「学校は安全」という神話が崩れた日。 〜東北の被災地で聞いた「死んでも死にきれない」叫び〜
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頑丈な校舎も、マニュアルも守ってくれなかった:形式的なルールが、逆に逃げ遅れを生んだ悲劇。あなたの地域の学校は大丈夫ですか?
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奇跡を起こしたのは「子どもたち」だった:「てんでんこ(自分の命は自分で守る)」を叩き込まれた中学生が、大人や幼児を引っ張って逃げた事実。
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私たちは「加害者」かもしれない:災害が起きてから批判するのではなく、今、安全な環境を作らない大人は、未来の命を奪う共犯者です。
「みんなでてんでんこ」が、未来の命を救う。 〜こどもたちに託すべき、本当の防災力とは?〜
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「待つ」のではなく「判断する」力を 指示待ちではなく、自分の置かれた状況を判断し、自ら走れる子供を育てましょう。それが釜石の奇跡を生みました。
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学校・家庭・地域、総力戦で 学校任せ、行政任せはもう終わり。地域全体で子供を守る「生きた防災」を築く責任が、私たち大人にはあります。
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東北の声を無駄にしない 「あの一瞬の判断が生死を分けた」。遺族の悲痛な叫びを教訓に、東海地方でも「命を守る行動」を当たり前にしましょう。
🏃 逃げろ!てんでんこ! 🏃
🏫 学校は本当に安全か? 「マニュアル通り」が命取りになることも。
💔 「死んでも死にきれない」 被災地からの遺言。次の犠牲を出さないために。
✨ 子供たちに生きる力を 自ら考え、行動できる子供を、地域みんなで育てよう。
東北視察「伝」報告:教訓と提言
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教訓1:形式主義の危険性
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立派な施設やマニュアルがあっても、現場での臨機応変な判断がなければ機能しない(大川小の悲劇 vs 釜石の奇跡)。
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教訓2:主権者としての責任
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防災を「行政任せ」にする住民意識が、被害を拡大させる。住民こそが安全確保の最終責任者である。
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提言:「みんなでてんでんこ」
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子供も大人も、自らの判断で命を守れる社会へ。家庭・地域・学校が連携し、実践的な防災教育と環境整備を急ぐべきである。
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結論:次の災害で命を守れるかは、今の私たちの行動にかかっている。
2019年 第4回 伝 に参加して 何を持ちかえったか 「みんなでてんでんこ」

第4回伝で東北の方々が、篤い思いでリレーしてくださり、生の声を聴く、1泊2日のあついツアーを終えて、私たちはとても深くて広い課題を持ち帰りました。
学校の防災力を、家庭、地域、学校、行政、防災団体で高め、子どもたちの命を守り、「みんなでてんでんこ」な防災力を身につけ、行動できる子どもたちを育てることによって、みんなでてんでんこな子どもたちに日本の将来を託す、そういう環境をつくる責務が住民にあることを、私たち参加者は、現地に立ち現地の方たちの振り絞る声から受けとったように想いました。
一見頑丈な校舎や公共施設、一見きめ細かく張り巡らされた制度とマニアル、そして優秀な先生たちに守られた学校(以下、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学を含めた学びの場を総合して学校とし、その児童等を子どもと記します)は果たして安全でしょうかが、現状認識として問いかけられました。
地殻変動やプレート型地震、地震や津波の伝わり方、台風・高潮の仕組み、土砂崩れや線状降水帯など様々な気象条件について科学的にメカニズムが防災関係者には普及啓発されていり一方で、学校の現場では様々な教える要素が激増し、学校教育から地学などの自然科学が衰退しているそうです。
実際に災害に遭遇した人間が、どのように行動をとるのか、行動が取れないのか、過去の災害における個人と社会集団の行動も調査研究が進み、貴重な教訓がもたらされていますが、学校教育や学校の施設整備やマニュアル、訓練にどれほど生かされているでしょうか。
今回のツアーでも、津波についての知識と行動訓練が身についてていた中学生が「てんでんこ」に走り出し、保育園や小学生、大人を巻き込んでで、みんなで命が助かった例。
震災直前に、地理不案内な校長が、自らの無知を認め、避難場所を柔軟に設定したおかげで、地元の教員が、地元に伝わる教訓に従い、孤立する屋上でなく、より高い山へ適切な非難を誘導できたこと。
本能的に高いところに逃げた児童を、「規律を乱すと連れ戻し」市役所の広報車や地域の助言がありながら、いたづらに時間と機会を逃し、実態がない形式的な校内マニュアルにとらわれ、尊い命が多数失われてしまった例。これは、現場の責任者ではなく、現場に正しい情報と、方針を伝え、実効性のあるマニュアルと訓練を保障しなった上部組織の責任が指摘されていました。
ここはリアス式海岸では無い平野なのだから津波は大丈夫と、誰も教えてくれなかったのに勝手に思い込んで津波を甘く見ていた地区では、防災訓練で津波では全壊した公民館に避難を漫然と繰り返し芋煮会をしていた自治会。
生き残って教訓を伝える喉から血の出るような振り絞る声で、最後に託されたのは、「この惨状のリアルが、伝わり生かされなかったら、悔やんでも悔やみきれない、あの一瞬の判断と行動が、自分よりも大切な若い未来がある子どもたちの命を奪ってしまったのではないかと苦しむ親たちの姿、遺体確認の日々の身を切るつらさ、震災から月日がたっても、コンクリートの眩いばかりの道路や防潮堤や復興住宅が、震災以前よりも良くしたよと言わんばかりの、見せかけの復興のまちで、やっぱりあの子は帰ってこないつらさ。この教訓が、次の大災害に生かされなかったら亡くなった私の親族や友人子どもたちの死は無駄になってしまうのではないか。死んでも死に切れない。」という声を、みんなで受け取ってきました。
東海地方の子どもが、学校、通学路、家庭で自然災害に遭遇したときに、子どもたちが自ら命を守る行動ができているのでしょうか?学校の先生は適切な判断と行動がとれるのでしょうか?学校の設備や制度、マニアルは命を救うように有効に機能しているのでしょうか?学校を支える教育委員会は日ごろから子どもたちの命を最優先に考え実効性のある動きをしてくれているのでしょうか?
私たち住民も子どもにかかわる組織の一員も、悲劇が起きてしまってから批判をするのではなく、そんな学校に通わせていた、そんな学校のままで放置していた家庭や地域にも尊い命をなくした責任があります。地方自治の原則に還れば、主権であり納税者である住民が調べ、動かし学校の安全を確保する究極の責任者だともいえます。
そもそも、子どもであっても、ちょっとした怪我や体調不良から我が身を命を守るために、何をどう感じ判断し行動する人間に育ってほしと思います。
一人ひとりの子どもが、自分の置かれた状況を各自で判断し行動することがき、そのただしい「てんでんこ」ができる集団が助け合って命を繋いでいきます。
釜石の奇跡は奇跡でも何でもなく、一人ひとりのてんでんこが良い方向に連鎖した必然的な社会的現象といえるのかもしれません。
一人ひとりが名前を持ち、家族と人生の希望が断ち切られた、1万数千人の尊い命の犠牲の教訓から、私たちは地域の住民として、組織の構成員として、次のことを次世代に託したいと思います。
一人ひとりが我が身にふりかかった自然現象、我が身を取り巻く状況を総合的に認識し判断し、自ら行動する子どもに育ってほしい、育つ環境をつくらなければならない。
そこで次回の伝では、学校の防災を家庭・地域・学校の社会全体で捉えて、子どもも大人も高齢者も、「みんなでてんでんこ」に命を助けあう社会を築くことをテーマにできたらいいなと思いました。
具体的な方策としては、
第4回伝の東北での語りの中身の継承と総括
東海地方における家庭・地域・学校における防災の取り組みの共有
子どもたちの育て方を家庭・地域・学校に加え行政や防災団体でどのように育んでいくかの提案
ができたらいいなと思いました。
参加者 佐藤仁志(弥富防災・ゼロの会)





