【コラム】「不揃いの林檎たち」から「均質化」の時代へ ――真の「みんなの学校」と教育大綱の凍結を提言する
「みんなの学校」とは何か。
子どもたちを主語にし、自ら学ぶ環境を作ること――そう言葉にしてしまえば当たり前のことのようですが、世代が違えば「学校」の原風景は全く異なります。
現在、弥富市で進められている「よつば小学校」の開校に向け、子育て世代をはじめ様々な年代の人が議論に関わっています。
世代ごとに考え方が違うのは当然ですが、1959年生まれである私自身の「歴史的視点」から、これからの学校のあり方について一つの考えをまとめたいと思います。
「不揃いの林檎たち」だった1960〜70年代の教室
私が初等教育を受けた1960年代から70年代。当時の教室は、まさに「不揃いの林檎たち」でした。
農家や自営業が多く、サラリーマンがまだ珍しかった時代。弥富にはニッケ(日本毛織)などの工場があり、地方からの集団就職や出稼ぎで多様な人々が集まっていました。
出身地、文化、家庭環境、親の価値観、そして収入に至るまで、今の子どもたちには想像もつかないほど、子どもたちの背景は「でこぼこ」でバラバラだったのです。
当然、今のように人権意識が高かったわけではなく、様々な差別や男尊女卑の風潮もリアルに存在していました。
決して手放しで「良い時代だった」と言えるわけではありません。
しかし、そのバラバラな個性を、社会や企業が求める「均質化」へと押し込める管理教育の圧力が強まる一方で、学校現場にはまだ「ゆとり」がありました。
納得いくまで徹底的に議論する「バズ学習」があり、先生も自由でした。朝礼前に雪のグラウンドで泥だらけになってサッカーの自主練をするような、「巨人の星」や「アタックNo.1」さながらの熱量と、有り余る「生きる力」がぶつかり合っていた時代です。
「均質化」と、奪われる「問いを立てる力」
翻って、現代はどうでしょうか。 教育現場では「個性を尊重しよう」「自ら学ぼう」と盛んに言われますが、私から見れば皮肉な話です。
昔の方がはるかに個性的(バラバラ)だったからです。
今はインターネットでいつでも正解が調べられ、社会全体が高度に情報化し、均質化してしまいました。
子どもたちは幼いうちから「大人っぽく」なり、18歳や22歳の就職までに「完成された大人」になることを求められます。
本来、人間にはDNAレベルで「好奇心」や「問いを立てる力」が備わっているはずです。
しかし、現代の子どもたちは、泥臭いトライ&エラーを十分に経験する前に、情報によって最初から「綺麗に揃えられて」しまっているように見えます。
よつば小学校の「裏テーマ」とクラス替えの限界
よつば小学校の統合において、保護者の間で切実な「裏テーマ」となっている問題があります。
それは「いじめが起きたときの逃げ場として、クラス替えができるように(各学年2クラス以上を)維持してほしい」という願いです。
均質化された現代の子どもたちにとっては、些細な違いが「致命的な差」となり、いじめの標的になりやすいという脆さがあります。
だからクラス替えが必要だ、という理屈です。 しかし、学校の目指す本質はそこにあるのでしょうか。
少子化が進む中、いずれ1クラスになる日は遠からずやってきます。
通学区域が広がり、地域の繋がりやお祭りが衰退し、「地域で子どもを育てる力」は確実に失われつつあります。
クラス替えという物理的なリセットに頼る統合は、根本的な解決にはなりません。
これからの学校に求められるもの――教育大綱の「凍結」を
これからの「みんなの学校」のモデルとして学ぶべき事例は数多くあります。
例えば、大阪の「大空小学校」のドキュメンタリーが示したような、あらゆる子どもたちを受け入れる本気のインクルーシブ教育。
あるいは、岐阜市が推進しているような「本気の縦割り教育」。
かつては地域社会に自然に存在した「年齢の違う子ども同士の縦の人間関係」を、学校の中で意図的に再構築するような取り組みです。
政治が教育に過剰に介入すべきではありませんが、首長や教育委員会は、現場の先生方に新しい教育観を作るための「自由と権限」を与えるべきです。
だからこそ私は提言します。 よつば小学校という新しい器を作るのであれば、高度成長期の古い価値観を引きずった「弥富市の教育大綱」は、一度凍結、あるいは廃止すべきではないでしょうか。
新しいよつば小学校での、多様な子どもたちを包み込むインクルーシブな実践や、真の縦割り教育の試行錯誤。
その「再生」のプロセスを見届けた上で、今の時代に本当に必要な教育大綱を、ゼロから作り直せばいいのです。
子どもたちが自ら「問いを立てる」学校を作るために、まずは大人たちが「古いルール」を問い直すところから始めるべきです。
