Ed Café(エドカフェ) 第18回:テーマ 自律した子どもが育つ場づくり
テーマ:「自立した子どもが育つ場づくり」
木村先生は、現在の教育現場でブームのようになっている「自立」という言葉の捉え方に警鐘を鳴らし、真に子どもの命と学びを守るための具体的な視点を提供しています。
1. 真の「自立」とは「適切に依存し合えること」
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誤った自立の定義: 「大人の指示通りに動く」「人に迷惑をかけない」「自分のことは自分でする」ことを自立と定義すると、子どもはプレッシャーで苦しみ、居場所を失ってしまう。
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真の自立: 困ったときに「助けて」とSOSを出せること。そして、お互いが「適切に依存し合える関係性」を築けること。
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大人の自立が先決: 子どもに自立を求める前に、まず教員(大人)自身が自立しているかが問われる。教員同士が「自分で頑張らなきゃ」と抱え込むのではなく、「ここができないから助けて」と弱みを吐き出し、互いの力を活用し合える職場環境(大人の自立)が不可欠である。
2. 「受け入れる」という言葉の危うさと「対等な学び」
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「受け入れる」は上からの言葉: インクルーシブ教育などでよく使われる「受け入れる」という言葉は、マジョリティ(元々ある集団)がマイノリティを「入れてあげる」という構造であり、決して対等ではない。
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「受け入れない」恐怖: 「受け入れる」の裏には「受け入れない(排除する)」という選択肢が成立してしまうため、マイノリティ側には「いつか受け入れてもらえなくなるのではないか」という不安が常につきまとう。
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違いから「学ぶ」: 「自分たちと違う子を受け入れる」のではなく、「自分と違っているこの子から自分は何を学ぶか」という視点を持つことが、対等な関係性と真の共生社会につながる。
3. 「子どもを育てる」から「子どもが育つ」へ(主語の転換)
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主語は子ども: 「私が子どもを育てる」という大人が主語の考え方を捨て、「子どもが育つ」という子ども主語の視点に立つことが重要。
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機関車のメタファー: 授業を機関車に例えた場合、運転手は「子ども」であり、教員は一生懸命「石炭をくべる人(サポート役)」であるべき。教員が先回りして運転手になってしまうと、子どもはお客さんになってしまう。
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児童理解の限界: 1人の教員が子どもの全てを「理解する」ことなど不可能である。分かったつもりになることが一番危険であり、子どもを焦らせる原因になる。「どうしたらいい?」は子ども自身に教えてもらうしかない。
4. チームで子どもを見守る(360度の視点)
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ピンではなくチームで: 1人の教員の価値観や経験値(ノミの脳みそ程度)で子どもを導こうとするのは危険。
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360度の視点: 教員だけでなく、地域の人々も含めた「多様な大人」が連携し、360度から1人の子どもを見守り、気づいた人がサポートに入る「チーム力」こそが、子どもが安心できる場づくりとなる。
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常に迷い、やり直す: 教員は「これでいいんかな」と常に迷い、人の力を借りるのが正解。失敗や間違いがあれば、職員室でオープンにして「やり直し」をすることが、風通しの良い組織を作る。
5. 自立を阻む「決まり」と、魔法の言葉「どう思う?」
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決まりが自立を奪う: 「右側を歩く」「給食の三角食べ」など、学校特有の「決まり」や「一律」を求めるルールが、子どもが自分で考え、他者と折り合いをつける(自立する)機会を奪っている。
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「どう思う?」の力: 先回りして「ああしなさい、こうしなさい」と指示するのではなく、「あなたはどう思う?」「みんなはどう思う?」と問いかけることが、子どもにハンドルを握らせ、自分で決定していく力を育む魔法の言葉である。
まとめ 木村先生のメッセージの核心は、**「大人がコントロールを手放し、子どもを一人の人間として対等に尊重すること」**にあります。「教え導く」という従来の教師像から降りて、子どもと共に迷い、共に学び、他者に適切に頼ることができる姿を見せることこそが、予測不可能な未来を生き抜く「子どもの自立」を促す最大の環境づくりであると結論づけられます。
以下文字起こし(誤変換あり)
教育研修センターの吉田と申します。 はい、今日は久しぶりすぎて、今しゃべりながらなんとなくカフェの脳みそになってきました。はい、出番だと思って(笑)。 えっとですね、あの「自立」ということで、実は「立つ方の自立」と「律する方の自律」の違いを、中学校の家庭科で実は勉強するんですよ。子どもの成長ということで、その中でやってるんですね。
で、中学生の子たちに、じゃあ自ら立つ方は、自分のことは自分でするっていうのはいつぐらいまでにできてたかなぁって言うと、「トイレとかいろんなことができるのは、まあ小学生ぐらいまでにはできてたかな」とかって言うんですね。 「じゃあ自分の気持ちとか感情をコントロールしたりとか、その行動で表したりとかっていうのは今どうかなぁ?」って言うと、中学生の子たちは「できてないと思う」って、みんながみんなこう首を横に振るんですよ。「じゃあいつまでに出来てたい?」って聞くと、「うーん、大人になるまで」って言うんですね。 「大人っていつよ?」って言うと、みんな無限ループに飛び込んでしまうんですけど。
なんかその中で、ちょっと私は常に感じていたのは、私実は中学校の担任がかなり多いんですね。で、なぜか不思議な現象があって、中学校2年生の秋になると学級の中でケンカが減るんですよ。 なんですよね。うーん、私が自分なりに思っていることがその相手と違って、すごくそれまでは許せないんですよね。「どうして誰々ちゃんこんなことするの?」とか「絶対許せない」とか。なんか許せないっていう気持ちがすごくあって、相手のことを知ろうとするんだけれども、その中で自分なんか嫌な思いが渦巻いてしまうとかってなってたんですね。 なぜかその秋を超えると、相手のことを知った上で「自分自身のあり方」を知るっていうか、「自分はどうありたいか」とかいろんな考えが渦巻いているなっていう気がします。
なんか私の中でのその自律っていう中で、ええと、一人じゃこの「律する方の自律」って育っていかないんじゃないかなって実は私は思っています。やっぱり仲間の力であったり、友達の力、あとやっぱり集団の力。その中でやっぱり自分が成長していくっていうところに、私あるような気がしていますので。 今日はなんかこう、中二の秋になぜかみんながうまく重なり合っていくというか、あの秘密がちょっと解き明かせたらいいかなって私自身は思っています。はい、以上です。
泰子さんいかがでしょうか。
はい、皆さんこんにちは。泰子です。さあ、あの、久しぶりでなんかみんなの顔を見てホッとしている今なんですけど。 えっと、自立って反対の言葉を言えば「大人の指示通り動く子ども」。大人の指示通り動く子どもを自立とは言わないですよね。
で、自立っていうこの2文字が今すごくブームになって、教育現場に子どもの自立を、自立をって。この自立っていう言葉を大人が解釈を間違えると、子ども達ってとても苦しくなるなって反対に思うんですね。
例えば「人に迷惑をかけたらあかん」「自分のことは自分でしましょう」なんて、これを自立やなぁと思ってたら大間違いやと思うんですよ。
今吉田さんが「中2の後半からなんかみんながこうつながりあって、納得しあって」って言ったんですよね。
それが自立やと思うんですね。
まさに自立っていうのは、お互いにお互いが適切に依存し合うこと。
適切に依存し合える。「ねぇ助けてよ」って言ったら「まあOK、ちょっと無理やから先生呼んでこか。
いけるか?大丈夫か?」って。
反対に友達に「あの子困ってんねん、助けてくれやん?」って言われたら「OK」って。
「あ、じゃあこれさ、あいつ呼んでこ、もっと助けてもらえるわ」って。
こういう力が自立する力じゃないですか。
最終的にって言い方すごく変な言い方ですけど、今、なんか子どもが残念ながら命を落としてしまったりとか、自尊感情をズタズタにしてしまったりとか、それって「一人で自立して、一人で人に迷惑をかけないで生きて行きなさい」みたいなプレッシャーが子どもの首を絞め始めると、なんか今この自立っていう言葉がとても大きく水面上に浮かび上がってきている。
当然なんか自分の考えを持って、自分が判断して自分が行動するなんていうのは本当あたりまえ。
あたりまえに、その子が自分の思いを言って、思う通り行動して、うまくできへんかったら「やり直しや」ってやり直しをする。
これって、これを自立って言ってしまうと、なんかとても薄っぺらい自立やなと思うんですね。
困った時に「助けて」って、お互いがお互いに、友達同士、人同士が依存し合える力。
これを自立っていう言葉として。
私たちはそういう子ども同士の1人の子どもの姿を自立っていうのではなくて、子ども同士のそういう事実が見えた時に「あっ、自立できてるよね」って。
そんなふうに思いたいなーって思いながら聞いてました。
ありがとうございます。えっと、今の泰子さんと吉田さんから、集団の中で他者と依存しながら育っていくか、とか、適切に依存し合えるっていう言葉が出てきました。
あと一方で、あのまあ自分であきらめずにチャレンジしたりとか、やり直しをしながらっていうところとか、あと自分でまあ決めていくというような言葉もあったかなと思います。
さらに、じゃあ自分は自立、教師としての自分が自立しているのか、みたいなところも上がってきたと思いますが。
今のセッションでそこら辺の考えを受けて、皆さん何か刺激されたところとかありますかね。
はい。あの、まあ今の問いにまっすぐな答えになるかどうか分からないですけど、自分のクラス思い浮かべて、その「依存」っていうところを見たときに。
今年まあクラス・学年の取り組みとして、平均点なんかは伝えないようにしよう、低学年でもやってて。
子どもやっぱり点数でどうこうじゃなくって「比べない」っていうことをやっていこうなんて言って、やっぱりそれをずっと続けてきて感じるのは、すごく子どもたちやっぱりお互いに教え合ったり、答え確認し合ったり。 あと今日も宿題なんかでも「昨日の宿題の答えこれどうだったの?」なんてやり取りをしていて。なんかすごく、そういうちょっとした一つの担任としての意識を一つ変えるだけでも全然子どもたちって自然に学び合うし。
で、その中に子どもたちって優劣なんか全然つけてないんですよね。分からなかったら手を差し伸べればいいし、できそうだったら「自分でやってごらん」って声かけたり。なんかそういうのが自然にできている姿を子どもから実際見させてもらって、自分もすごく学ぶところがたくさんあるなぁって、今の話を聞いてて感じました。
なんか梅田さん、今日めちゃかっこいいですね、声。(笑)
本当ですか?(笑)
なんか野球中継のアナウンサーみたいな声がしません?実況中継してる、絶叫実況してる感じで。かっこいいなと思って。ありがとうございます。
なんか朝まで体育の授業をやっていて、飛び込んで戻ってきて着替えて、はい、今なんか爆発してて抑えてます。
あの、えっとね。自立させなアカンと思うと「自分で考えて自分で行動しろー」って言うのはすごい簡単やねんけど。その「自分で考えて自分で行動しい」っていう大人のこの言葉は、受け皿をちゃんと持ってるかっていうことですよね。 失敗した時に「助け求めや、いつでも行くで」って。失敗してもセカンドチャンス、サードチャンスあるから「やり直ししや、大丈夫だからね」って。その受け皿があって、「自分で考えて自分で判断して自分で行動しい」っていうのは、愛があるんやと思うんですけど。
「自分で考えて行動しろ」のプラスアルファとしてね、どこかに「人に頼るな」とか「迷惑かけるな」とか「しっかりしろ」とか、そういうプラスアルファが付いてないですか?これ、自立と放任の違いみたいなところは確かに感じて。プラスアルファがなくて勝手にやってるだとなんかだいぶ意味合いが変わってくるのかなって思ったりはしたんですけれども。 なんかそこをちょっと「場づくり」の方に入ってくるかなと思ってちょっと喋るの遠慮してたと思ったんですが。なんか皆さんも何かあればお願いします。
はい。あの、今自分がこう「自立」っていうと自分の中の問題ってイメージがあったので、吉田さんとか靖子さんが言ってた他者との関わりっていうところが入ってきて。なるほど、それがないとやっぱり自立っていうのは本当に見えてこないんだな、とか思ったりは今し始めて。 そんな中でさっき自分が言ってた「あの子のことをまあ自分でこういろいろ考えながら振り返りながら決定していく」っていうところも、なんかそういう他者との関わりがなかったら単なる自分勝手で終わってしまうのかなとか思ったりもして。もう今「自分勝手」っていう言葉が出てきてしまったんですけども。 なんかそうならないように、やっぱり他者との関わりとか、クラスの仲間との助け合いとか、そういうふうなところがだんだん出てきて、中学2年生でその自分勝手もなくなり、なんかね、集団としてでなくてもその子ども自身がこう自立できてくるのかなっていうのは今思ったところです。
なんか自分が思った自立ってちょっと狭かったのかなっていうのは感じたところです。はい。
深いです、これ。
あの、篠崎さんが言ってくれたようにね。自立って今、私たちもそうやけど、例えばちっちゃな教室で自分が授業してる、目の前にいる子どもたち。その目の前にいる子どもたちの姿を想像して「自立とはなんぞや」って考えていることないですか。 でも自立がなぜ必要かっていうのは、今じゃないわけですよ。「今」目の前に先生がおるやろうし、学校という本来安全基地が学校やから、守られているところで子どもたちは動いてるでしょ。 でも今この自立がなぜ大事かってクローズアップされてきたのは、今目の前にいる子どもたちが10年後20年後、大人になった時に、この自立が生きて働く力につながらなかったらあかんやんか。
その10年後20年後の社会を想定して、私たちがね、想定して、そこで必要な自立って目の前の子どもたちにどんなふうに伝えていけばいいだろうかみたいに考えることが、自立を考える入り口になるんちゃうかなって。 じゃあ10年後20年後の社会って、一言で言うのは「予測困難の社会」やろう?いつ何が起こるかわからへん。パンデミックどころか、いつ何が起こるかわからへん社会で自分らしく生き抜くために「自立」、この力を今学校で付けなアカンなって私たちは思ってるわけやんか。 だからそこの視点で、自立するって、一人で生きていけるなんてありえへんのやから、そこから「自立」っていうこの2文字を子どもの事実に置き換えていかなアカンちゃうかなって。どうですか?
その、靖子さんの話を聞いて、やっぱりヘルプを出すっていうのには、そのヘルプを出す力はやっぱり必要なので、その力をいかにつけていくかと。ヘルプを出して、自分が助けてもらった分、同じようにまあ友達とか周りの子たちを援助していくような関係が育っていくんだなぁと、ちょっと今話を聞きながら考えました。
今日の子どもたちの周りにいる大人の、特に教員という立場の大人の言動とか行動。「頼らないで一人でやりなさい」とか「なんで最後までやれへんの」とか、なんかそういう50年前の社会では通用するようなものを、今引きずってんのちゃうかなみたいなこともちょっと想うし。 子どもにその力が大事って思うんやったら、職員室の先生たち同士が自立していますか?って。こういう問いを作った時に「先生たちみんな自立してる?」って聞いたら「人に頼らないで自分が頑張って、自分の考えいっぱい持って行動せなあかん」って思ってしまうところってないですか。 でもそうじゃなくて、出来ないところは「ごめん、ここいけんから助けて」と「教えて」って。若かろうが高齢者であろうが、管理職であろうが職員であろうが、みんなが「あの困ってんねん、どうしたらいいかな、自分では間に合えへんからちょっと助けてよ」って、こうやって職員室で弱みを吐き出して、人の力を活用できている。これが職員の自立やって、9年間ずっと皆で言ってきたんですよね。
この自立を、教員という立場の自分が……子どもは子どもたちの集団があるけど、先生たちは先生たちの集団があるやん。その職場の集団の中でみんな大人が自立してへんかったら、子どもは自立すると大人になっていいことがあるって思えへんです。 だから、そういう意味でこの自立っていう今日のテーマは、すごいテーマやなって、私は心の底でなんかふふって笑ってるんですけどね。
ありがとうございます。なんか自分はさっき篠崎さんが言ったみたいに、最初はやっぱり自分のことだけ考えて「自分がどうあるか」っていうのをとっても考えて今日来たんですけども、皆さんが話してくださっている中で「ああ、壮大なこれからのことも考えて他者とのことだなー」って思いつつ今聴いてました。
で、なんだかんだヘルプ出すって難しいですよ、意外とね。だから自分自身でもその「ありのままの自分」をやっぱり認め、認めるというか受け入れてないとヘルプも出せなかったり、周りの方をまあ変な言い方ですけど、やっぱり信頼してて出せるなって状況にないと出せなかったりするので、ああなんかそういう状況になるといいなぁって思いながら今聴いていたところです。いいですか?
ああ、さっき梅田さんがおっしゃった「比べない」っていうこと。それすごく大事だなぁと思って聞いていて。まあもちろん職員間でもそうだし、子ども同士でもそうだし。 場づくりの方に入ってしまうかもしれないんですけれども、本当にあの「比べない環境」っていうか。逆説的にいろいろ考えると、先ほど「自立の逆は大人の言うことを聞く子どもだ」っていうお話もありましたけど、そういう「ありのままの自分許せる」とか「認める」とか「ヘルプを出せる」とかっていうのは、やっぱりその「比べられない安心感」っていうか、「認めてもらえる安心感」っていう、そういうベースがやっぱり必要なのかなぁっていうのは改めて思いました。
ねぇ、本当に。「子どもと子どもを比べない」。 比べないって……比べたら必ず「格差(違い)」になってきますよね。いろんなことができる・できない、普通・特別みたいなこの違いを比べたら格差になる。 じゃあ、比べるというこの行為をどう変えたらいいんでしょうか。
「違いを認め合う」というか、「尊重し合う」というか……うんですよね。 認め合う、尊重し合う。どうしたら認め合い、尊重できるんでしょうか。
何か言ってもね、違いを格差に……比較して格差としての違いじゃなくって、この違いをお互い認め合ったり尊重しあったりすれば格差ができないっていうことは、一つひとつの違いは「対等」につながるわけですよね。 対等につながる。ここまでは言えるんですよ。 じゃあ、違いを比べないで「対等な違い」にするにはどうしたらいいんだろうっていうところで、みんな止まってしまうと思うんです。
すいません、よろしいでしょうか。 あの、さっきからいろいろな人の話を聞いた中で、私もこう個人で完結してたんですけれども、その「比べない」とか言う時に、えっと「受け入れる」っていう。他者を受け入れる、他者がいる、他者を受け入れる、受容するとか、それから他者と調和するとか。そういう言葉が浮かんできていまして、そういうことが自立っていうことの一部には入るんですか?うん。
入るっていう正解なんかどこにもないと思うから。あの、正解なんて本当ないんですよね、その子の中にしか正解ないから、うちらは想像でしか物を言われへんねんけど。この「受け入れる」っていう言葉は、私たち大空スタートした時に、1年目の4月に、1年生の2週間で学校に行けなくなった子が、6年の4月に突然大空に転校してきた子どもがおったんですね。
重度の自閉とかなんか発達障害とか広汎性発達障害とか、いっぱい診断名を持っていた子ですけど。 「バッチリ受け入れてるよ、お母ちゃん安心してね」って連絡帳に書いた。そしたらこの母から、「受け入れる」という言葉を見たときに、「またいつ学校にお化けが出たって学校に行けなくなるか不安になった」って書かれたんですね。
「受け入れる」。6年生の皆がこの子を受け入れる、この受け入れ態勢バッチリやからお母ちゃん安心してねって。私はその連絡帳何回も確認して「母ちゃん喜ぶやろなー」って。 だって1年生の2週間で学校に行けなくなって、そこから苦しい中で裁判を起こして、裁判戦いながら義務教育の6年生のラストの1年を大空にデビューしてきたわけですよ。そんな苦しい思いをしているお母ちゃんが「みんないいクラスの子もみんな受け入れてバッチリ。よかったねー」って言った時に、その連絡帳を見た時にみんなで職員室で「えっ」って。私らも本当にね、頭が殴られてもう「自分の底も見えたわ、うちら無理なんちゃうかな」っていうぐらいまで落ち込んでんけど。
この「受け入れる」っていう言葉は、苦しみを知っている人から見れば、私たち「受け入れる」って全然抵抗なく言葉として使っててんけど、どういうことでお母ちゃんが不安になったか。みんな思います?
よく特別支援教育を語る、インクルーシブを語るときに「受け入れる」っていう言葉使いませんか?「みんなの学校は障害のある子どもたちをたくさん受け入れている学校です」ってなんかメディアに書かれたことがあって。それを読んだ時に、きっと大空のそんな時にいたメンバーはその文字を見たらものすごく怒りに満ちてたんやろなって、あたし自身がそうだったから。
でもそれを体験して良かったな。「受け入れてる学校なんやって」はいい評価にはつながるんやと思うんですよ。でも「受け入れる」ってとっても上からな言葉なんですよ。
かなり上からに聞こえますね。
うん、異なる対象として認識してしまっているっていうか。「自分達とは違う」っていうふうに突き放して認識してるっていう風に聞こえてきますね。
もう使ってへんかった今まで「受け入れる」。で、「受け入れる」「受け入れてあげる」。子どもたちがこの子を受け入れたよ、何かいい集団ができたよみたいに思ってたことないですか? うちらなんかそう思ってたから。だから「受け入れる」って何の抵抗もなく「よし、お母ちゃん喜ぶなー」って連絡帳熱げな顔して、連絡帳見してって職員室でみんながお母ちゃんの喜んでる文章見たいって見て、もうとことん落ち込んだんですよ。
これね、受け入れるの反対語は、そんな難しく考えんで。「受け入れない」やろう。 受け入れるの真逆にある言葉は「受け入れない」。受け入れる・受け入れないの意思を決めるのは、元々ある集団なんや。元々ある集団に、さっき長須さんが言ったように、元々ある集団にこの困っている障害のある子どもを「受け入れる」っていうことやろう?
ここでお母ちゃんが書いてたのは、「今は受け入れてくれてるから、子どもはちょっと喜んで学校に行っている。でもこれが、受け入れてくれている子どもたちが受け入れてくれなくなったら、またこの子は学校にお化けが出たって学校に行けなくなるんちゃうか」。こう書いてました。 「受け入れる」っていうのは、元々ここにある、元々あるものの中に違うものを「入れてあげる」。これこれが受け入れるやなって思ってから、私たちは「受け入れる」という言葉には非常に敏感になったんですね。
で、そこから自分たちが見つけ出したのは「ああそっか」って。元々あるところにどうぞ、じゃないなと。それぞれ一人ひとりが違った一人ひとりがここにいて、この一人ひとりが集まって集団になるんや。ここで「自分が作る自分の学校」「みんなの学校」っていう言葉が実は生まれたんです。これが1年目でした。
なんか今高山さんが「受け入れる」っていう言葉を言ってくれて、こんな話ができたので、めちゃくちゃヒントになる言葉を今出してくれてすごくありがたいと思うねんけど。 やはりどことも「受け入れる」っていうことを教える側なんか組織をまとめる側の人間は当たり前みたいに使うけど、反対側に入ってる「受け入れてもらう側」になったら、これって対等じゃないやん?
ごめんなさい、あの、集団にいて個人が入ってきて「受け入れる」だったらそれは対等じゃない。でも個人としていて、隣の人の嫌なところがあっても「受け入れる」って、それはまた別なんですか?
受け入れるの真逆に「受け入れない」が成立してしまうやろ。今は受け入れるけど「やっぱり嫌」って。 そうすると個人個人がそれぞれであっていってなった場合に、そこに自立は成り立つのかって。だから「受け入れる」という発想をまずは捨てたらいいんじゃないですか。 「受け入れる」っていう言葉は、学びの場においてとても麗しい言葉のようにこれまで用いられてきたと思うんですよ。でも自分がこの子を受け入れるではなくて、自分が「違っているこの子から学ぶ」じゃないですか。
学ぶ。自分と全然違う、自分はこんな時全然嫌じゃないし友達も殴らへんけど、こいつはこういう時に友達殴ってしまうんやって。その子がどうしたら殴らんでええかなーって。なんか殴ってしまってるその子を「俺とは違うから嫌」「変な降ってるこの子やけどいいよ僕は優しいから受け入れてあげる」じゃなくて、殴ってる自分と違うこの友達を「自分はこの友達から何を学ぶか」って。これがやっぱり学校の学びの中で大事なこと違うかな。学びって対等でなかったら学ばれへんと思うんですよ。
学ぶ。理解するっていうのも一緒ですか?
理解しようとする。
理解。私らも子どものことを理解できるって言って、ねえ、自分の子どもも理解できるしたいと思ってますけど、できないんでしょ。自分の子どもも理解できへんのに他人様の子ども理解なんかできると思う? 何年前かは「児童理解、児童理解」っていう言葉が教育界でブワーッとなって。「児童理解しろ」って。そこで理解されたつもりで、本当は理解してもらえなかった子どもたちが本当に居場所を失っていったんですよね。
だから今度も同じように「自立」という、とっても大事なことやと思うんですよ。私ようやくこの言葉がクローズアップされたんやってすごくほんと喜んでるんですけど、この「自立」という言葉で、上澄みはすってもらえるけど、自立という言葉でこういのちがなくなる子どもが同じように出てきたら、これを負のスパイラルに持っていったらあかんかなっていう危機感をなんか持ってしまってるんですね。
児童理解ってとっても麗しい言葉でしょ。でも児童理解が大事言われたら、先生たちは「この生徒のことを理解できない先生はアウト」って言われ、評価がつながるんですよ。伸ばせへん、でも「分かったつもりになる」。子どもにしたら「俺のことわかってるくせに上から物言うな」っていう子が、どんどん居場所をなくしていった。 居場所を無くしていく=学級が崩壊する、学校は崩壊する。どんどん規則を作って、今は学校が落ち着いている。だって規則を守る子どもたちばかりいるから。規則を守れない子どもたちは学校に来てないから。これが不登校過去最多の今の現実だと思うんですね。
その負のスパイラルを、この「自立」という言葉で、私たちがうーんなんか分かったつもりになってしまうことがすごい危機かなと。
あの「違いがある」っていうことに、まあまずは気づく。なんでだろうって思う。そこもすごく大事かなって。なんでだろうって思ってこう聞かれたときに、一緒にこう考えられる。どうしてだろうねって。そういう場が自立を育むのかなってちょっと。
いいですか?あのさっき「中二の秋に」っていうのお話をね、冒頭にさせていただいたかと思うんですけど。いろんな行事とか出来事とか、学校の中でいろんな子どもたち同士の触れ合いの中でたくさんのことを子ども達って学んでいるわけですよね。私は学校ってそういう中では少し小さな社会じゃないかなって思っているんです。 その中にいる、例えば私たちのような教員はまあ唯一大人であるんじゃないかなと思うので。さっき靖子さんが仰っていたね、職員室の中の接し方大丈夫?なんてお話ししてましたけれども、子どもたちってやっぱり見てるんだろうなってすごく思うんですよ。あの、子どもたちだけのこの小さな社会の中での唯一の大人である私たち教員も、やっぱりこう見ながら「あ、こんな風に関わっていくんだな」っていう見本になっているようなすごく気がしているんですね。
だから不思議なことなんですけど、学年の先生たち、中学校の学年の先生たちがすっごくいい雰囲気だと、その学年とても子どもたちいい雰囲気の子どもになるんですよね。あれすごく不思議だなぁと思います。で、学年主任の先生とかが高学年集会のたびに「いい学年だなぁ、先生幸せだ」っていつもおっしゃってくださる、そういう先生いらっしゃったんですけど、それがやっぱりね、自分たちを認めてもらってる、自分たちこのままでいいんだなって、もっと頑張っていこうっていう気持ちをすごく盛り立ててくれてたなって、今本当に気づくことができています。
さっきちょっと「違い」とか出てきたと思うんですけど、私その違いをすごく大事にして学級運営をこれまでもやってきました。あの、小さな社会ということは、社会に出たらみんな違うわけですよ。だからそれを無視して「みんな平等だ」って、それは私は罪っていうか上辺だと思っているんですね。だって社会に出たらみんな本当違うんですもん。年齢・性別・考え方・価値観、全部が違う中で、自分がどうその人たちと関わり合っていくかっていうのを知る機会だと思っているんですね。
だからやっぱり私たち教員って、適切にやっぱりそういうチャンスを子どもたちに場を与えなきゃいけないなって思っています。なんでもかんでもうまくいくように私たちが全部お膳立てしてやればいいかって言ったらそういうものではないと思いますし、やっぱりどこの場で子どもたちのそういう力を伸ばすのかっていうのをやっぱり意図的に考えていくこともすごく大事じゃないかなって思っています。
一つだけちょっとエピソードをお話しさせていただくんですけど、いつもあの授業中でも笑い出しちゃう子がいたんですよね。であの、スクールカウンセラーの先生に、いつも笑ってしまうその彼の心境を実は私自身が聞いたことがあって。その時に「とっても頭の中で楽しいことを考えてるから、表情がとってもいいんだよね」っていうことを教えてくださったんですね。「だからね、とても幸せなんだよ」っていう。 その子はそういう考えがあるんだよって言ったら、そのクラスの子達が「誰々さんはそんな風にいつも楽しいことを考えていられるから、表情がいつも明るいんだね」っていうのを自分との違いを理解しながら。理解するって言いましたけど、実は私「理解する」ので、子どもたち同士って結構出来てるんじゃないかなって思う瞬間があります。 それは小さなことかもしれないけど「あーそうなんだー」がいっぱいあるような気がするんですね。それがやっぱり回数が重なり合ったことで、「あっ相手はそうなんだ、じゃあ自分はどうかな」とか、いろんな自分・相手との関わりを通して、さっき靖子さん言ってた「依存し合える安心感」というか、自分自身はどうあるべきかとか、自分が相手に何ができるかとか考えるきっかけがあって、あの中二の秋の変化があるのかなぁなんて、今皆さんの話を聞いててあのすごく感じました。なんか、いっぱいキーワードをいただいたような気がします。はい、ありがとうございます。
なんか長さん、今日深いね。みんな願いですよね。自然に最初の具体的な子どものエピソードとか、自立する子どもの姿って話してくださっていて、自然に場づくりの方まで入っていますかね。
今吉田さんが言ってくれた、子ども同士は本来そういうものを本質として子どもは持ってるんやでっていうことだと思うんですね。でもその本来持っている本質を、教師が与えてはならない、教えなくてはならないという、教師の「指導」というこの言葉。指導もいろいろあると思うけど、望ましくない結果に終わるのは教師の指導が本来のそういう子ども同士が分かり合えるその関係性をなんか奪ってしまってることっていっぱいないですかね。
大空ではこんなやり直しを日課にしました。やり直ししたんですよ、私らほんとできてなくて。 じーっと見てて困ったときに「大丈夫?」って手出したら良いのに、「そんなんしたらあかんでしょ、〇〇ちゃん可哀想でしょ」とかって。そしたらそう言っている大人に子どもはものすごい不信感を持って、怒った行動に出ていくんですね。
新しく転勤してきた先生がいて。この人特別支援コーディネーターをしていた男性の教員やねんけど、この人が4月に4年生の教室の前を歩いてたら、教室の中で休み時間、一人はダウン症と診断されている子ども(裕太とする)、一人は元気な男の子。 その裕太と元気な男の子が、教室の置いてあるボールを取り合いしてて。「僕や僕や」って。こっちの彼は「裕太は2番目、僕が一番に取ったから裕太は2番目。今は裕太は取れないの、僕が一番に取ったから」って一生懸命言ってるけど、裕太はバクバクバクってボールを取り合いしてる。 それを聞いた男性の教員が、ここぞ自分の出番とばかりその時に一緒に入っていって、彼に「君、空気を読みなさい」って言うたんですよ。「空気は読めません。君は勝っちゃうだろ、裕太にそのボールを貸してあげなさい、空気を読みなさい」って言ったら、その子は「大勢では大空の当たり前と全く違う、当たり前がそこでぶつかったわけですよ」。 これあの、すごく社会を知るから。めっちゃんと白なんかあん。
「空気読め」って言われたその子は「先生おかしい」って言うたんですよね。
私が何でこの話を知ってるかっていうと、その教室に女の子たちが四、五人いてたんですよ。その女の子たちが校長室に来て、「校長先生」って言うから「なんの出番?」って聞いたら。「今こういうことがあって。なんの先生な、彼に空気読め言うたけど、空気読まれへんの先生やんか」。当然女の子たちが言ったんですよ、私に。 「ほんであんたらなんて言うへんかったん?教室に入っていいよって教えてあげて、先生気づいてなかったらちゃう?あの、空気読まれへんの先生やでって言ってあげたらよかったのに」って言ったら、「あの先生は大空に来てまだ1ヶ月も経ってへんのよ。子どもに先生間違ってるって言われたら明日休んだら困るやろね」って。「だから校長先生言うて」って、私に。 私に「あんたら言うへんのがまあわかるけど、なんで私に言いに来るの?」って言ったら「学校中で一番年上やから」って。「年上の人から言われるとまだマシやろ」。もうこれも笑い話やけどこういうことがあったんですよね。
で、その日の放課後「今日懇談すんで」って言ったら、もう「えっ、いつものパターンでいいけど、それって僕のことですか」って当然なるじゃないですか、みんなが。 他のみんなは顔見合わせて笑い声ですけど、「大丈夫、後ろからサポート行くから大丈夫大丈夫、もう今から変われるチャンスやろう」とか言ってベテランに言われて。なんかシラーッとするんですけど。 もう今なら「こんな1年で辞めてやる」って絶対その時思ってると思うんですよ。でも1年たって「なんで転勤希望出さへんの?」って言うから、「先生、人をいじめることに生きがいを感じてませんか」とか言われるんですけどね。
でも今の話なんかは、まあそれは子どもたちがもうあの、私らが何度もやり直しして「これ当たり前やで」っていう空気があるから、子どもはその空気で「あの先生空気読まれへん先生やで」って思うんですけど。 こういう私たちの、やり直しをしていない時の先生がそう言ったら、みんな子どもがどう思うか。「お前がお前空気読めよ」って。「相手は裕太やろ、だから言い換えたらお前が空気読め、お前は健常児やろ。相手は障害児やろ、健常児は障害児に譲らなあかんやろ」。こういう通訳ができるわけですよね、こういうことって。 これが、もう先生は良かれと思って、障害児を守ってやろうと思って、良かれと思って言うんですよ。で裕太はまあその先生大好きになるんですよ。でも、そこにそれって全く「違い」を「格差」にして子どもに教えている。このことを言うたらなんか分断してるよねって。こういう毎日はもう本当にいい形でやり直しをしました。
ちなみにその「やり直し」はどうやり直されたんですか?職員室で。
全てオープンに出す。全てオープンに。「今日こんなことあったで。みんなどう思う?」って。それをその転勤してきた先生を非難するの?校長は指導するの?みたいなことに思ってしまうかわからへんけど、その先生がやってくれたその行動から「自分らもこれ今までやってたよなぁ」って。「今の自分はどうやろうか」って。こういうことは職員室で、みんな職員室に戻ってきてお茶飲んでる時にオープンにして、「先生だけちゃうで、誰でもこういうことやってるな。私らこれでなんかやり残してるかあれへんからね」って言いながら、自分ごとにみんな変えていってたかな。もうこれを9年間最後までこんなんやってたんですよ。
なんかこれでいいと思えた日は1日もなかったんですよね、私自身も。これでいいと自分自身が思えへんかったし。だから「これでいいのかな」と思い続けてるっていうことは、やっぱり安定する域に入れないんちゃうかな。安定したら、ある程度後に来るのは崩壊しかないから。 だからいつも「これでいいんかな」「うまくいかへんな」「これでいいんかな」って。これでいいかなと思うから人が自立するんです。人の力を借りるんですよ。 「これでいいんかな」「できてるよね」「これでできてる」……「私はできてる」と思う人って、人の力借りへんやろう。「私はできてる」と思う人を自立してるって言ったら、役に立ってへんし、迷惑かける人なんか残念ですねみたいになれへん?
なんかきっと、靖子さんのその学校でなんか先生たちが悩みながらもこう前に進めている、「どうやったらいいだろう」っていうのをいつも考えてるっていう姿をきっと子どもたちも見てるんですよね。だから安心して「まああれって笑い飛ばしてくれるな」とか。本当にさっきのね、いろんなフォローがきっと先生方のあるんだろうなって思うんですけど。
でもやっぱり学級の中でも、学年のそういう雰囲気の中でも、やっぱり同じだと思うんですよね。 ある時に私、息子に中学校時代のこととか聴いた時に「あの時どうだった?」って聞くと、なんか自分がミスをしたりとかしても、相手がやっぱりこう「なんとかなるよな」って笑って許してくれるのがすごく嬉しかった。 今実は社会人になったんですよ。ペーペーの1年目なんです、次男。はい。で長男は実は今年昇格やってるんですけど、次男はねえ、その社会人1年目になってなかなかできないんですよねー。 社会人1年目でいろんな年代層がいる中で、「お前なんとかなんだぜ」ってワッとやってくれるのってなかなかないんですって。学校っていう世界はやっぱりある意味特殊なのかなってちょっと思っちゃったんですけど、でも学校生活のようになかなかうまくいかないのにすごく今次男は悩んでます。
でも次男の方はそういう前向きにもなって「お前らそうなんやな」っていう環境で社会に出てる。社会にいる人はそうじゃなくて「迷惑かけたらアカン」「役に立つ人になれ」「自分のことは自分で」って言われて社会に出てるんだから。「あーそんなそっか、そういう社会がそうとか、その会社がそうとかっていう見方じゃなく、やっぱりそんな教育、おっきいんですよね。 個別にポンと変わるんなら、そういう経験をしてたらもう当たり前はそこで違ってくるでしょ。だからその次男さんが何年かかって新卒を迎えたとき大丈夫よ、そう読んだしてくれるようになればええやん。その空気に次から次へ「あ、そっかあなたはそうだね」みたいな働きやすい職場に変わっていく。
すごく20代ぐらいの先輩方がやっぱりそうやって「お前のいいところはこういうところだから、もっとこういうところ伸ばしていこうぜー」とか言ってくれるらしいんです。 だからやっぱりそういうことで、あ、自分伸びていけるなっての実は学生時代なら学んでるんですよね。だから今きっと次男は頑張れてるんだろうなって、親なりにちょっと思っています。はい。 やっぱりさっき私も「小さな社会だ」ってお話をしたんですけど、やっぱり私たちの教育って未来を見据えて、なんかやっぱりこう「10年後20年後」ってさっき話があったんですけど、じゃあ自分たち「何作っていきたい?」「世界ってなんだろうな」って思いながら今の子ども達を見ていかなきゃいけないのかなっていう気がしています。 だから梅田さんみたいに本当、目の前に子どもがいて羨ましいですね。
どうですか梅田さん、なんか目の前の子どもたち見てて。
お互いを尊重するとか一人ひとりは違いを認めるって「どうやって場づくりなんだ?」と思った時に、つながるかどうかわからないんですが、やっぱり「相手に求めすぎない」っていうこともやっぱり分かってるかどうかってすごく大事なんじゃないかなって。だからこそ集団なのかなと思うんです。 「期待したい」「こうだ」って決めつけたりするんじゃなくて、「ああそういう人もいるよな」とか「じゃあ今度は別な人頼ろう」とか。それが多分職員室でも同じように「相手に求めすぎない覚悟」っていうのを自分自身が持っているのかなーっていうことを、自分でもなんかさっきから自問自答しながら考えていて。ああ、なんかぐるぐる回ってます。
私なんか、「邪魔しないことかな」とかっていうの。持ってる力をうーん、なんか先回り先回りしてね、「こうしたいいよ」って思っちゃう自分をいかに抑えるかっていうか。うーん。
先日、ちょっと部活の延長のような集まるイベントがありました。そこは生徒が主役の場だったので、私これを言ったんです。「いいね、ことありますか?私これ用意したんです。でもどうしても困った時は助けるけど、それ以外はみんなでやってね」って言ってみたら結構盛り上がったかなと。
ですよね。本当になんか普段より「こうやれ、あぁやれ」っていっぱいかまってね、世話焼いたりしてね。まだ動いてないのに「あそこにいたら一番危ないから」「あの石は踏んだらあかん」「あそこに行ったら怖いおっちゃん立ってるからあそこでは黙って通りや」とかね。なんかあっぱい先回りして「ああでもない、こうでもない」って言うねんけどね。 そういう大人って子どもが困ったらなーにもせえへんやんか。これ見たら「言うこと聞かへんからそうなんやろ」ってなれへん? でも何にも言わんで、困った時は「助けて」ってすぐヘルプ言いや。そばに居るだけで良い。これが指導を進化させて支援っていうこと。障害のある子の支援っていうことでもう今なんかのり付けされてるけど、そうじゃなくて「人が困ったら私なんかできますか?」って支えるっていうこと、なんか支援っていうことや。 これをずっと特別支援教育の支援みたいなことで固定してるから、通常の子どもに支援は必要ない、指導だみたいになっちゃうけど。それでも困った時に「助けて」って。やっぱりこれ自立やな。
あ、そういう時って子どもが先生の方をチラッと見ませんか?
人いないので子ども?なんかこう目で訴えるっていう、その瞬間今、新しい「あれあれ」と思います。
あの、子どもたちがよく「これでいいの?」って言う顔してこっちを見てくる子っている時、自分の子どもなんかもこう遠くに行こうとして、すごい自分の子どもが赤ちゃんの頃の話してるんですけども。ハイハイで遠くに行こうとするんですね。で、こっちチラッと見ながら「これがいいよ」「こっち」っていうのって、なんか可愛いのと同じような感じで、子どもたちも「ここから先」っていうのを見たい感じで見てくる時がありますよね。 なんかその時にただ今先ほどの話を自分聞きながら思ったんですけども、あの、子どもたちが自立しようとする時ってきっと自分がやったこととか振り返ると思うんですよね。振り返ったりして。 でも振り返る隙も与えずに、時間も与えずに我々がこう評価してしまってる部分があるのかな。「それOK」とか「それダメ」とかすぐに言っちゃって。先生達ってなんかそういうふうな性質にあるのかな、今なんかでも自分も今までそうしてきたような気もしちゃってて。
今話聞きながら振り返って「これはいいんだろうか、どうなんだろうか」って言葉でも迷うそのチャンスさえ奪ってしまっているから、そんな風にしてたら10年後20年後って子どもたち自分でこれで良い悪いとか、あと「困ったから助けを求めよう」とかそれすら判断できひんのちゃうかなって思ったりしたのは、今すごく感じました。
ねぇ。評価って言うけど。なんかね、教えることよりなんか評価して。ですよね。ま、なんか話変わりましたけどね。
ということを、「何のための」っていうところがやっぱり大事になってきて。あの、子どもたちにこれは「マル、バツ」教えるんじゃなくて、なんかね、それを考える場を与えるって方がもしかしたら一番いい。 大人はすっごい簡単な言葉で「なんかこうしなさい、ああしなさい」って言う、これ指示やろう。 「いや、どう?」「あなたはどう思う?」「みんはどう思う?」
「どう思う」って魔法の言葉ですね。
じゃあいろんなことみんな言うやんか。「ああ、なるほどなるほどなー」って。なんかプチって切れる。切れて「こっちは知らん」みたいなことも子ども当然言って試してある場合もあるから、言ったときに「それはアカンわ」って言ってしまうへん? 「どう思う?」って聞いてんのに「それはアカンわ」って言われたら、どうですよね。
思ったように進めていったら、ええんちゃうと大空の方に1回言われた私。
梅田さん。すいません「どう思う」ってすごく聞きたくても、なかなかその聞けない何か空気感とか、後人かなんか、その急いでいるというか「目指すところに持っていかなきゃ」みたいな切迫感みたいなのもなんか実は抱えているような気がしていて。 で、靖子さんがなんかいつも「やり直し、やり直しすればいい」って言ってこう勇気をくれるんですけれども、そのやり直しがしたくても出来ないっていうところで何なのかなーって考えたときに、なんかやっぱり「安心感」っていうところがあるのかなーって思っていて。 その安心感って、まあ繰り返しになっちゃうかもしれないんですけど、子どもも学校においても職員室においても、どうまあ育んでいけばいいのかなぁってちょっと今考えていました。何か簡単にできそうな何かありませんかね、どうですかね?うん。
子どもは進むんってさ、大人がマニュアルを持たれへんやろう。 その子がどんなときに安心するか。「いいよ、いいよ」とか言ってたら「俺のこと馬鹿にしてるやろ」って子も居るし、「大丈夫、大丈夫」言ってたら「大丈夫言われてこないがえらい目に合った」とか言って。 人の話をきいとけ、一人の子どもの体験ってそれぞれ違うから。 だったな、「どうすればいいのか」っていう。これは私は自分の中で正解って思ってるねんけど、正解がないから「自分が正解や」思ってるんだけど。 それやっぱり気になる子が、「この子どうしたらいいかな」って。この子が安心するにはどうしたらいいかなって、一生懸命考えようとするけど所詮無理やねん。だからその子に「なあ教えて」って。「私何したらいい?どうしたらいいんかな?何困ってるの?大丈夫?私何したらいい?」って、その子に教えてもらうしかない。 でも子どもは信用してない大人には教えてくれへん。ここがやっぱり一番、教員というまあ親でも一緒と思うけど。「大丈夫かなぁ」「先生どうしどうしようかな」っていう時代はもう通用せえへんと思う。
ということは、この子が安心するには、その子に教えてもらうしかないやん。だからもし長須さんが安心するために、私が長須さんにこう思ったことを言い、「大丈夫やから」「なんでも言うて」「やり直ししたらいいからね、長さん大丈夫よ私がいるから」って言って、安心する?
怖いですね逆に(笑)。
せやろ。だからやっぱり、長須さんが安心するっていうのは、やっぱり長須さんのそばにいつもいてるっていうことやね。 あの子どももよう言われた。長男にも言うへんし次男もやってくれへんけど、でも「俺がしんどいことは俺の横にいつも黙ってるけどいてくれる」、こういう大人。で、安心すんねんて。うん。「なんで?」って聞いた。「だって困ったらアカン、困ったどうしたらいいってすぐ聞けるやろう?困った、どうしたらいいって聞きたい時と、こうしたらええで、こうしたらアカンでって言われたって使われへん」。これ子どもの言葉です。
だから、「こうしたら失敗しない」とか「こうしたら困らない」って、誰を焦らせてるかって言ったら大人が焦ってるんですよね。大人が焦って、どうしたらいいとか。
そうですね、なんか大人がどうしたらいいかとかね。私たちがしっかり見守ってくだされば、はいとかっていうよりは、ちょっと違う感情じゃないかなと思うんですけど。 私も担任ですごい焦ってた自分を若い頃いっぱいありましたし、失敗もたくさんしましたけど「誰の目を見て焦っていたのかな」と思います。あのときの自分は誰の目見て焦っていたのかなって。内緒ですけど(笑)。あっても上手くやらせなきゃとか、上手くしなきゃっていう自分に焦ってましたね。
そうやね。それな、子どもを育てる主語は吉田先生なん。 「子どもを育てる」学校や教師っていうのは、大人が主語になったよね。「子どものため、子どものため」って言っても、誰もそこに気づいたら「自分でやってる、あ、またやったー、またやったー」って気づくねん。そこに気づいたら、主語は「子どもや」になって、「子どもを育てる教師」から「子どもが育つ教師」に変わろうって。
じゃあ「子どもが育つ」ってどういうことや、って言ったら、100人子どもおったら100通りの子どもがおるわけやから。「子どもを育てる教師」って言ったら、100人も一列に並べて「私の言うことを聞きなさい」というふうな。そっちやダメよ。 でも「子どもが育つ」っていうと、その子一人ひとりが育つって。そんな自分には無理やて。 まず、この無理……教えるとか育てることは無理だから、子どもが育つためには、その子が機関車やったら、子どもが運転してるわけや。先生は一生懸命石炭をくべてるわけやんか。 でも気づいたら機関車の運転手が先生になって、子どもらお客さんで乗ってるわけ。
あの新任の先生たちの研修でね、「授業を機関車に例えたら、運転手、石炭をくべる人、お客さん。先生はどの役割で自分は思う?」って。なんか昔、私がおる時に聞いたことあるんですか?で、若い先生たちほとんどが「運転手です」って答える。 運転手ですって答えるんやけど、正解なんてどこでもない。で「運転手や」っていう。こういうふうに、いろんなロジックのようなものは生まれてくるから、これも正解ということはないけど、「なんで運転手なん?」って聞いた時に「授業は僕が引っ張って、じゃあ子どもは?」って言ったら「当然お客さんです」っていうわけ。「無事に次の駅まで送り届けなあかん」みたいな。 「だからもう、運転手が行き先間違ったらどうするん?」って言ったら「ああ、今からそれ考えますね」ってみんなで大笑いしててんけど。ですよね、これ。
なんかとても今日は深い話になってますね。正解がないっていうか。すごくいっぱい教えてほしいっていう段階というか、そういう子もいるだろうし、「もういいからって、引いてくれ」って言ってる子もいるだろうし。同じ先生でも、子どもによって全然心の声かけの仕方とかアプローチが違ってくるから、これがいいみたいな正解ってなんかないんだなじゃん。
だから、ピンで仕事をするんではなくてチーム力で子どもが育つ場を作ろうっていうところが、今紀子さんが言った先にある目的やと思うん。 1人の教員が、木村が子どもらを見てて「この子大丈夫、この子困ってるから私居るよ」ってどんだけ鋭角で自分が働いてるって言っても、所詮「木村」という一人の価値観しかない。私の価値観なんて、自分がこれまで育って経験してきて失敗してやり直ししたことなんて、10年後20年後の予測不可能な社会の経験値を想像したら、もうノミの脳みそぐらいしかない。
ノミの手札をひけらかして「私についておいで」ってこれまで私が言ってたようなあってみんなで「誰からかなー」って、あのみんなで泣いてた時もあったけど。 だから、多様な大人が1人の子どもを360度から見ようねって、これを言語化してみんなで合意形成したかな。
(今ちょっと靖子さんの言葉をいっぱいメモしちゃいました。な、笑) なんか360度ってすごいですね。
そうやね、私は毎日見ている、でもこれ。まあ私は「全部この子のことわかってる」いうつもりになってても、全然。私に見えてる面しか見えてない。 斜め向かいの地域のおばちゃんが「先生、あの子明日学校行くの嫌って言ってるでっ」「なんで?」「校長の顔見たくないって」って。 こんなん当たり前にあったから。で、今私としゃべって「OK」って言ったら「OK」って元気に学校行ったよって。こういうだから、いつもなんかね色んな人が見てくれてるやん。
関わってくれている地域の人が「俺明日学校休むっちゃ」って言った。「俺校長の顔見たくない、鬱しちゃったよ」って。そんなこと言ってくださって、こんな当たり前にあるって。 で「おばちゃん、校長の顔見たくないって言ったらどうしよう」って言ったら、「おっちゃんが喜ぶねやっぱり。校長が喜んじゃう」。「じゃ私のことをどうするか」なんかもうどうでも良いやんか。 「校長に嫌な思いをさせられたこの子ども、みんなで明日来れるようにどうしたらいい?」って。じゃあもう帰ってしまっているから、「誰が行く?」ってなって、「私行く」って言ったら本当に分かってるなっていうことが。
家に入って親がいててね、「親ごめん私悪かったって言いに行ってみ」って。親どんだけ迷惑やと言われるわけですよ。「あんた何したん校長先生に」とか言われる野郎って。 じゃあ誰が行く?って言ったら「あいつが一番親しい、あいつ行ってもらお」って。そこでディスカッションが始まる。「誰行こう」「やってもらったら」「また俺」とか言いながら、帰り道自転車で寄ったらいいだけヤーンとか言って。で、行って、子どもに。 「校長やり直ししとったから明日の朝は安心してこいよ」とか一言だけなんか言いに行くわけ。ほんだら「どう言った?」って聞いたら「こんなんやり直ししとったか」。「ほんまはやり直しして、なんか校長が言うからいいんやって、結構落ち込んでたかねや、そうしたかと思うで」って。「OKじゃあの、明日俺行くから」って。
こんなん日常茶飯事で、珍しいことではなくて、こういうことを毎日毎日丁寧にやるって。授業ちゃうと思うんですな。こういうことを丁寧にていねいに一人でできるから、なんかね。 「ああ私にしたらごめん。私のことでみんなに迷惑かけて」ってこんなふうに思ったら、人の人が困ったときに「私行くで」って。なれへんやろう。 「みんなに迷惑かけてる」なんて全然思わんようになったからね。あの、「私がうまいこと行けへんかったってそら無理やわ、私は私の価値しかないから」って、なんかものすごい学びの少ない発言を私はしてしまうんだけど。 だからそれぞれ、そこのところで補い合うから、あの頃の職員室の教職員はみんな自立してたと思う。一人で仕事を、一人で仕事ができることを自立って言ったら、子どもは壊れちゃうと思う。
「一人では仕事はできない」って本当に自分の中で自覚して、納得して、それが卑下じゃなくて当たり前のことをやって。だから人の力を活用できる、こう思える大人。自分が自立している大人になって思うただけ。 なんとかなるなって思える。どんな状況になってもなんとかなるわってこう思えたら、すごくハッピーかなって思いますね。
私もなんか先生たちに「校長として教える教育、もうそういう時代じゃないよ。あの、サポーター、ファシリテーターとかそういうPBLだよ」とかっていうのを声高にちょっと言ってしまっていたんですけれども。教えるのが得意な先生ももちろんいるわけなので、やっぱりその「得意分野をそれぞれ出しましょう」に変えようかなって。今やってることを否定したり批判したりするように取られてしまうと残念なんですよ。
教えるということが悪いことでも間違ってることでもない。「教える」っていうのは先生の商売の根幹やろってみんな思ってるから。だから教えることに問題はないけど、教えた後その子どもが、先生が教えたこと、その子どもの中で「教えてもらったからやる」ではなくて、「なるほどこれは大事やから自分の考え自分のものとして行動してる子どもの事実が受か」っていうところを、教えることが得意な先生はきっちり自分に振り返らなアカンと思うんですよ。
それが「教えない授業」とか「教えない教育」とかこういう言葉が一人歩きしてしまうこともすごくあの、「ゆとり教育の失敗をもう一回やるのか」みたいなところにつながってくるので。 だから私たちは、ゆとり教育、ゆとり、総合的な学習が生まれてゆとり教育が出た時に、「大空の独自なカリキュラムができるよね」ってもうものすごい喜んで存分に使わせてもらった学校やったけど。それを「ゆとりはアカン」って批判してしまうことで、どんどん政策が変わっていくやろ。 だから「ゆとりが、ゆとり教育がアカン」のじゃなくて、「ゆとり教育をうまく活用できなかった自分たちのどこをどう変えれば良かったかな」みたいなところに落とし込めんかったら、新しいもの何持ってきても、その「もののせい」にしてしまうともうねえな。
はい、みんなに振り返ってもらいましょうね。はい。 はい、では紀子さんから順番によろしいですか?
はい、えっと私はまあ、校長として今あの仕事してるわけなんですけれども。子どもの自立を考えていく中で、まあ先生たちの自立とか自分の自立とかっていう考えにずっと思い至って。 私があまりにもその運転手、さっきの機関車の話ですけど、運転手になって引っ張っていこう引っ張っていこうとすればするほど、もしかしたら先生たちの自立っていう部分、ひいては子どもたちの自立を奪っちまってるのかもしれないなーって思って。やっぱり少し、力を使うかなと思いました。はい。
岩田先生ありがとうございます。篠崎さんお願いします。
はいっ。なんか最初に自分が考えていた自立ってすごい狭いものなのかなぁって今ここの時間を振り返ってみると、そこに気づけたのが大きかったなって思っています。 最初自分が考えていた自立っていうのは、まあ「自分なりの進む道を自分で決められる」みたいなそんなイメージがあったんですけれども。なんか広がってきて広がってきて、「自分たちの行きたい方向を探せる」みたいなそれぐらいところに。それもね「自分たち」なんですよねきっとね、友達と仲間とこう関わり合いながら何かいいところが出てきたのかなというのが今の率直な自分のイメージです。
で、そんな時にやっぱり我々がですね、「こうすべきだよ」とかそういうふうに評価して道を決めてあげるんじゃなくて。子どもたちにハンドルを握らせてですね、運転させてあげるっていうところが。 我々はなど、どうしてもそれを最短ルートでゴールに最短ルートで着くように、これを真似したくなっちゃうんですけど、じゃなくてもう少しこう子どもたちのハンドルでこう、行ったり来たりしながらも行きたい方向に行かせられるようなそういう風な教師になられるといいんだなっていうのは、今のすごく自立した子ども、子どもの自立ってところに向かわせられるような、なんかなんですよね。向かわせられるっていうかそっちに繋げられるような先生なのかなっていうふうに、今日1時間ずっと考えていたところですね。はい、今の自分の気持ちです。はい以上です。
梅田さんどうでしょう。
はい、あの本当に奥が深いなぁと思って、まだまだほんとぐるぐる頭回ってて。しかも「どうやって子どもの前に立つんだろうなぁ」とか、「自分がなんて最初に投げかけるんだろうなぁ」なんて思いながら。 本当にあの自立ってやっぱり「一人で生きていけないってところ大前提としてって、やっぱりどうして大切なんだ」っていうところ、今日はすごく考えさせられたなぁと思っています。
あと靖子さんが言ってた「これで良いと思えた日が1日もなかった」って、すごい。でもそれを聞いたら「あ、靖子さんでもそうだったら、上手くいかなかったなぁ、すればよかったなって思う日々がそれが当たり前。なんか上手くやろうとか頑張ろうって、もちろん大事なんだけど、失敗した、駄目だった、じゃどうしようなんてそんなのが放課後職員間でも話せたり、子どもでも「上手くいかなかった、じゃあ次こうしたらいいんじゃない」なんて、本当にあの気兼ねなく気楽に話せる関係性になっていけたらいいのかなーって感じました。ありがとうございました。
ありがとうございます、高山さんお願いします。
はいっ。あの、「受け入れられる環境を作る」っていうところであり、靖子さん何でしたっけ5文字。えっと「どうしたらいいと思う」「どう思う」。 これ、これが一番の私の中で今あって。やっぱりそういうところを子どもたちに、ええ、もう保つことができる場を作るっていうのも一つ大切だなぁと思ったのと。 あと、子どもたちもそうだけど、子どもたちにとっては「そこに教師がいてくれるっていう安心感」。そしたら教師も「もしかしたら誰かに相談できるっていう安心感」。そういったものはあると、あの「どうしたらいい?」「こうしようよ」「じゃあこうしようか」っていう靖子さんの作ってくれた場のようなところが教師にももしあったら、それが安心感になって教師の自立っていうところも成り立つのかなっていうのは一つ思ったところです。はい。
吉田さんいかがですか?
はい、今日ありがとうございました。あの先「どう思う」って言ったときに、私中1の一番初めの日の給食の日に「どう思う?」って私実は言ったことあるんですよ。クラスがホッと変わりました。それ、あの、でここからともかもしれないんですけど。 給食の時に、小学校で「デザートって一番最後に食べなさい」って指導を受けてるんですよね。(はっはっはっ)あのだいたいその時間になると子どもたちがこっと手を見て「えっ」ってなって、「何やってんだろう」と思って。私わかんなかったら「先生、食べていいですか?」って呼ぶから、「デザートみんなはどう思うの?」って言ったら「デザートはやっぱり最後に食べないと、甘いの先に食べちゃうと」とか一生懸命みんなで議論してんですよ。で「なるほど、みんながそう思ってるんだったらそうしたらいいんじゃない」って言ったら、それから一切聞かなくなりました。 でもやっぱり中1の一番初めに、「あそこからなんだなー」って一番初めに中1担任したときの感想はそれです。あそこからデザートみたいな(笑)、デザートの時間だと思いましたけど。
でもあの、そんなちっちゃなことでも子どもたちって一個一個悩みながらやっぱり自己決定してるんだと思うんですよ。やっぱりそこで必要なのは、やっぱりさっきも最終話したんですけど「みんなで考えていく」、うんでみんなであの「乗り越えていく力」が、やっぱり私たちは育てていかなきゃいけないのかなぁなんていうのもあの感じました。 あの今日最初に中二の秋のあの劇的な、あの変化、なんかこう許しあえる繋がりあえるタイミングがくるってこともね、あの話をしてすごく今日はの答えをいただいたようなあの気がします。私もその時にきちんとこの変化の波を受けて、子どもだして向き合えてたかなぁなんていうのをまたこの後の時間でしっかり振り返っていきたいと思います。はい、ありがとうございます。
靖子さんいかがですねー。
あのね、まだまだみんなこれやから語りきれへんけど、なんか下はだんだんぐるぐるしてすっごい楽しかった。あの、いっぱい考えることができて。 で今吉田さんが、あの「デザート最後に食べる」って中1の子が言ってる姿想像したら、もう「めっちゃくちゃどこでそういうことを聞いてん」って真面目な小学校生活を過ごしたやろうなと思うけど。デザートなんて買ってきたら食べたい時に食べるやん?(あははっ)直感よ、甘い時はデザート食べたらちょっと食べやすいか分からへんし。
うんこのね、それだ。自立を阻むものは何?って。この時間全然そんな思えんかってんけど、其中1の子が「デザート食べていいですかー」言う姿を想像したときに、自立を阻むものって、「決まり」ちゃう?決まり。 決まりって言ったらまたこれ奥深くなるから長須さんが早く終わってるよね、切れへんかってんけど、だって食べたい時に食べようって自分で考えて、それこそ自分の体調コントロールしながら自分で食するわけやろう。それを「最後に食べなあかん」って決まってたらもう我慢するか、それを途中で食べたら「そいつはずっこい」「どこ行ってハミゴやねん」って。 「どうするよ、どう思う?」って言ってみんなで作っていくってそれが自立やんな。
だから「自立を阻むもの」。自立をどうしたら子どもが自立する野郎って考えるのと同時に、自立を阻むものが自分の学校現場にないか?って。前のいつも言う「右側歩きましょう」っていう決まりがあれば子どもの自立は奪うで。 だって右さえ歩いとったらええねん。誰かが左歩いてきてぶつかったら相手のせい。「ぶつかって怪我しました、相手が左歩いたから」。でも右左分かれへん子どもが自由に動けるのが学校の安全基地やから。 じゃあ右を歩こうという決まりをなくしたら、「どこから人が来るかわからへん、ぶつからないために自分はどう動けばいいか」っていつも他者を見ながら子どもが行動する。こうやって「右側歩きなさい」やったら自立は阻まれてしまうよなって。 うん、自立を阻むものって「決まり」なんやって、今思った。
なんか小学1年生に聞いたら、幼稚園や保育園で子ども園で、給食は「3点食べ」って教えられへん?「主食、パン、牛乳、おかず、三角で1、2、3って。牛乳飲んでおかず食べてパンって」。 これが決まってるから「3点食い」というこれができへん子はいつも怒られるわけやんか。そんなんさ、私はもう3点食べなんてさせられたらたまったもんじゃないで。嫌いなもんさっき食べてしまわなあかん、食べられるし。好きなもん取られたらと思うからさっき食べてしまいたいんやろ。
だかということをやって。さっき誰か言ってたあの「悪しき慣習」みたいなもので、規則や決まりをこれまで作ってきた。でも人は違っていることが当たり前やで。多様性社会・共生社会、想定外の社会をどう生き抜くかっていう力を今学校現場でつけてる。じゃあ子どもが自立する力が必要やろってなった時にねぇ、なんか「決まりを守らせながら自立させよう」なんて。 「この風にしてみたらやってられん」って言ってくれたらありがたいじゃん。だから、高山ちゃんが言ってるように「どう思う?」。一番簡単な、すぐ聞ける言葉なんか「どう思う?」。
外国に行って帰ってきた人が……なんか外国に行っていろいろ研修したり帰ってきた人たちがみんな、どう言うかっていうのは「外国に行ったら『靖子どう思う?』って聞かれる。聞かれたときに自分の考えを伝えることができへん。これまで正解ばっかりインプットして正解ばっかり言おうとしている。でも正解じゃないんだ、『靖子の考えが聞きたいんだ』『靖子どう思う?』って聞かれて、その自分の考えを言うのが靖子の面でいいんだよって言われながら言えない自分のもどかしさをものすごく感じました」っていう声いっぱい聞くわけやんか。
だからね、本当になんか小さい時から「どう思う?」。私も、夫とかいうのに「どう思う」って聞いてやろう(笑)。 ありがとうございました。
長須さんお願いします、振り返り。皆さんできてますかね大丈夫ですか? はいっ。あの、紀子さんが『エミール』の話をしてくれたりして、その時に「あれしろこれしろって言われ続けると、生きろって言われないと生きる気もしなくなる」って話があって。あ、それをちょっと思い出して「あれしろこれしろ」って結構学校って言いすぎてる部分があって。自立を妨げているなって思いました。
それから靖子さん、さっきあのね自立を妨げている「決まり」って言ってくださったんですけど、自分もちょっと似たことを考えていて。自立妨げているのは、「一律」って言う、なんか同じにしなくちゃならないっていう思いが決まりと似ている部分があるのかもしれないんですが。自分で律する「自立」を妨げているのが「一律」にしなくちゃならないっていうものなのかなぁって思ったりしていて。気をつけなくちゃなって、あの思いを持って考えさせられました。
あの、子どもが小さいときに、えっとまあ余計な話になっちゃいますけど、オリエンテーリング一緒に参加したことがあって。最初は子どもがやることを見ながら一緒についていこうと思ったのに、いつのまにか自分が引っ張り回していることがあって。あの「あっ」と後でとても反省したことがあったんですけど。あのそういうことにまたならないように気をつけようって。学校でも仕事でも子どもたちでもって思いました。
それからもう一つ今日、吉田さんもね、あの靖子さんの言葉の中で「360度みられないので」っていうところの話をしてくれましたけども。どうしてもなんか人の力借りると、その人が不十分だからとかできないから人の力を借りるんだろうみたいに思ったり見たりするところがね、どうしても我々の中にきっとあると思うんですよね。 そうじゃなくて、誰もできないんですよね、360度見ることってね。だからチーム力で多様な大人が関わる、そういう思いでみんなであのお互いの力を借りていくって思えば、当たり前のことでなんてことではないので、借りやすくなるんだろうなと。で、みんなそういう気持ちがお互いに持ってできるようになればいいなって思って。 今日はあの最後、自分自身にそんなところがこれからあるといいなと思って聞いていました。どうもありがとうございました。
ありがとうございました。 はい、今日は第18回Eduカフェでした。対話を楽しむことができたかなというふうに思います。以上で終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
(ありがとうございましたー)
