「希望のまち」プロジェクト、いよいよ着工へ
皆さん、こんばんは。本日はたくさんの皆さんに来ていただき、本当に嬉しい思いです。「希望のまち」のプロジェクトが始まって、もう6年が過ぎようとしています。
当初の予定から様々な要因(円安や物価高など)が重なり遅れが生じましたが、皆さんの応援を受けて今年の1月、いよいよ着工となりました。来年の夏には建物が出来上がります。しかし、街づくりはこれからです。建物が街ではなく、人の集まりが街になります。泣いたり笑ったり悲しんだり、様々なことがその場でなされていく、そんな「人が集まる場所」を作りたいと思っております。
なぜ「希望」なのか? —— 変わることへの信頼
この街を作るにあたり、「なぜ街の名前を『希望』にしたんですか?」とよく聞かれます。
予定地は、特定危険指定暴力団「工藤会」の本部事務所の跡地です。正直なところ、引き受けるかどうか悩みました。当時は通学路や指定からも外され、人が寄り付かない閑散とした空き地でした。しかし、その場所を歩いていた時、ある種の天啓のように「あ、希望のまちや」と降ってきたのです。
あとで考えてみると、私がその時考えた「希望」とは、非常に単純に言うと**「変わる」ということ、つまり「可変性に対する信頼」**でした。
今、多くの人が「もうどうしようもない」「良くはならない」と諦めの境地に入っています。絶対変わらないと思っている人が増えている時代です。あの場所も、かつては多くの住民の方々が諦めの境地に追い込まれた「諦観(ていかん)の地」でした。それでも「希望はある」「変わるんだ」と意地でも言おうという気持ちがあったのだと思います。
「人は変わる」という証明と、立ちはだかる壁
抱樸(ほうぼく)の活動は、この「変わる、諦めない」ということを非常に大事にしてきました。
37年前にホームレス状態の人を支援し始めた時、世間からの反応は「無駄だ」「好きで野宿してるんでしょ」という決めつけと諦めばかりでした。最初は「おにぎり2つ、豚汁、ゆで卵」の3点セットを携えて一人ひとりを訪ねて回りましたが、当事者からも「もうええからほっといてくれ」「どっちみち今年の冬、俺は死ぬから」と拒絶される日々でした。
それでも1年、2年と通い続けると、人はある時ほろっと「もう1回生き直したい」「仕事がしたい」と変わってくるのです。これまでに3,800人が路上から立ち直りました。
しかし、2008年のリーマンショック後、社会復帰のための施設「抱樸館北九州」を建設しようとした際、激しい住民反対運動が起きました。「ホームレスは危険。ここではやるな」と、8ヶ月間で17回もの説明会を開く事態になりました。
限界を感じた私は、野宿を経験し自立した当事者である西原さんと下別府さんに、住民の前で語ってもらうようお願いしました。訥々(とつとつ)とした実体験の言葉は会場に響き、拍手が起きました。しかし、反対運動のリーダーは「こんないい人を選んで連れてきてもダメだ。野宿の奴らはみんなまともじゃねえ」と言い放ったのです。
その時、西原さんが手を挙げ、こう言いました。
「まともじゃないといえば、私こそまともじゃなかったんです。10年以上の野宿をして誰とも交流せず、奥田さんたちがお弁当を持ってきてくれても『せからしい(煩わしい)、帰れ』と言っていたのは私です。他人を信用することもできなくなっていました。
でも、ボランティアの皆さんとの交流の中で私は変わったのです。あなたはそんな私を今『まともな人』と言った。私は元々まともじゃなかったけれど、出会いの中であなたに認められるようなまともな人間になった。人は出会いによって変われるのです。それを信じてもらえませんか?」
この言葉に私はしびれ、涙が出そうになりました。その後も紆余曲折ありましたが、無事に着工にこぎつけ、今ではその施設のレストランに地域の人たちが食事に来てくれています。
変わることへの強迫観念と、「命の価値」
2002年に「ホームレス自立支援法」ができ、行政と連携した自立支援が一気に進みました。「自立達成率9割」という数字を誇らしく掲げ、「人は変わるんだ」と声高に言っていました。
しかし、「変わることにのみ価値を見出す」ことは非常に危険です。分断が始まるからです。
「変わることができた『いいホームレス』」と、「いつまで経っても変わらない『悪いホームレス』」という価値観が生まれ、支援しやすい人ばかりを選んでしまう「いいとこ取り」に陥りかねません。
私たちは、ある時から深く悩むようになりました。
「人は変わる」というのは確かに希望です。しかし一方で、「変わらなくても人は生きている」という現実の価値、今日この時点で命があるということの価値が認められない限り、本当の支援は成り立たないのではないか。
支援という言葉にはトゲがあります。「あなた、そのままじゃダメだよ。変わりなさい」という圧力を生むからです。支援される側もする側も、成果主義の中で疲弊していきます。
だからこそ、相反する2つの価値観——「人は変わりうる(可変性)」と「変わらなくても人は生きている(普遍性)」——を同時に持ち続ける必要があるのです。
強目的的な支援と、弱目的的な「命の家」の両立
当時、私たちは自立を目指す「自立支援センター」と共に、ただ今を生きることを喜べる場所「命の家」を作りたいと構想していましたが、実現には至りませんでした。
あれから20年の時が過ぎました。 今回、「希望のまち」で最終的にその構想を仕上げたいと思っています。
ここには当然、困った時に何とかするための「強目的的」な相談場所があります。でも一方で、別に用事がなくても、何もなくても毎日来ていい「弱目的的」な居場所を作ります。みんなで顔を合わせてお茶を飲み、「なんとかなるような気がするな」と思える場所。それが「命の家」の体現であり、「希望のまち」の構想です。
遠く離れた場所に住む方でも、「希望のまち民(まちみん)登録」をして関わっていただけたら面白いなと市長とも話しています。目的がなくてもいい。時々実家に帰るように来て、一緒に過ごしてお茶を飲む。私はそんな街が作りたいのです。
ご清聴ありがとうございました。
え、皆さんこんばんは。あの、今紹介いただきました(奥田)です。え、今日はたくさんの皆さんに来ていただきました、本当にあの嬉しい思いです。え、希望のまちのプロジェクトが始まってもう6年が過ぎようとしてます。
え、当初はもう2年前に開業してる、え、開かれてるっていうことだったんですが、え、様々な原因が重なりまして、ま、円安とかですね、え、物価高とか様々なことがあって、今年の1月皆さんの応援を受けていよいよ着工ということになりました。来年の夏には建物が出来上がります。え、しかし街づくりはこれからです。え、建物が街ではなくって、え、人の集まりが街になるので、ま、そこをどんな風に、え、人の集まる場所、泣いたり笑ったり悲しんだり、ま、様々なことが、あ、その場でなされていく、ま、そのような場所を作りたいと思っております。え、今日は、え、何よりも、え、ゲストの3人の方々、お忙しい中来ていただきました。え、内田さん、高橋さん、長井さん、え、ずっとですね、一貫して私たちのことを応援してくださってます。ま、正直この3人ゲストおられるんだったら私いらないんじゃないかなと思いながらですね。え、皆さんのもう参加の勢いもすごかったんで、え、さすがだという風に思ってました。
さて、そこで私は今日最初にですね、え、お話しようということなので「希望のまち」っていう街を作ろうということで始まった。 で、なんで希望なんですかってよく聞かれるんですね。なんで街の名前を希望にしたんですか? ま、あんまり考えてなかったんですが、あの予定地ですね。皆さんもご存知の通り、え、北九州には今もですね、特定危険指定暴力団「工藤会」という人たちがいて、ま、その本部事務所の跡地が、え、この希望のまちの予定地となったわけです。
で、正直ね、ま、引き受けるかどうかどうしようかなと。お手紙来たらどうしようかなとね。で、電話かかってきたら「はい。もしもし」って言ったら、「あ、すいません。工藤会ですけど」って言われたらどうしようかなと、え、と思ってたんですけどね。その時に、ま、あの辺りをうろうろと歩いてました。ま、当時はね、え、通学路からも、え、指定からも外されてましたし、ま、あんまり人が寄りつかない、ちょっと閑散としたですね、空き地が続いてるような、ま、そんな場所だったんですね。で、そんな時に、ま、ある意味天啓というか、こう降ってきたんですね。「あ、希望のまちや」ってこう思ったわけです。で、「希望のまち」っていう名前にしました。それは、ま、後で考えるとですね、希望って何なんだろうかと。あの時私考えた希望って何なんだろうか。それはこうですね。非常に単純に言うと「変わる」っていうことですね。これから変わる。ま、可変性と言いましょうか。可変性に対する信頼。ま、なぜかって言うと、多分多くの人が今ちょっと諦めの境地に入ってると思うんですね。もうどうしようもない。ま、良くはならない。どうにもならないという風に思ってる。う、多くの人がもうこれ以上は良くならないし、絶対変わらないと思ってる。ま、そういう人が増えてる時代だった。ま、そこにやっぱそれでも希望はあるっていう風に、ま、意地でもね、言おうというそんな気持ちがどっかにあったんだと思うんですね。
先ほども申し上げた通り、あの場所は特定危険指定暴力団工藤会、ま、かの地はもう諦観の地と言いましょうか。ま、多くの住民の方々も諦めの境地に追い込まれた場所だった。え、私たちこの計画を進める中でですね、住民の方々のお話も聞いてまいりました。ある住民の方こうおっしゃってました。「なんかね、週に1回かに何回か知らないですけども、幹部の人が集まるあの、あれがあるんです。会議がね。そうするとね、もう黒塗りの巨大な車がドーっと来て、で、そっからですね、え、ちょっと強面の人がどんどん降りてくるんですね。で、駐車場がそんなにありませんから周りのねとこにあのどんどんどんどん勝手に駐車するんですって。」
で、私がお話を聞いた方はですね、ま、ちょっとこの人も有名な方でもなくなったんですけども、え、この人もだいぶその筋の感じの人だったんですけどね。え、で、「どうしたんですか?」って言ったらね、「文句言いに行ったんですよ。『お前勝手に俺の家の駐車場に車止めるのやめてくれ』と文句言いに行った。そしたらね、翌日あの入り口のシャッターにね、こんな穴が2つ開いてたちゅうんですよ。」これでどうしたんですかって言うたらね、もうその人、気強い人ですから「行きましたか?」って言ったら、「いや、怖かったからって、警察、警察も行きませんでした」って言ってたんですよ。この人でさえ諦めるんだ。この人でさえ諦めちゃうんだっていうのが衝撃だったんですね。だからこそやっぱりそれでも希望はある。やっぱり変わるんだっていうこと。
抱樸の活動はこの「変わる、諦めない」ということを非常に大事にしてきた活動でした。それはホームレスに対する、ま、世間一般の30年前のその認識ですね。ま、例えばホームレス状態の人を支援したいんだと37年前始めたんですが、もう一斉に返ってきたのは「無駄」。そんなことやっても無駄。野宿してる人なんて好きでやってんでしょね。働くのが嫌だから野宿してんでしょ。そんな奥田さんね、あの、ちょっとやそっとでね、人間はね、そんなん、そんなこと望んでる人が大体いないからやっても無駄だよ。よく言うじゃないですか。「奥田さん3日やったらやめられないってよく言うじゃないですか。まさにそうだ」って言うんですよね。まあ、決めつけと諦めというものが路上生活の方々に対して世間の多くの人が持ってた感覚だったと思う。
で、その中で私たちは最初は「おにぎり2つ、え、それから豚汁、え、ゆで卵」3点セットを携えてですね、1人1人を訪ねて回る。これが37年前に始まったんですね。で、しかしね、やっぱりね、その住民の方っていうか、市民の方々がおっしゃる言葉を当初裏付けるような反応が多かったです。「もうええからほっといてくれ」ね。「どっち道今年の冬俺は死ぬからもうほっとけ」ね。「せからしいね」。これ分かりますかね? 九州の言葉で鬱陶しいね、煩わしいって。その時「せからしか!帰らんね!」とかって言うわけですよ。なんで俺、怒られなきゃいかんのやと思いますよ。じゃ、分かりました。「このお弁当どうしますか?」って言ったら「それは置いとけ」とか言って偉そうなんですよ。「『それは置いとけ』って、要るんかい!」ってね。で、そんな感じですよ。
でもね、それでもね、1年2年3年って行きましたよ。そしたらね、変わってくるんですね。やっぱり人はある時ほろっとね、「ちょっと次のことを考えたいんだけど」っていう話になる。もう1回生き直したい。アパートに入りたい。仕事がしたい。すでに3800人が路上から立ち直り、6割は何らかの形で就労した、職についた人たちでした。ま、一方でそのうちの4割の方々に知的障害があるってことも分かりました。これはもう自立されたからこそ分かったんですけどね。路上からではですね、療育手帳の申請できないですから、あ、自立されたからこそ手帳の申請ができたということです。
2008年のリーマンショックの後、私たちは「抱樸」という名前に団体の名称を変えました。それはそれまではね、「北九州ホームレス支援機構」だったんですよ。分かりやすいでしょ?北九州ホームレス支援。その前はね、「北九州越冬実行委員会」で冬を起こす。私のね、九大の教授はね、先生がね、他の先生にね、「この人知ってるか」って僕のこと紹介してるんですよ。「あの、ほら時々テレビ出てくる南極越冬隊の人よ」。「南極越冬隊の人」って言うから教授がね、「いつ頃行かれてたんですか」って言うからね。「いや、冬場は大体毎週金曜日行ってますね」って言うたら、「その毎週行けるとこですか?」って言うから、「いや、行こうと思えば行けますよ」って言って、向こう南極隊やと思ってるんですよね。最初「実行委員会」、次が「ホームレス支援機構」そして「抱樸」。抱樸っていうのは原木や荒木をそのまま抱き止める。ま、これからの社会のあり方、地域のあり方を名前にしたわけです。
え、リーマンショックの後、やはり私たちは対個々人の支援と共に社会復帰を支援してるって言うけどもね、復帰したい社会ですかっていうのがずっと問いの中にあったわけです。だからもう1回社会や地域を見直そうということで「抱樸館北九州」という最初の施設を建てる。これは建設することになったんですね。私の借金人生もその辺りから始まってるわけです。それまでね、我々の活動をね、温かく見守ってくださっていた地域の方々が豹変します。ま、それまではね、テレビとか出るとね、「奥田さん見たよ。頑張ってね」という声がばっかりだったんですよ。あの、「抱樸館建設」って言った瞬間から住民反対運動ですね。すごい反対になったんです。
で、我々は地域の拠点作ろうとしてるんだから住民反対を押し切ってやるわけにいかない。着工1年遅らせましてね。え、大変でした。まあ対人援助でね、雇用してた人は他の部署でも活躍できたけど困ったのはね、料理長だ。って建物建たないし、レストランないのに料理長だけ雇ってしまったんですよ。来る日も来る日も料理長ずっと椅子に座ってましたよ。本当に大変だった。8ヶ月間で17回説明会開きました。1ヶ月2回、え、8ヶ月17回。「ホームレスは危険。障害者はもっと危険。やるんだったらもっと遠くでやれ。ここではやるな」。13回目の説明会が終わった頃に私はもう限界を感じて、もう支援者の言葉は通じない。これは野宿を経験した当事者の人たちに語ってもらうしかないと思って、え、当事者の方々に、え、お願いをしたんですね。
差別的な言動が、ま、言葉が飛び交う場所。何が起こるか分からない心配だったんですが、もうそれしか手がないってことでお願いしたのが西原信之さんという方と下別府ためさんっていうこの2人でした。西原さんは11年間路上生活をした後自立をして、その頃には地域でもう仕事をして暮らしてる。下別府ためさんは6年の野宿を経験した後地域で仕事をしてた。ま、この2人が引き受けてくれたんですね。
会場は緊張した雰囲気になりました。で、それぞれがね、もう本当に誠実に語られました。すごかったですよ。やっぱりね、私の適当な言葉じゃないんですよ。もう本当にもうなんていうか、実生活って言うのかよくわかんないけど実体験に裏付けられた言葉ですからね。それは訥々(とつとつ)とした言い方だったけども響いたんですね。そしてね、「これで終わります」って言って2人が話し終わったところでね、会場からうわっと拍手が起きたんですよ。僕ね、「あ、終わった。これで長かった反対運動は終わった」と思った途端に反対運動のリーダーの人がね、「はい」って手挙げたんです。なんておっしゃったか。
「あのね、奥田さん、こんなまともな人連れてきてもダメだよ。あんたこれ選んでいい人連れてきたやろ」って。「野宿の奴らはみんなまともじゃねえ」とね。「こんなまともな人連れてきてもだめだよ。話にならん」。言ったら拍手した人までがね途中からね、「そうだそうだ」なったんですよ。「ええ」っつって。そしたら西原さんがもう1回手挙げたんです。「はい」って、「もう1回いいですか」っつって。西原さんね、こう言ったんです。
「すいません。まともじゃないといえば私、私こそまともじゃなかったんです。私はまともじゃなかった。10年以上の野宿をして誰とも交流しませんでした。奥田さんたちがお弁当持ってきてくれても『せからしい帰れ』言うてたのこの人なんですよ。で、『弁当だけ置いてけ』と、この人なんですよ。『せからしか帰れ』言ってました。その後NPOの自立支援住宅に入ってからも3ヶ月間は誰とも話はしませんでした。信用できなかったってんですね。他人を信用することもできなくなっていました。長年の野宿の生活でね。でも理事長はじめNPOの皆さんやボランティアの皆さんとの交流の中で私は変わったのです。あなたはそんな私を今まともな人と言ったじゃないですか。私は元々まともじゃなかった。でも私は出会いの中であなたに認められるようなまともな人間になったんだ。人は出会いによって変われるのです。それを信じてもらえませんか?」って言ったんですよ。
僕はしびれましたね。もう思わず涙が出そうになりましたね。住民の皆さん今日憑かれたようにね、キョトンとしてましたけども、でもやっぱりね、反対の旗は下ろしませんでした。ま、そのままさらに、え、17回目までの説明会をして、もう最後は「すいません。もうこれから先は裁判でも何でも受けて立ちますから、あの、手続きに入ってください」って言っても「着工します」って言って、1年経った後着工にこぎつけた。
それからはね、あの、案外大丈夫でした。あの、諦められたのか。今はうちのレストランに地域の人が食べに来るんですね。最初に反対の旗が立ったんですよ。「建築反対」。秋台風が来て全部飛んだんですよ。うちのね、あのスタッフがね、「天罰ですな」て言ってました。で、私がね、「あかあかん、お前そんなお前台風に助けられてるようじゃこんな運動できないよ」っつって。「あっちもあっちや。反対するんやったら命がけてやってくれ」って、「もう1回ちゃんとね、のぼり作り直すべきだ。こんなことで終わったらなんちゅうけしからん」っていう話をね、言ってませんよ、相手には。内心の中で言ってたんですよ。そしたら次の旗立ったんですよ。
そこにはね、「建築絶対反対」じゃなくてね、「取り戻そう。安心の町を」だったんですよ。これは私激怒してね、「いけません」って。「取り戻そうって。これもう事実何が失われたんですか? 何を取り戻すんですか? 一体何がこれによって起こったんですか? それ言わない限りこれはもう差別だ。それを見てる子供たちはそういう風な気持ちになっちゃう。やめてください」ちゅうた。これはね、取り下げたんです。そして3つ目の旗が立ったんですよね。「みんなで作ろう楽しい街を」。言っても何でもええわ。そうやったらもう僕もその旗見ながら「賛成!」って言う。あのね、なかなか難しかった。でもね悔しかった。怒った私はもうその日はね朝方まで西原さんと下別府さんとね、飲んでました。
2024年、日本財団が実施した18歳意識調査ってのあります。国や社会に対する意識っていうのね、自分の国の将来、自国の将来について「良くなる」と答えた日本の若者は何%だったでしょうか? ちなみに中国は85%、インドは78.3%、韓国は41.4%、アメリカ26.3%、イギリス24.6%、日本は15.3%。この国はこの先良くなると答えた日本の18歳は15.3%しかいないってことですね。なんとなく諦めてる。もう良くはならない。私はそれでもね、西原さんのあの時言った……実は西原さん数ヶ月前に亡くなったんです。私はお葬式もしました。希望のまちの完成を見ないで西原さんは逝った。
私はね、西原さんが「私がまともじゃなかったんだ。こんな私をあなたはまともな人間だって今言った。人は変われるんだ。それを信じて欲しいんだ。」私は今の世の中、18歳の方々にも含めて、それをもう1回信じませんか? 「なんとかなる」と思える社会作りませんか? 「なんとかなる」ってのも味噌なんですよ。「なんとかする」って書いてないところがこれ味噌なんですよ。「なんとかする」って書いちゃったらね、「どうしてくれるんですか」って言われるじゃないですか。「なんとかなる」っていうのは俺は信じてるっていう意味だけなんですね。だけど俺は信じてる、だけど1人じゃ信じてダメなんですよ。私がいる、あなたがいる。最低他者性というものがないとこの希望というのは信じられない。私が信じてる希望は可変性への信頼だ。変わるっていうことを僕らそれでも信じようと思う。
でももう1つだけ言わしてください。希望を考える時に「人は変わる」とだけ言っちゃうと危険。危ないってことですね。やっぱ一方で絶対的に変わらないものや、変わらなくてもいいもの、そういうものが世の中にはある。支援という言葉は、私は支援という言葉の中にはトゲがあると思う。支援ってやっぱ困ってる人を助けるって意味ではとってもいいんだけども、でもね、支援する人とされる人との間に生まれるのはどういうことかと言うと、「あなたそのままじゃダメだよ。変わりなさい」っていうこの圧ですよ。言われた方は言われた方で変わらなきゃならない。1刻も早くね、支援期間は6ヶ月と決まっている。支援終結の前に就職しないといけない。この圧がかかる。支援者は支援者でこの人を半年で変えなければならない。この圧がかかる。支援者も病気になってる。可変性と伴にね、私は普遍性というものもこの希望の土台には必要だという風に思うんです。
2002年に、今から23年前ですが、ホームレス自立支援法という法律ができました。これ私たち頑張って国会に上程運動して全会一致で議員立法でできた法律です。で、ようやく国がホームレスの実態調査をした。当時2万5000人以上のホームレスが全国にいることが分かりました。そして様々な施策が打たれるようになりました。その2年後、法律ができた2年後、ついに動かなかった北九州市。私、北九州市とは長年ね、もうずっと対立してたんですよ。野宿の人50人ぐらい引き連れてね、メガホン持ってね、「殺人行政出てこい!」っつってやってたんですよ。うん。市庁舎突入しとったんですよ。ご安心ください。今年の8月、北九州市の方からね、「連携協定結んでください」って調印したんですよね。やっと分かったかってね。いやいや、あのね、そんなことないです。もう20年前からね、この法律ができて北九州市とチームを組んだ。
2004年に「ホームレス自立支援センター」っていうのが、あの、行政が作って民間が運営するっていう公設民営型っていう施設ができた。で、ここで私たちはついに本領発揮でホームレスの自立支援をすごいいいスピードでどんどんどんどんやり始めるんですね。支援が始まると多くの方々が非常に見事にと言いますか、え、自立されていきました。ホームレスからの自立は可能だね。行政に対しても世間に対しても諦めていたその人たちに対して、「ほら見てごらん。みんなこんなことで甘んじてたわけじゃない。やっぱ次の道のチャンスがあればそれぞれ歩んでいく。人は変わるんだ」と私たちは声高に言い始めた。「人は変わる。人は変わるんだ」ってやり始めた。
私たちの当時の資料には「自立達成率9割、就労自立率6割、自立継続率9割」という言葉が踊ってました。それを私たちは誇らしくやってました。自立するということは変わるということで、しかしここにのみ価値を見い出すっていうことはとっても危険。分断が始まります。自立できたね、いわゆる変わることができたね、いいホームレスと、いつまで経っても変わらない悪いホームレスっていう、こういう価値観が生まれるんですね。そうするとね、もっと面倒なことになる。見ててね、自立できそうな人とこしか行かなくなる。これはどうしてもめんどくさい。「難しいな、このおっさんは」っていうおっさんとこには、この時点だったら西原さんはもう諦めてたかもしれない。我々は11年間ですよ。「せからしか帰れ」言うて。「後回しこの人は、さっきあっちの人行きましょう」てこうなる。こういうのはクリームスキミングね、いいとこ取りですね、を図るんだったらそれでもいいかもしれない。しかしそれの根っこにあるのは「変わるっていうことが無条件にいいことだ、変わるということが絶対的に価値があるんだ」ってこの感覚を私たちは2004年の時点で飲み込まれたんですね。
で、「これいかんのやないか」って。だんだんだんだんそういう可能性のある人のとこしか出会いに行かなくなってないか。これ難しい人のとこ避けて通ってないか。俺たちは「人は変わる」っていうのは確かにね、希望なんだけども、一方で「変わらなくても人は生きている」っていう現実の価値。今日今この時点で命があるってことの価値。その価値がまず認められない限り自立の支援なんてものは成り立たないんじゃないか。変わらなくても人は生きる。「人は変わる」っていう価値観と「変わらなくても人は生きる」っていうこの相反する価値観を同時的に我々は持たない限り、希望というものには到達しないんじゃないかと。そのことを深く考えさせられたのがあの時期でした。
変わることを諦めない。これは大事です。これはまさに希望だ。しかし一方で、変わることがその時できなくても、生きていることに希望がある。そう私たちは言い切りたい。この活動の分断をどうやってなくすか。効率主義や成果主義に陥っていくね。変わった人、いち早く変わった人に意味がある自立達成率や成果主義ですよね。で、そんなものでよければ抱樸はもうしません。そうなったら今の社会がどこでもやってることなんだから、そうやってもらったらいいじゃないですか。抱樸が抱樸であり続けるにはやっぱりこの矛盾する2つのテーマ、「人は変わりうる」っていうのと「変わらなくても人は生きている」っていうこの2つのものに股裂き状態になりながら活動を続けていく。この2つのものにどっちにも乗っからない。もう「変わらなくても生きてるからいいですよね」って言ってしまったら本当に次の希望は生まれないけど、「変わること」だけを見てしまったら、その時がまだ来てない人を認めるわけにもいかない。
私たちは2004年の自立支援センター、名前からしてすごいですよね。「ホームレス自立支援センター」。で、これをやりながら成果がどんどんどんどんで出て、当時「プロフェッショナル」という番組がその後私たちを取材して、奇跡のホームレス自立のその奇跡が起きてるのが北九州だってすごい取り上げ方したんですね。ますます私はあの、苦しくなったんです。NHKにも言ったんです。テーマ2つだ。1つはね、あのNHKプロフェッショナル見てくださいね。もう見れないかもしれないけどね。その時奥田は言った。テロップで「人は変わる。人はいつか変わる」。で、僕NHKに言ったんですよ。もう1個あるんや、テーマ。「変わらなくても人は生きる」ってこれ出してくれって言ったらね、「初めてホームレス支援なんか見る人がその2つの矛盾するテーマ言ったらわけわかんなくなるから、奥田さん、今回は『人はいつか変わる』だけです」っていう風に言われたけど、当時僕らもうすでに悩みの中にあったんですね。
自立支援センターと共に私たちは実は「命の家」っていう構想を持ちました。命の家は自立を目的とした自立支援センターと、もう1つ命をテーマにした家を作る。命をテーマにした場所を作ろう。これが「命の家」構想でありました。変わらなくても人は生きる。今日生きてることを喜べる。その場所。それが命の家。今を生きる。辛い状態にある人がこの1日を生きるために過ごす場所。どうしても自立、自立の支援になると計画を立てて「半年後のあなた、1年後のあなたを一緒に考えましょうね」って時が先に行くんですね。でもややもすると半年後がテーマになってて、目の前にいるこの人はなんか仮の姿みたいになっちゃうんですね。今ここで喜ぶからこそ半年後のあなたがいるんだっていうこの2つのことを同時にする。
やっぱりどうしても自立支援センターと共に命の家が必要なんだ。自立支援という強目的的な、はっきりとした強い目的を持ったシステムと、命という非常に普遍的、そのテーマを持った弱目的的な場所が必要なんだ。強目的的な自立支援センターあるいは相談事業所。一方で命の家というこの弱目的的、目的が弱い、でもそこにだからこそ誰でもおれる。そこにおるだけでオッケーだっていうその場所を作ろう。これが命の家構想でした。訪れた人には温かいお茶を出そう。お菓子もあればいい。食材が手に入れば料理ができるようなスペースがあってもいい。何よりもお風呂が欲しい。さっぱりして、その日はシャワーだけでもいいけども、さっぱりして着替えもして、帰る時には散髪が得意な人が来て散髪もしてもらえる。でも明日じゃないんだ。今日なんだ。今日ここで出会ってる。この意味を私たちは分かち合う。それが命の家だ。
残念ながら2004年5年6年悩みに悩んだけど命の家は完成しませんでした。あれから20年の時が過ぎました。この間私たちは炊き出しの場所で、炊き出しが終わった後「星空カフェ」って言ってね、実は炊き出しの場所でカフェやってんです。そこはもうね、支援する人もされる人もない。みんなでお茶飲んでコーヒー飲んで。お金払える人は100円払ってくれ。払えない人はタダでいいですよ。お菓子食べながらね、みんなで過ごす。これが炊き出しの風景にその後なりました。これは命の家の、まあなんていうかな、悔しかった分、ま、星空カフェってのが始まった。
さあ、そこで私たちは、私はあの時の問い、あの時の悩み、あの時の苦しさ、それを今回「希望のまち」で最終的には1つ仕上げたい。ここには強目的的な場所が当然ある。困ったら来たらいい。どんな形であれなんとかするね。まさになんとかしようとする。でも一方で、別に用事がなくても来ていいんじゃないですか。別に何もなくても毎日来たらいいんじゃないですか。そこでみんなが顔を合わせてお互いに「なんとかなるような気がするな」ぐらいの話でいいんじゃないですか。これが希望のまち構想です。
皆さん是非この希望のまち、いろんな相談事業所、制度もあるし法律もできてる生活困窮者自立支援制度、これ私も審議会で関わってます。 いろんな生活保護の制度、色々制度もある一方で、本当に弱目的的な居場所、それが私はやっぱ希望の根底になければならないという風に今本当に強く思ってるんです。もうすぐ完成します。是非このある意味自立支援というか強目的的な機能を持ちつつもですね、命の家が体現する、命の家がここで生まれようとしてる。このことを是非一緒にこの街づくりに参加していただきたい。え、私は心からそう願っています。
え、遠く離れた場所で、北九州でそんなことやっても日頃関係ないわなという方もおられるかもしれませんが、私ね、こないだ市長に言ったんですよ。連携協定の時に「希望のまち民(まちみん)登録っていうのを勝手にやっていいですか」っつって。「それはどういう意味ですか」って言うから、「いや希望のまちに住民登録する人が全国にね10万人ぐらいいたら面白いじゃないですか」って言ったら「面白いね」って言ってましたね、市長は。いいんじゃないですかね。時々実家に帰ってきてください。目的はなくてもいいです。一緒に過ごしてお茶飲むだけね。ゆっくりしたらそれでいいと思います。私はそんな街が作りたい。それが今日私が皆さんに申し上げたかったことです。ご清聴ありがとうございました。(拍手)
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