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名古屋城天守閣の整備に関する提言まとめ
【結論】 天守閣の木造復元は事実上凍結し、現在の鉄筋コンクリート造を維持しながら「名古屋城全体の整備」へと方針を転換すべきである。
1. 天守閣の本来の歴史的役割
戦国期から江戸期にかけて、天守閣の役割は変化しており、名古屋城は「人が楽しむ場所」ではなく「見せるための倉庫」であった。
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シンボルとしての天守の始まり: 元々お城は防御目的の「櫓(やぐら)」だったが、安土城以降、権力を誇示するシンボルへと変貌した。
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ランドマークとしての名古屋城: 徳川家康が天下普請で築かせた名古屋城や江戸城などは、外から権威を見せつける「ランドマークタワー」へと変化している。
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実態は巨大な倉庫: 燃える前の旧国宝・名古屋城の内部写真を見ると、畳もほとんど敷かれておらず、実質的には巨大な倉庫であった。
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藩主すら登らない場所: 尾張藩主であっても天守閣に登ったのは初期に数名程度であり、日常的に人が出入りする空間ではなかったため、中で火を使うこともなく、太平洋戦争の空襲まで火災を免れた。
2. 名古屋城の建築的特異性
姫路城などとは異なる、独自の建築技法が用いられている。
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モジュール方式(プレハブ的工法): 姫路城のように巨大な心柱(しんばしら)で支えるのではなく、一定規格の木材(ヒノキ)を下から積み上げる柔構造で作られており、築城期間が非常に短かった。
3. 現在の「鉄筋コンクリート天守」の優れた価値
昭和34年に再建された現在の天守閣は、ただのコンクリートの塊ではなく、すでに歴史的・建築的価値を持っている。
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石垣を守る「オープンケーソン工法」: 石垣の内側をくり抜き、石垣に荷重をかけない独立した基礎の上に建っている。仮に地震で石垣が崩れても、天守閣は残る安全な設計である。
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高いコストパフォーマンス: 本物の漆喰(しっくい)は数十年ごとの大修理が必要だが、現在のコンクリート+塗装の天守は、伊勢湾台風など数々の災害に耐え、塗り替えのコストも抑えられている。
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失われた職人技: 屋根の反り返りなどは、鉄骨を細かく曲げてモルタルを貼り付ける高度な職人技で作られており、現代の職人では再現困難と言われている。
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築60年超の文化財: 建設からすでに60年以上が経過しており、建築物として立派な「近代の文化財」と呼べる域に達している。
4. 木造化に伴う「石垣」への致命的なリスク
木造天守を乗せるためには、加藤清正の配下が築いた石垣の改修が避けられないが、現状ではリスクや課題が多すぎる。
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空襲によるダメージ: 昭和20年の火災で石垣の石が熱で傷んでおり、かつてと同じ強度を保てるか疑問視されている(専門家の間でも常識)。
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膨大な手間と時間: 石垣の積み直しには、一つひとつの石を採寸・ナンバリングし、調査しながら元に戻すという途方もない時間と予算がかかる。天守閣の木造化を急ぐために、適当に積み直すことは許されない。
5. 天守閣よりも「優先すべき整備」の提案
木造化のために確保した木材(保管料だけで年間1億円以上)や予算は、以下の城全体の整備に回すべきである。
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多聞櫓(たもんやぐら)の復元: 明治期に撤去された隅櫓同士を繋ぐ櫓。これを復元することで、石垣の裏に水が回るのを防ぎ、石垣の崩落を防止できる(学芸員も推奨)。
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本丸御殿の維持管理と技術継承: 本丸御殿の「こけら葺き」屋根は、いずれ大修理(葺き替え)の時期を迎える。宮大工や伝統工芸(障壁画、錺金具など)の職人技術を継承する場として、継続的なメンテナンスに投資すべき。
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二の丸御殿・庭園の整備: 藩主の実際の生活・政務の場であった二の丸を整備し、美術品の展示や市民の憩いの場としたほうが、文化財としてのバランスが良い。





名古屋城天守閣整備事業と特別史跡の総合的保存・活用に関する学術的検証レポート
1. 城郭史における天守の存在意義の変遷と名古屋城の位置づけ
日本の城郭建築史において、「天守」という構造物が担ってきた役割と象徴的意義は、時代背景とともに劇的なパラダイムシフトを経験してきた。
戦国時代前期から中期にかけての城郭は、純粋な軍事的防衛拠点としての機能が最優先されており、複雑な地形を活かした山城に土塁や空堀を巡らせたものが主体であった。
この時代の防御施設の中核は「櫓(やぐら)」であり、後の時代に見られるような高層の天守は存在しなかった。
初期の城郭では石垣すら用いられず、山肌に築かれた多聞櫓(たもんやぐら)や防御用の門が、敵兵を誘い込み一網打尽にするための実戦的な防壁として機能していた。
この軍事防衛機能の極致として完成されたのが、後に独自の進化を遂げる姫路城などの「戦う城」の系譜である。
この実戦本位の城郭思想を根本から覆し、権力と威信の象徴としての「見せる城」へと変貌させたのが、織田信長による安土城の築城である。
安土城は、山腹から麓にかけて家臣団の屋敷を配置し、山頂部にそびえ立つ巨大な天主(天守)を配するという画期的な設計思想が採られた。
この天主は、内部に吹き抜け構造(八角形あるいは六角形と推定される)を持ち、絢爛豪華な装飾が施されたとされ、単なる軍事施設を超えて、領民や敵対勢力に対して自らの絶対的優位性と超越的な権威を誇示するためのモニュメントであった。
この「見せる」という概念は豊臣秀吉にも継承され、大坂城や聚楽第においては、黄金の茶室に代表されるような極めて凝った内部意匠が施され、天下人としての威信を内外に知らしめる装置として機能した。
その後、徳川家康が覇権を握り、江戸幕府の絶対的な権力基盤を確立する過程で実施されたのが「天下普請(てんかぶしん)」である。
外様大名に莫大な財力と労力を負担させ、西国からの脅威に対する巨大な防衛線を構築する目的で築かれたのが、天下普請の象徴である名古屋城であった。
しかし、この段階に至ると、名古屋城や江戸城、大坂城(徳川による再建)、駿府城などの巨大城郭は、すでに「戦うための砦」だけではなく、東海道を行き交う旅人や広大な平野部から仰ぎ見られることを目的とした「巨大なランドマークタワー」としての性格を決定的なものとしていた。
事実、尾張平野の周縁部(現在の弥富市周辺等)で農作業を行う人々からも、燦然と輝く漆喰塗りの名古屋城天守が明瞭に視認できたとされており、天守はまさに地域一帯を統べる権威の視覚的装置であった。
2. 建築構造と地盤工学的制約から見た天守の実態
名古屋城天守の建築的特長を工学的に検証する際、しばしば対比されるのが姫路城である。
姫路城の天守は、建物の中心を貫く2本の巨大な心柱(東大柱・西大柱)が上層部の荷重を支える、いわば巨大な五重塔のような構造を採用している。
この方式は軍事的な堅牢さを誇る一方で、巨大な心柱に荷重が集中するため不同沈下を起こしやすく、建物の傾きや歪みを引き起こす致命的な弱点があった。
歴史上、中国地方の要衝を抑える姫路藩は、池田家などの重要な譜代・親藩大名が配されたが、改易や転封が相次いだ一因として、この巨大な心柱の維持管理と修繕に莫大な財政的負担がのしかかったことが指摘されているほどである。
対照的に、名古屋城天守は心柱を持たない画期的な「モジュール方式」とも呼べる構造思想で設計されていた。一定の規格で製材された大量の木曽檜を調達し、規格化された柱と梁を下層から順に組み上げていく積層構造である。この工法により、石垣の構築からわずか1〜2年、天守自体の組み上げは1年強という驚異的な短期間での完工を実現した。このモジュール構造は、各層で重量を分散させるため、地震の揺れに対して建物全体が柔軟に変形してエネルギーを吸収する「柔構造」に近い特性を持っていたと評価されている。
しかし、この優れた上部構造に対し、名古屋城は地盤工学的な致命傷を抱えていた。築城地点である熱田台地(あつただいち)の北西端は、台地と低湿地(沼地)の境界線であるヘリの部分に位置しており、特に天守台の西側と北側は地盤が極めて不安定であった。
この脆弱な地盤の上に、加藤清正の配下である高度な技術を持った石垣職人たちが巨大な天守台石垣を築き上げたものの、総重量が数千トンに及ぶ天守と重厚な本瓦葺きの屋根の荷重が長年にわたってのしかかり続けた。
その結果、江戸時代中期の宝暦年間(1752〜1755年)には、西側の石垣が孕み(はらみ)や沈下を起こし、天守そのものが崩壊の危機に直面した。
この危機を乗り越えるため、「宝暦の大修理」と呼ばれる前代未聞の難工事が実施された。金城温古録等の史料によれば、天守を解体することなく、巨大な建物をそのまま曳家(ひきや)?の手法で東側へ移動させ、地盤が沈下した西側の石垣を解体・積み直した後に再び天守を元の位置に戻すという、当時の土木・建築技術の限界に挑む修復が行われた。
さらにこの際、建物上部の重量を軽減するため、屋根材が重い本瓦から比較的軽量な銅板葺きへと変更されている。
3. 城郭内部の実態と近代における役割の変容
名古屋城は江戸時代を通じて、大天守の高さそのものでは江戸城に及ばなかったものの、その容積および延床面積においては日本最大を誇る巨大建築であった。
しかし、その広大な内部空間は、居住や遊興のためのものではなく、実質的には軍事物資や兵器を保管するための「巨大な倉庫(矢庫)」であった。
燃焼前の古いモノクロ写真や図面資料が示す通り、内部には装飾的な要素や生活のための畳はほとんど敷かれておらず、また戦国時代の防衛施設であれば必須となる内部の煮炊きのための台所といった設備も存在しなかった。
尾張徳川家は十数代にわたって藩主の座を継いだが、藩主の大半は江戸に定府しており、国元である名古屋に帰城する機会は限定的であった。
国元にいる際も、藩主の政務(表)や生活空間(奥)は、広大な名勝庭園を有する二の丸御殿に集約されており、天守が日常的に利用されることはなかった。
記録によれば、江戸時代を通じて尾張藩主が天守に登閣したのは初期の1、2名に過ぎず、天守は「中から外の景色を楽しむ場所」では決してなかったのである。
人の出入りが極端に少なく、火気の使用が厳禁されていたこの運用方針こそが、1610年頃の築城から1945年(昭和20年)のアメリカ軍による空襲(焼夷弾)に至るまで、名古屋城が一度も火災に見舞われることなく存続し得た最大の要因である。
なお、名古屋城内に現存する西北隅櫓(せいほくすみやぐら)や東南隅櫓は、当時「櫓」と呼ばれつつも実態は3階建ての立派な建築物であり、特に西北隅櫓は国宝・犬山城天守に匹敵する規模を誇る。
現在でも一般公開(外観および一部内部)されており、太い柱や梁を用いた堅牢な構造を見ることができるが、これらも基本的には武具等を保管する倉庫としての機能が主体であった。
名古屋城天守が「展望施設」としての性格を帯び始めたのは近代以降である。
明治維新後、城郭は陸軍省の管轄下に入ったが、教養ある一部の将校らの尽力により破却を免れ、宮内省に移管されて「名古屋離宮」として保護された。
昭和5年(1930年)には、国宝保存法に基づく国宝(旧国宝)第1号に指定され、宮内省から地元(名古屋市)へ下賜された。
これを機に、一般市民が天守内部に立ち入り、上層階から尾張平野を眺望するという観光的な利用が始まり、本来の「外から仰ぎ見るランドマーク」から「中から外を眺める展望塔」への役割の変質が生じたのである。
4. 昭和期再建(SRC造)天守の工学的価値と文化財的評価
1945年の空襲によって木造天守は焼失したが、その際、天守を支えていた石垣もまた猛烈な熱を浴びた。
発掘調査や専門家によるモニタリング報告によれば、戦災時の高熱によって石垣の石材(花崗岩等)に熱劣化や亀裂が生じており、強度的なダメージが蓄積していることが確認されている。
この損傷した石垣の上に、いかにして再び巨大な天守を復興させるか。昭和34年(1959年)に完成した現在の鉄筋コンクリート(SRC)造天守閣は、この難題に対する当時の最先端の土木工学的解答であった。
石垣の上に直接天守の荷重をかけると石垣が崩壊する危険性が高いため、設計陣は石垣の内部を深く掘り下げ(深さ約20メートル)、4つの巨大な箱状の独立基礎を構築するオープンケーソン(ニューマチックケーソンに類する工法)を採用した。
現在のSRC造天守は、外観上は石垣の上に乗っているように見えるが、構造的にはこの地下深くの独立基礎によって完全に支持されており、歴史的な石垣には一切の荷重をかけていない。
この設計により、万が一巨大地震が発生して石垣が崩落したとしても、天守閣そのものは独立して倒壊を免れる構造となっている。
さらに、意匠的な観点からも現行のSRC造天守は特筆すべき価値を持つ。屋根の流麗な反り(むくり)や複雑な曲線美は、極めて細かく組み上げられた鉄骨の骨組みの上に、熟練の職人たちが手作業でモルタルやコンクリートを緻密に塗り重ねるという、人間技の極致とも言える左官技術によって実現された。
現代の標準化された建設プロセスや機械化された施工方法では、このような複雑で有機的なコンクリート造形を再現することは不可能に近く、その技術を担う職人自体がすでに姿を消している。
築後60年以上が経過した現在、この建造物は単なる「木造建築のレプリカ」という枠を超え、大阪城天守閣(国の登録有形文化財)と同様に、昭和中期の建築技術と復興の情熱を伝える貴重な近代化遺産としての評価を獲得しつつある。
専門家や学芸員の間でも、「築後50年を経過した現行天守は、すでに立派な文化財である」との認識が広がっている。
また、維持管理のコストパフォーマンスにおいてもSRC造は極めて優れている。姫路城などの伝統的な漆喰壁は、台風による横殴りの雨風に弱く、数十年ごとに巨大な足場を組んで漆喰を塗り替える大規模修理が不可欠である。
しかし、現行の名古屋城天守は、特殊な塗装によって白亜の景観を保ちつつ、伊勢湾台風をはじめとする数々の激甚災害に耐え抜いており、外観維持にかかるランニングコストは伝統工法と比較して圧倒的に低い。
5. 木造復元事業に内在する多角的課題と社会的影響
このような歴史的・工学的背景を無視する形で、河村前市長主導のもと推進されてきた天守閣の「完全木造復元事業」は、現在、構造的、財政的、そして社会的な障壁に直面し、事実上の膠着状態に陥っている。
5.1. 石垣修復の不可避性と矛盾
木造の巨大天守を史実通りに石垣の上に乗せるためには、大前提として天守台石垣の抜本的な補強と修復が不可欠である。
空襲の熱劣化や、北側・西側に見られる孕みなどの変状を抱える現在の石垣の上に数千トンの建築物を載せることは、文化財保護の観点から許容されない。
石垣の根本的修復とは、数万個に及ぶ石材の一つ一つに番号を振り、大きさと配置を三次元的に記録した上で解体し、安全な場所に仮置きし、地盤を改良した後に再び寸分違わず積み直すという、途方もない手間と時間を要する事業である。
現在、熊本城の修復現場では、熟練の石垣職人たちが数十年がかりの修行を兼ねた修復作業を続けているが、石垣修復とはそれ自体が一個の巨大な長期的プロジェクトである。
天守の木造化を急ぐあまり、石垣の本格的な解体・積み直しを後回しにしたり、場当たり的な補強で済ませようとすることは、特別史跡の価値を根本から破壊する危険な行為である。
5.2. 財政的圧迫と「隠れ費用」の増大
木造復元事業には、竹中工務店との基本協定で定められた上限505億円の建設費が見込まれているが、この枠組みに収まらない莫大な「隠れ費用」が市財政を圧迫している。
名古屋市議会は2021年3月に「文化庁の文化審議会において正式に木造復元の許可がされた後に予算を執行すること」という附帯決議を採択した。
しかし、市側はこれを逸脱する形で約40億円を投じて大量の木曽檜などの木材を先行調達してしまった。
その結果、文化庁からの解体・復元許可が下りず工期が未定となっている現在、この木材の保管料だけで毎年約1億円もの税金が流出し続けている。
この異常な財政支出に対し、市民団体(名古屋市民オンブズマン等)からは強い批判と見直しの要求が突きつけられている。
5.3. バリアフリーと公共施設としてのアクセシビリティ問題
史実に忠実な復元を掲げる木造化計画は、江戸時代には存在しなかったエレベーターの設置を拒否する方針を打ち出した。
これにより、障害者団体や高齢者などから「公共施設としてのアクセシビリティを著しく損なう」との猛反発を招いた。
2023年6月に開催されたバリアフリーに関する市民討論会では、参加者による差別発言が発生し、市の対応の拙さも相まって社会問題化した。
現行のSRC造天守は、内部の広大な空間(特に下層階)を利用して名古屋城の歴史に関する展示施設として長らく機能してきた。耐震性能の不足から現在は立ち入りが禁止され、展示機能は西の丸等の新たな展示館へと移転されたが、これはある意味で理にかなっている。
なぜなら、江戸時代の天守は本来、内部に入って楽しむ場所ではなく、遠くから眺めるランドマークであったからだ。
仮に現行のSRC造天守を展望台として再利用するにしても、屋根裏に向かって狭くなる構造上の制約から、現在設置されている2台のエレベーターは最上階まで到達できず、最終的には階段を利用せざるを得ない設計となっている。
加えて、現代の名古屋都心部には天守閣を遥かに凌ぐ高さの超高層ビルが林立しており、天守最上階からの眺望価値はかつてほど絶対的なものではなくなっている。
したがって、天守閣は「内部に立ち入る施設」としての機能を外部(展示館)に譲り、自身は純粋なランドマークタワーとして存続することが、歴史的にも都市工学的にも最も自然な帰結である。
内部の展示施設としての利用を前提としなければ、壁や筋交いを増設するだけの比較的単純かつ安価な工事で、十分な耐震補強が可能となる。
6. 特別史跡「名古屋城跡」の総合的整備に向けた代替戦略
天守閣の木造化という一点に巨額の予算とリソースを集中させることは、特別史跡「名古屋城跡」全体の保存・活用戦略において著しいアンバランスを引き起こしている。
文化財保護の全体最適を図る観点から、天守閣の木造化は現状凍結し、以下の分野に投資を振り向けることが強く推奨される。
| 整備領域 | 現状の課題と歴史的意義 | 具体的な施策と期待される効果 | 優先度 |
|---|---|---|---|
| 多聞櫓の復元と石垣保護 | 明治期に陸軍に破却され欠損状態。石垣裏へ雨水が浸透し、土圧による石垣崩壊のリスクが常態化。 |
木造化用に先行購入した木材を転用し、多聞櫓を復元。軽量盛土(EPS)や透水シート等の内堀保護工と組み合わせ、石垣への雨水浸入を根絶する。 |
極めて高い |
| 本丸御殿の長期維持管理 | こけら葺き屋根の耐用年数(約30年)が迫る。宮大工や絵師など伝統職人技術の継承拠点。 | 葺き替えや障壁画の修繕に向けた維持管理基金の拡充。将軍上洛のための至高の空間美を次世代に伝承する。 | 高い |
| 二の丸御殿・庭園の整備 | 藩主の実際の生活空間であり、政務の中心。現在、空間のポテンシャルが十分に活かされていない。 | 史料に基づいた御殿の一部復元や名勝庭園の本格整備。市民が日常的に利用し、大名文化に触れる回遊性空間の創出。 | 高い |
| 現行SRC天守の耐震化 | 内部の耐震性不足により立ち入り禁止。外観維持のコストパフォーマンスは極めて優秀。 | 内部立ち入りを前提としない(展示機能は外部移転済)、構造壁増設等の安価な耐震補強。近代化遺産としての登録有形文化財化。 | 中〜高 |
| 天守の木造完全復元 | 石垣修復の手順無視、エレベーター非設置によるバリアフリー問題、莫大な隠れ費用の発生。 | 計画の一時凍結。購入済み木材の多聞櫓への転用、または他地域の文化財修復事業への売却・有効活用。 | 最低(凍結推奨) |
6.1. 多聞櫓の復元による石垣保護の急務
本丸の石垣上には、江戸時代を通じて多聞櫓(長屋状の防御施設)が連続して建っていた。
多聞櫓は単なる防御壁ではなく、石垣の裏込め石や土層に雨水が直接降り注ぐのを防ぐ「巨大な傘」としての役割を担っていた。
明治期に陸軍が兵舎建設等の資材として多聞櫓を破却して以降、石垣は長年にわたり雨水の浸透に晒され、水圧や土圧の増加による石垣の劣化が進行している。
名古屋市学芸員らの指摘の通り、次に着手すべき最優先の文化財事業は「多聞櫓の復元」である。
先行調達され、年間1億円の保管料を消費している木材の多くは、この多聞櫓の復元事業に転用可能であり、これにより歴史的景観の回復と石垣の恒久的な保護という二重の利益を享受できる。
6.2. 本丸御殿の維持と伝統建築技術の継承
前市長の尽力により完成した本丸御殿の復元は、林業振興や伝統技術の継承という観点から大成功を収めた。
宮大工、こけら葺き職人、左官、飾り金具、障壁画の模写絵師など、消滅の危機に瀕する日本の伝統的職能の粋を集めた一大プロジェクトであり、熊本城本丸御殿の成功に続く画期的な事業であった。
本丸御殿は本来、3代将軍・徳川家光の上洛時の宿泊施設(将軍御成用)として建造され、江戸時代を通じてほとんど使用されることなく厳重にメンテナンスされ続けたため、戦災まで火災を免れたという特異な歴史を持つ。
当初こけら葺きであった屋根は、維持コストの観点から江戸時代途中で瓦葺きに変更されたが、現代の復元においては耐震性を確保する(屋根を軽量化する)目的から、再びこけら葺きが採用された。
しかし、こけら葺きの耐用年数は約30年であり、完成から10年が経過した現在、あと20年後には莫大な費用を伴う全面的な葺き替え工事が待ち構えている。
天守の木造化に新規の巨額投資を行うよりも、すでに世界に誇る文化財として完成した本丸御殿の維持管理と、それに伴う職人技術の継続的な保護に予算を振り向けることこそが、責任ある文化財保護政策である。
6.3. 二の丸エリアのポテンシャルの解放
天守が単なる巨大な倉庫であり、本丸御殿が将軍のための特別な空間であったとすれば、江戸時代における名古屋城の真の活動拠点は「二の丸」であった。
広大な二の丸には、藩主が政務を執る「表」や、日常生活を送る「奥」が存在し、立派な名勝庭園が整備されていた。
今後、莫大な予算を投入して新たな目玉を作るのであれば、この二の丸御殿の復元や庭園の本格的な整備こそが、市民が歴史的空間の内部に入り、多様な美術品の展示を楽しみ、憩いの場として活用できる極めてバランスの取れた文化財事業となる。
7. 結論:全体最適を見据えた文化財行政の再構築
本レポートにおける歴史的、工学的、および財政的な多角的検証によれば、名古屋城天守閣の木造化事業は、現行の計画のまま推進するにはあまりにも多くの致命的な矛盾を内包している。
第一に、名古屋城天守は歴史的にも「内部を楽しむ施設」ではなく、「外部から権威を仰ぎ見る巨大なランドマーク」として設計・運用されてきた。
その役割は、現在そびえ立つ白亜の鉄筋コンクリート造天守によって見事に代替されており、このSRC造建造物自体が、すでに昭和中期の建築技術の精髄を示す貴重な近代化遺産(文化財)としての価値を帯びている。
第二に、歴史的な天守台石垣は空襲による熱劣化や地盤沈下の影響を受けており、ここに数千トンの木造天守を直接載せることは、石垣の完全な解体・積み直しという途方もない時間とコストを要求する。
現行のSRC造天守が採用したオープンケーソンによる独立基礎は、この脆弱な石垣を保護するための極めて合理的な工学的解決策であり、これを破壊してまで木造化を急ぐことは本末転倒である。
第三に、木造化の強行は、バリアフリー問題による社会的断絶を引き起こすだけでなく、年間1億円に上る木材保管料という無為な財政流出を招いている。
したがって、最も戦略的かつ持続可能な名古屋城の整備方針は、「天守閣の木造化事業を一時凍結し、現行のSRC造天守をランドマークとして耐震補強・保存する」ことである。
そして、浮いた予算と先行調達した木材を、多聞櫓の復元による石垣の保護、本丸御殿(こけら葺き屋根等)の長寿命化に向けた確実な維持管理、そして市民の憩いの場となる二の丸御殿および名勝庭園の総合的な整備に集中的に投資すべきである。
これこそが、特定のモニュメントの再建への執着を排し、特別史跡「名古屋城跡」という巨大な歴史的空間全体の価値を、真の意味で次世代へと継承するための最も理にかなった文化財行政のあり方である。
