する行政機関の協働で行われた。この時生まれたため池調査の実施母体が「名古屋ため池生物多様性保全協議会」だった。

2011年度に入り、この3年間の成果をさらに推進するため、なごやの生物多様性の拠点づくりが始まった。佐藤は環境局の環境企画課に異動となり、生物多様性事業を進めていた環境局職員とともに目標や要望が千差万別な組織や人の協働の場利として新たに「なごや生物多様性保全活動協議会」の立ち上げに尽力し、その拠点となる「なごや生物多様性センター」の設立と運営を担った。

センター勤務中にも4つの池干しを行ったが、その中の一つが千種土木事務所時代に「森で遊ぼう」講座を行った茶屋ヶ坂公園内の茶屋ヶ坂池だった。

*5池干し…ため池が灌漑に使われていた時代、農作業が終わる冬になると、池から水を抜き、1カ月ほど干して、底にたまったヘドロや土砂を取り除いたり、堤防や樋の点検修理を行っていた。このとき捕らえたコイやフナ、モロコなどは冬場のタンパク源として食されていた。近年は、外来生物の駆除を目的とした池干しが注目されている。

佐藤さんには地元で、誰でもいつでも話においでという「場づくり」をしてほしい。土着の人も外から来た人も、若者も年配の人も交流できる場。期待しています。