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今こそ弥富の歴史に学ぶとき!
弥富のまちづくりの歴史
現在、JR・名鉄弥富駅の自由通路と橋上駅舎化についての計画が進んでいます。弥富市長は、この事業を「積年の課題、今こそ解決」と称していますが、その根拠を求めても提示されません。ならば、改めて弥富市のまちづくりの歴史を振り返り、その成功・失敗を踏まえて未来の弥富市のまちづくりを考えてみたいと思います。
弥富市の歩み】農村から都市へ、そして未来への課題
1. 発展の礎(明治〜昭和初期)
■ 東海道「前ヶ須宿」の誕生(1872年) かつてお伊勢参りのルートだった佐屋川が土砂堆積で運行困難に。弥富村の村田宗之助の尽力により、熱田〜前ヶ須の陸路が東海道に指定され、弥富は宿場町として発展しました。
■ 鉄道開通と交通の要所化(1895〜1898年) 関西鉄道(現JR関西本線)と尾西鉄道(現名鉄尾西線)が開通。弥富駅は交通の要所となりました。
■ 木曽三川分流工事と水害対策(1912年完了) デ・レーケによる大規模な治水工事で水害が激減し、居住者が増加しました(ただし高潮・津波への弱さは課題として残りました)。
■ ニッケ弥富工場の設立(1928年) 日本毛織(ニッケ)が進出。全国から優秀な人材が集まり、後の弥富のまちづくりに大きく貢献しました。
2. 賑わいと成熟(昭和中期〜平成初期)
■ 銀座地区の繁栄(昭和30年代) 戦後、ニッケ工場は1,800名の従業員を擁し、その従業員たちで銀座地区や中六地区が賑わいました。
■ 伊勢湾台風と防災(1959年) 甚大な被害を出しましたが、これを機に堤防補強や排水整備が進みました。
■ 人口ピークと都市計画(1970年代〜80年代)
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1970年: 中心市街地を「駅から市役所エリア」に決定(5万人都市構想は縮小)。
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1971〜80年: 転入・出生・若年人口がピークを迎え、教育・保育施設や商業施設が充実しました。
■ 財政のゆとりと福祉充実(1998年〜) クリーンセンター関連の地元対策費(60億円)を活用し、他自治体に先駆けた「中学生医療費無償化」など、手厚い福祉・子育て施策を実現しました。一方で、1997年にニッケ工場が閉鎖し、商業の中心は駅前からイオンタウン(工場跡地)へと移っていきました。
3. 課題と現在(平成後期〜令和)
■ 合併と財政悪化(2006年〜) 弥富市誕生後、合併特例債などを活用して施設整備を進めましたが、体系的な改革は未達成のまま。下水道工事の増額なども重なり、貯金を取り崩して借金を増やす財政構造となりました。
■ 駅整備事業の迷走(2016年〜現在) 前市長時代に表面化した「自由通路・橋上駅舎化」計画。数百億円規模の公共施設更新費が問題となる中で計画が進められました。 現・安藤市長は当初、財政難から事業見直し(中止含め)を模索しましたが、議会の反発(辞職勧告決議)を受け、予算を復活。現在は多額の財政負担(約28億円)と効果への疑問を抱えたまま事業が進んでいます。
【未来への問いかけ】 相次ぐ施設整備で将来へのツケが増大しています。かつて福祉や教育で輝いた弥富市の歴史に学び、市民が本当に幸せに住み続けられるまちとは何か、今こそ再考する時ではないでしょうか。
明治5(1872)年 東海道「前ヶ須宿」の発展
江戸時代の中期頃からお伊勢参りが盛んになり、東方からのルートとして、宮宿(熱田)から桑名宿までの海路「七里の渡し」と並んで陸路・佐屋街道が利用されていました。宮宿から、途中、観光名所であった津島神社に寄って、佐屋宿からは「三里の渡し」となります。ところが、佐屋川の川底に徐々に土砂が堆積し、渡し舟の運行が難しくなってきました。そこで、明治5年、弥富村の村田宗之助が県や政府に働きかけ、熱田から福田、十四山を経て前ヶ須に至る陸路を東海道に指定してもらいました。東海道の宿場となった前ヶ須は発展し、弥富は農村地帯から街へと変貌を遂げたのです。
明治28(1895)年・31(1898)年 関西鉄道・尾西鉄道開通で弥富駅は交通の要所に
明治28年、関西(かんせい)鉄道(現在のJR関西本線)が名古屋駅〜前ヶ須駅(現在の弥富駅)間で開通しました。明治31年には尾西鉄道(現在の名鉄尾西線)が弥富駅〜津島駅間で開通し、弥富駅は交通の要所となりました。
明治45(1912)年 木曽三川分流工事で水害が激減
日本の治水事業に大きな功績を残したオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケにより、明治20年から45年にかけて木曽三川分流工事が行われました。川幅が広がったことで弥富の水害も劇的に改善され、弥富に多くの人が住むようになりました。しかし、上流からの水害は改善されたものの、高潮・津波に対しては弱いままでした。
昭和3(1928)年 ニッケ弥富工場設立で全国から優秀な人材が集まる
木曽川の豊富な水と四日市港からの鉄道を利用するため、昭和3年に日本毛織株式会社(ニッケ)弥富工場が設立され、昭和5年に操業を開始。関西本線弥富駅から工場まで専用線も敷設され、四日市港から羊毛が運ばれました。敷地内には、女子寮(2階には高校も)や男子寮、社宅、病院などがあり、全国から優秀な人材が集められました。これらの従業員の多くは弥富で結婚し、退職後も地域活動に参加するなど、弥富のまちづくりに関わっていくことになります。
昭和30年代 銀座地区がニッケの従業員で賑わう
戦時中軍用工場に転用されていたニッケ弥富工場が紡績工場として復活。昭和30年代初頭には従業員数1,800名を擁しました。
戦後の中心商業地は、中六地区と銀座地区で、特に銀座地区は、ニッケ弥富工場の従業員で賑わいました。
昭和34(1959)年 伊勢湾台風後、水害対策が進む
昭和34年9月にこの地方を伊勢湾台風が襲いましたが、かさ上げされていたニッケ工場に浸水被害はなく、周辺地域の住民が避難してきました。
旧弥富町だけで300人を超える犠牲者を出しましたが、この後、堤防補強整備、排水機整備など対策が進みました。
昭和45(1970)年 中心市街地が駅から市役所のエリアに決定
昭和45年、都市計画法の施行にあわせ、愛知県は弥富町に対して、5万人都市構想として東名阪自動車道までの市街化区域の案を提示しましたが、地元の反対にあい北部を大幅に縮小しました。
近鉄、国鉄、名鉄を橋上駅で結ぶ望む声もありましたが、駅前広場は分離独立した形で都市計画決定し、中心市街地は駅から市役所にかけてのエリアに決定しました。
1970〜80年代 転入・若年人口のピーク、教育・保育施設が充実
昭和46(1971)年に弥富町への転入のピーク、昭和48(1973)年に弥富町の出生数のピーク、昭和55(1980)年に弥富町の若年人口(15歳未満人口)のピークを迎え、教育・保育施設が充実し、商業施設が相次いで開業しました。
昭和53(1978)年、町政アンケートから近鉄駅前整備事業を最優先の課題とし協議会が発足したものの、巨額の事業費に見合う成果が見通せず、川瀬町長時代(1991〜2007)に立ち消えになりました。
平成10(1998)年から10年間 福祉施策、子育て施策充実
平成10年以降、クリーンセンター関連で10年間(60億円)の地元対策費が使えたために、予算にゆとりがあり、福祉施策や子育て施策が充実。他の自治体に先駆けて、中学生までの医療費の無償化を実施しました。国体(なぎなた会場)対応で市役所前の都市計画街路事業、各種道路整備事業を盛んに行うこともできました。
平成9(1997)年にニッケ弥富工場が閉鎖し、平成12(2000)年、跡地にイオンタウンが開業。商店街が衰退していきました。
平成18(2006)年 弥富市誕生、相次ぐ施設整備で貯金を取り崩し、借金を増やす
平成18年に弥富町と十四山村が合併して市に昇格しました。平成19(2007)年には服部彰文市長が就任(〜2018)。合併算定特例で10年間(数十億円)の交付税措置があり、相次いで施設整備を行いましたが、合併の効果を出す体系的長期的な改革は未達成。公共下水道工事の増額や相次ぐ施設整備で貯金を取り崩し、借金を増やしていきました。
さらには、水面化でJR・名鉄弥富駅の自由通路整備を検討。平成28(2016)年に自由通路・橋上駅舎化を施政方針で公表した直後、公共施設の建て替えや大規模改修の将来負担が数百億円かかることが判明し、問題化しました。
平成30(2018)年以降 現・安藤正明市長のもと自由通路・橋上駅舎化事業が進む
安藤市長就任後の幹部会議で、前市長時代の借金の増加や収支の悪化を知らされ、平成31(2019)年の予算編成では、財政状況を勘案して自由通路事業中止も含めて各種予算の削減案を独断で出しました。これに対して議会が強く反発し、「安藤市長の辞職勧告決議」を可決。その後、削減した予算を全面的に復活する修正を行いました。以後、市長と議会の多数とは表面的には同調し、自由通路・橋上駅舎化事業は進んでいます。
服部市長時代以降、相次ぐ施設整備で財政悪化・将来へのツケを増大している中、さらに市の財政負担が28億もかかり、そのまちづくりへの効果も曖昧な事業が進められています。
市民が幸せに住み続けられるまちとはどんなまちなのか。他の自治体に先駆けて教育や福祉施策を充実させてきた弥富市の歴史から学ぶ必要があるのではないでしょうか。
【検証】弥富のまちづくりの歴史と未来
~JR・名鉄弥富駅 自由通路・橋上駅化計画を問う~
現在進められているJR・名鉄弥富駅の自由通路および橋上駅化計画。 弥富市長はこの事業を「積年の課題、今こそ解決」としていますが、その根拠となる資料は提示されていません。 そこで、改めて弥富市のまちづくりの歴史を振り返り、過去の成功と失敗から、この計画の妥当性を検証します。
1. 繁栄の時代と都市計画の変遷(戦後〜1970年)
■ ニッケ工場の操業と賑わい 戦時中に軍用工場となっていた日本毛織(ニッケ)弥富工場が、戦後紡績工場として復活しました。
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昭和30年代初頭: 従業員数1,800名を擁し、敷地内には寮、社宅、高校、病院なども完備。
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商業の中心: 中六地区と銀座地区が栄え、特に銀座地区はニッケ従業員で賑わいました。
■ 「5万人都市構想」の縮小(1970年) 昭和45年(1970年)、都市計画法の施行に合わせ、愛知県は弥富町に対し「5万人都市構想(東名阪道まで市街化)」を提示しました。 しかし、地元の反対により北部の計画は大幅に縮小。駅周辺の整備方針もこの時に決定づけられました。
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駅の構造: 近鉄・国鉄・名鉄を橋上駅で結ぶ案もあったが実現せず、駅前広場は分離独立する形に。
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中心市街地: 駅から市役所にかけてのエリアに決定。
2. チャンスを見逃してきた歴史
現在の計画に対し、市役所に根拠資料を請求しても「保存されていない」との回答でした。検証の結果、以下の問題点が見えてきます。
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計画の不在: 弥富町時代から現在に至るまで、駅整備に関する体系的な検討がなされた形跡が乏しい。
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ピークの逸失: 弥富の成長と財政のピークは昭和55年頃でした。事業を行うならその時がベストタイミングでした。
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現在のリスク: 機を逃した今、新たに巨額の投資を行うことは、成果と回収が見込めず、非論理的と言わざるを得ません。
3. 歴史的経緯のまとめ(1950〜1955年)
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1950年(昭和25年):復興と構想 戦後の復興ブームの中で「3駅(近鉄・国鉄・名鉄)を駅前広場で結ぶ」という意見もありましたが、具体的な計画図は残されていません。消費の中核はニッケ工場でした。
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1955年(昭和30年):町村合併と道路整備 弥富町、鍋田村、市江村東南部が合併。森津・十四山方面からの道路が整備され、南側からのアクセスが向上しました。(※当時、周辺町村には名古屋市からの合併の誘いもありました)

佐藤 博 町長時代 (1971(S46)〜1991(H3))
転入・若年人口のピーク、教育・保育施設が充実
人口急増と市税(固定資産税・住民税)の安定的な増加を背景に教育施設を盛んに整備した。1971(S46)に弥富町への転入のピーク、1973(S48)に弥富町の出生数のピーク、1980(S55)に弥富町の若年人口(15歳未満人口)のピークを迎え、商業施設が相次いで開業した。
一方で、ハードなまちづくりである駅周辺整備は遅々として進まなかった。
<ハードなまちづくりは・・・>
・1978(S53)町政アンケートから、近鉄駅前整備事業を最優先の課題とし協議会が発足
・1979(S54)近鉄駅周辺地区の整備構想を作成し、協議・検討を開始
・1984(S59)駅整備・下水道整備の財源として都市計画税導入の町長提案を議会が否決
・1987(S62)近鉄駅周辺整備の手法として区画整理等の指導を愛知県からうけるが巨額の事業費に見合う成果が見通せず、川瀬町長時代に立ち消えに
・1991(H03)弥富町の要望により近鉄が佐古木駅地下駅舎化・駅前広場(41%負担)
川瀬輝夫 町(2006年から市)長時代 (1991(H3)〜2007(H19))
恵まれた財政状況、福祉施策、他の自治体に先駆けた中学までの医療費の無償化など子育て施策充実
1998(H10)以降、クリーンセンター関連で10年間(60億円)の地元対策費が使えたために、予算にゆとりがあり、福祉施策や子育て施策が充実。国体(なぎなた会場)対応で市役所前の都市計画街路事業、各種道路整備事業を盛んに行うことができた。
1997(H09)に日本毛織株式会社弥富工場が閉鎖し、跡地に2000(H12)イオンタウンが開業。商店街が衰退していく。2006(H18)に弥富町と十四山村が合併して市に昇格した。
<ハードなまちづくりは・・・>
・1992(H04)近鉄弥富駅の橋上駅舎化および駅前広場の暫定整備~1994(H06)
・1997(H09)JR弥富駅改装
・2000(H12)国道155号線バイパス(西中地交差点⇔国道1号線区間)開通
服部彰文 市長時代 (2007(H19)〜2018(H30))
相次ぐ施設整備で貯金を取り崩し、借金を増やした。にもかかわらず弥富駅の自由通路・橋上化を表明
合併算定特例で10年間(数十億円)の交付税措置があり、相次いで施設整備を行うが、合併の効果を出す体系的長期的な改革は未達成。公共下水道工事の増額や相次ぐ施設整備で貯金を取り崩し、借金を増やした。
市民に公表しない中で駅の自由通路整備を検討。2016(H28)に自由通路・橋上化を公表した直後、公共施設の建て替えや大規模改修の将来負担が数百億円かかることが判明し、問題化した。
<水面下で駅の自由通路・橋上化の計画を進める>
・2010(H22)弥富駅周辺整備計画の策定に着手し、2012年に策定するが市民には公表せず
・2012(H24)市庁舎整備を優先して自由通路整備を一時凍結
・2015(H27)市庁舎整備の目途が立ったとして鉄道事業者との協議再開
・2016(H28)自由通路・橋上化を、服部市長が施政方針で表明
安藤正明 市長時代 (2018(H30)〜)
当初は財政状況を勘案し自由通路中止も含めて各種予算を削減、しかし議会の反対にあって修正
就任後の幹部会議で、服部市長時代の貯金の減少借金の増加や収支の悪化を知らされ、2019(H31)の予算編成では、財政状況を勘案して独断による各種予算の削減案を出す。「自由通路事業の事業費負担が将来の財政を圧迫する」ので、自由通路事業中止を前提に予算案を削減した。
これに対して「市の各種事業を十分な根拠や調整・同意もなく削減した」ことに議会が強く反発し、「安藤市長の辞職勧告決議」を可決した。その後、削減した予算を全面的に復活する修正を行った。以後市長と議会の多数とは表面的には同調し、自由通路事業は進んでいる。
<自由通路・橋上化事業の経過>
・2020(R02)3月 事業概要が議会に出される
・2021(R03)3月 鉄道事業者と覚書締結(市長権限、議決は不要)
・同年6月 都市計画事業説明会では、事業費の説明を避ける。市民の質問に具体的な回答はできず。
・2022(R04)3月 鉄道事業者との協定に関して議案可決
服部市長時代以降、相次ぐ施設整備で財政悪化・将来へのツケを増大している中、さらに市の財政負担が28億もかかり、そのまちづくりへの効果も曖昧な事業が進められています。
市民が幸せに住み続けられるまちとはどんなまちなのか。他の自治体に先駆けて教育や福祉施策を充実させてきた弥富市の歴史から学ぶ必要があるのではないでしょうか。
【歴史回顧】戦後弥富の都市開発と商業地の変遷
~昭和35年頃の中六・銀座・駅前地区の賑わい~
戦後の弥富において、商業の中心地は**「中六(なかろく)地区」と「銀座(ぎんざ)地区」**でした。 昭和35年度の商工会会員名簿をもとに、当時の様子を振り返ります。
1. 中六地区:多様な店が軒を連ねるメインストリート
国道から国鉄(現JR)関西本線の踏切に至る、約270メートルの区間です。民家や製材所と混在しながらも、通りの両側には36店舗もの商店が立ち並んでいました。
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食料品店: 青果、鮮魚、精肉、酒、菓子など
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買回品店: 化粧品、衣料品、洋服仕立、時計、電気器具、家具など
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専門店等: 生花、茶、書籍、乳母車、プロパンガス、自転車、美容院
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その他: 近鉄踏切の北西角(正義稲荷の隣)には青果市場もありました。
2. 銀座地区:日本毛織(ニッケ)従業員の台所
国鉄関西本線の踏切から町道日毛気開線に至る、約140メートルの短い区間です。ここには25店舗が密集し、中六地区と同様に多様な業種が揃っていました。 ここは、近隣にあった日本毛織株式会社(ニッケ)弥富工場の従業員にとって、主要な買い物の場として賑わっていました。
3. 線路沿いと金融機関
両地区から国鉄弥富駅前にかけての線路沿いには、物品販売店に加え、地域の金融・通信の拠点がありました。
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弥富郵便局(昭和36年移転)
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東海銀行 弥富支店(昭和44年移転)
4. 国鉄弥富駅前:飲食店と娯楽の街
駅前から国道に至る界隈は、駅前の特性を活かした商店が集積していました(ただし、店舗密度自体はまだ低めでした)。
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特徴: 旅館、飲食店、自転車預かり所が多い。
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飲食店数: 8店舗(中六・銀座地区の2店舗を大きく上回る)。
【娯楽の殿堂:弥富館】 特筆すべきは、近鉄踏切の南側にあった映画館**「弥富館」**です。テレビ普及前の町民にとって、貴重な娯楽施設でした。
日本毛織(ニッケ)との深い関わり 当時のニッケ弥富工場は、午前と午後の二交代勤務制でした。午後勤務の女子従業員にとって午前中は自由時間となるため、会社は映画館と契約を結び、従業員向けに午前中の上映を貸し切っていたといいます。当時の駅周辺が、工場労働者と密接に関わって発展していた様子がうかがえます。

【弥富町 都市開発の歴史】1970年~1991年
~「5万人都市構想」の夢と、車社会化による商業地の移動~
1. 都市計画の岐路(1970年)
■「5万人都市構想」の縮小 1970年(昭和45年)、都市計画法の施行に合わせ、愛知県は「5万人都市構想」として、東名阪自動車道までを市街化区域とする案を提示しました。 しかし、地元(特に北部)の反対にあい、計画は大幅に縮小されました。
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結果: 北部は縮小されましたが、そこに残された都市計画道路は、現在廃止されてしまいました。
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駅周辺: 「近鉄・国鉄・名鉄を橋上駅で結ぶ」という構想もありましたが実現せず、駅前広場は分離独立した形で決定。中心市街地は「駅から市役所にかけてのエリア」とされました。
2. 人口・財政のピーク(佐藤町長時代)
人口急増とバブル経済を背景に、市税(固定資産税・住民税)が安定的に増加。住民一人当たりの住民税額が最も高かった時期であり、この財力を背景に教育施設が盛んに整備されました。
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1971年(S46): 転入数のピーク(2,847人)
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1973年(S48): 出生数のピーク(643人)
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1980年(S55): 若年人口(15歳未満)のピーク(約8,000人)
3. 商業の変遷と「車社会」の到来
商店街からスーパー、そして大型商業施設へと、車社会の進展とともに商業の中心が移動していきました。
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1971年(S46): 銀座商店街北端に共同店舗「弥富ショッピングセンター」開設。
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1974年(S49): 近鉄弥富駅南に「スーパー義津屋」「ヤマナカ」開店。
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1976年(S51): 買物客の66%が自家用車を利用(休日等)。地元商店街に対し「駐車場の確保」が強く要望される。
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1990年(H02): 国道南側に**「ウイングプラザ パディー」開店**。
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弥富駅前ショッピングセンター協同組合(地元商業者約50店)とヨシヅヤ・ヤマナカが核となり、商業の中心が国道南側へシフトしました。
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4. 近鉄駅前整備の「挫折」と「転換」
住民アンケートで最優先課題とされた駅前整備ですが、財源と費用対効果の壁に阻まれました。
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1978年(S53): 町政アンケートで「近鉄駅前整備」が最優先課題に。協議会発足。
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1979年(S54): 整備構想を作成し、協議・検討開始。
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1984年(S59): 駅・下水道整備の財源として町長が提案した**「都市計画税導入」を議会が否決**。
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1987年(S62): 県から区画整理等の指導を受けるも、巨額の事業費に見合う成果が見通せず、川瀬町長時代に計画は立ち消えとなる。
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1991年(H03): 近鉄佐古木駅の地下駅舎化・駅前広場整備(町の要望により近鉄が実施、町負担41%)。

【弥富市の歩み】川瀬町長・服部市長時代
~豊かな財源の活用から、合併後の施設整備と財政課題へ~
1. 川瀬町長 時代(1992年~2007年頃)
【財政背景:ゆとりの時代】 1998年(平成10年)以降、クリーンセンター関連の地元対策費(10年間で60億円)が使用可能に。この豊富な財源を背景に、福祉施策の充実や、国体(なぎなた)開催に向けた道路・都市計画事業を盛んに行いました。
【主な出来事と事業】
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1992~1994年(H04-06):近鉄弥富駅の橋上化・駅前広場整備
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背景: 国体のなぎなた会場決定に加え、通勤通学ラッシュ時の危険なホーム状況(アーバンライナー通過等)を解消するため。
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負担: 町の負担は37%(近鉄との協力)。
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1997年(H09):産業構造の転換
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JR弥富駅改装。
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地域経済を支えた**「日本毛織(ニッケ)弥富工場」が閉鎖**。
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2000年(H12):商業地図の変化
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工場跡地に**「イオンタウン」開業**。
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国道155号線バイパス開通。
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2006年(H18):市制施行
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弥富町と十四山村が合併し、弥富市が誕生。
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2007年(H19):福祉の充実
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恵まれた財政を活かし、他市町村に先駆けて「中学までの医療費無料化」など、子育て世帯に魅力的な施策を実施。
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2. 服部市長 時代(2010年~2017年頃)
【財政背景:合併特例と借金の増加】 合併算定特例による交付税措置(10年間で数十億円)を活用し、施設整備を推進。しかし、重複施設の整理など「体系的な改革」は未達成のまま、下水道工事の増額や相次ぐ整備により、貯金を取り崩し借金を増やす結果となりました。
【JR・名鉄駅整備への動き】
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2010年(H22):計画の着手(非公表)
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弥富駅周辺整備計画の策定に着手(2012年策定だが市民には非公表)。
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2011年(H23):バリアフリー化の検討
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法の新目標(利用者3,000人以上)に対し、JRと名鉄を合算して適用対象として検討開始。
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西踏切周辺の民有地を買収・舗装し、すれ違い困難を改善。
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2012年(H24):一時凍結
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「市庁舎整備」を最優先するため、自由通路整備を一時凍結。
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2015年(H27):協議再開
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市庁舎整備の目途が立ったとして、鉄道事業者との協議を再開。
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2016年(H28):方針表明と新たな課題
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施政方針で「自由通路・橋上化」を表明。
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直後、国の指導により公共施設の更新に数百億円の将来負担がかかることが判明し、財政問題が浮上。
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2017年(H29):調査設計
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JRに委託し、自由通路および橋上駅舎化の調査設計を実施。
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【弥富市の歩み】安藤市長 時代(2019年~2022年)
~財政難による事業見直しの挫折と、なし崩し的な事業推進~
1. 就任直後の対立と「辞職勧告」(2019年)
就任後、前市長時代からの「貯金の減少・借金の増加・収支悪化」という厳しい財政状況を知らされた安藤市長は、改革を試みましたが、議会の猛反発に遭いました。
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2019年(H31):予算削減と議会の反発
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市長の判断: 「自由通路事業は将来の財政を圧迫する」として、事業中止を前提に予算を削減(独断)。
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議会の反応: 「十分な根拠や調整なく削減した」として強く反発。**「安藤市長の辞職勧告決議」**を可決。
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結果: 市長は削減した予算を全面的に復活。以降、市長と議会多数派は表面的には同調する関係となる。
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2. 駅整備事業の進行と「説明不足」(2020年~2021年)
政治的な混乱の後、駅整備事業は具体的な説明や議論が不十分なまま、手続きだけが進んでいきました。
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2019年後半: 近鉄・JR間の地権者(17名)へ「弥富駅周辺地区まちづくり」の説明会を実施。
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2020年(R02): 議会は、事業内容を十分に審査しないまま、見直しを求める請願を不採択とする。
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2021年(R03):手続きの進行
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3月: 鉄道事業者と覚書締結(市長権限のため議決不要)。
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議会で整備効果や将来負担を問われても、具体的な回答はなし。
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6月: 都市計画事業説明会。
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事業費の明言を避ける。市民の質問に対し、具体的な回答はなし。
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7~8月: 区長・区長補助員意見交換会。
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ここでも具体的な回答はなされず。
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秋: 都市計画決定(市長権限、審議会の答申)。
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※審議会委員の選任プロセスが適切であったか、検証の余地あり。
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3. 協定の承認(2022年)
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2022年(R04)3月: JR・名鉄との協定に関する議案が議会で可決される。
【総括】 財政難を理由に一度は事業見直しを掲げたものの、議会との対立を経て方針転換。その後は、事業費や将来負担についての十分な説明(アカウンタビリティ)が果たされないまま、既成事実化するように計画が進められました。



