私たちはなぜ、声を上げることを恐れるのか? 〜「従順な市民」からの脱却。今、求められる意識変革〜
■ コラム:徳川の呪縛「見ざる・聞かざる・言わざる」
日光東照宮の三猿。「悪いことは見ない、聞かない、言わない」というこの教えは、処世術として広く知られています。 しかし、これは本来、徳川幕府が民衆を統治するために用いた**「都合のいいお利口さん」を作るためのスローガン**でした。「余計なことに関わらなければ、波風立たずに生きられる」という諦めを植え付けたのです。
江戸時代ならそれでも良かったかもしれません。しかし、現代の民主主義社会において、主役は市民です。 役所のミスを「見ないふり」、不正を「聞かないふり」、おかしいことに「口をつぐむ」。 この**「事なかれ主義」の代償が、先述した弥富市の敗訴であり、借金の山(県下ワーストの将来負担比率)です。** 「沈黙は金」ではありません。「沈黙は衰退」です。今こそ、この古い呪縛を解く時ではないでしょうか。
■ 深層分析:あなたは「自己家畜化」していませんか?
なぜ、私たちは大人になるにつれて、素直に意見を言えなくなるのでしょうか。ここに**「自己家畜化(じこかちくか)」**という深刻な問題が潜んでいます。
- 野生を失っていくプロセス 子供の頃は誰もが、思ったことを言い、やりたいように振る舞う「野生」を持っていました。しかし、学校や社会という集団に入ると、「ルールに従うこと」「空気を読むこと」を強烈に求められます。 権力側(支配する側)は、従順な者には「アメ(利益・平穏)」を与え、逆らう者には「ムチ(罰・排除)」を与えます。
- 自ら檻(おり)に入る人々 この構造の中で、多くの人は**「従順であったほうが得だ」「波風を立てると損だ」と学習し、無意識のうちに自分の牙を抜き、自らを「家畜」のように飼いならしていきます。これを「自己家畜化」と呼びます。 弥富市においても、市政におかしい点があると感じながらも、「市長に逆らうと損をする」「睨まれたくない」と沈黙を守る人々がいます。それは、自ら進んで「管理される側の人間」**になっていることに他なりません。
- 誰が得をするのか? 市民が大人しく「家畜化」してくれれば、権力を握る側、そしてそれを裏で操る側にとってこれほど都合の良いことはありません。 しかし、そのツケを払うのは市民自身です。私たちが思考停止し、従順な「羊」でいる限り、弥富市の政治は一部の人間たちの「牧場」であり続けるでしょう。
■ 未来への転換:脱「知徳体」・脱「家畜化」の教育へ
では、どうすればこの閉塞感を打破できるのか。そのヒントは、皮肉にも国の教育方針の変化に表れています。
- 昭和の教育:「使いやすい労働者」の育成 かつての教育(弥富市教育大綱など)では、**「知・徳・体(知識・道徳・体力)」**が重視されてきました。これは、言われたことを正確にこなす、工場労働者やサラリーマンとして「優秀な家畜(従順な労働者)」を作るための教育でした。 しかし、イノベーションが求められる現代において、ただ従順なだけの人材は世界でも、地域社会でも通用しなくなっています。
- 令和の教育:「自立・尊重・創造」へ 今、文部科学省でさえも方向転換し、「主体的・対話的で深い学び」「多様性の包摂」を掲げています。 先日お招きした「みんなの学校」の元校長先生も仰っていましたが、これからの時代に必要なのは、昭和の呪縛を解き、以下の3つへシフトすることです。
- 自立:誰かの指示を待つのではなく、自分で考え行動する。
- 尊重:異なる意見を排除せず、認め合う(イジメや村八分の否定)。
- 創造:前例踏襲ではなく、新しい価値を生み出す。
- 大人こそ、変わらなければならない これは子供たちだけの話ではありません。 私たち大人こそが、「長いものに巻かれる」という自己家畜化の状態から脱し、主体的に声を上げ、弥富市の課題を解決する「創造的な市民」へと変わる必要があります。
教育が変わろうとしている今、市政や大人が旧態依然としたままでは、子供たちに未来を見せることはできません。 「知徳体」の呪縛を解き、「自立・尊重・創造」の弥富市へ。 まずは私たち自身が、檻から出る勇気を持ちましょう。

