名作『生きる』が突きつける「変わらない組織」への問い——私たちが笑って振り返れる日は来るのか
■ 歳を重ねて見えてくる「新しい景色」 先日、偶然テレビで放送されていた黒澤明監督の映画『生きる』を通しで見てしまいました。若い頃から何度も見てきたはずの作品ですが、市役所を退職し、ある程度年齢を重ねた今の自分の視点で見ると、全く違う感情が湧き上がってくることに驚かされます。
■ お通夜の席で浮き彫りになる「組織の病理」 物語の後半、主人公の市民課長・渡辺勘治のお通夜のシーンです。幹部たちが体裁を取り繕って帰った後、残された職員たちの間で本音の議論が始まります。 渡辺課長がなぜあんなに人が変わったように小公園の建設に執念を燃やしたのか。なぜ他の課の露骨な嫌がらせや、助役からの圧力にも屈せず、ひたすら頭を下げ続けたのか。 彼らが真相(渡辺課長が胃がんで余命わずかだったこと)に気づき、大きな組織が持つ「縦割りの弊害」や「個人をヒーローにしない体質」を痛感して涙する場面です。
■ 最も恐ろしいラストシーン 通夜の席で、残された職員たちは「俺たちも変わろう」「渡辺さんの無念を晴らそう」と固く誓い合います。しかし、この映画の真の凄みは、その直後のラストシーンにあります。 日常に戻った市役所の市民課。陳情に訪れた市民に対し、職員は冷淡に「それは土木課の管轄です」と言い放ちます。結局、渡辺課長があれほど身を挺して示した熱意は組織の壁を打ち破れず、元の「事勿れ主義」の縦割りに戻ってしまっているのです。
■ 「悲しい現実」を越えて このラストシーンを見るたびに、私は現代社会に思いを馳せます。役所に限らず、日本の多くの大きな組織において、この縦割りやセクショナリズムは本当に克服されたのでしょうか。 若い頃から、「こんな理不尽な時代もあったよね」と笑ってこの映画を見られる日が早く来てほしいと願っていました。しかし、残念ながらまだ「まだまだですね」と言わざるを得ない悲しい現実がそこにはあります。
渡辺課長が雪の降る公園のブランコで『ゴンドラの唄』を歌う姿は、私たちに「限られた命をどう生きるか」だけでなく、「組織の中でどう生きるか」を今も問い続けています。 いつかこの映画を「完全な過去のフィクション」として笑える時代が来ることを、切に願ってやみません。
