✝️ キリストの「やったか?」の真意:身を削る愛と「私が責任を取る」という約束
奥田知志牧師の説教は、マタイ25章の「飢えた人に食べさせたか」というイエスの問いかけの厳しさと、その裏にある**「無条件の愛の保証」**を鮮烈に描き出しています。
🔪 問われるのは「お裾分け」ではない、命がけの愛
イエスの「やったか?」という問いは、余り物を分ける程度の善行を求めているのではありません。
- 最高の賛辞: イエスが十字架上で嘲笑された**「他人は救ったが、自分は救わなかった」という言葉こそが、「自分を捨て、他人の十字架を背負う」**というイエスの愛の行動を体現する最高の賛辞でした。
- 身を削る覚悟: 「飢えた人に食べさせる」とは、自分が食べる分を譲る、熱中症のリスクを冒して水を譲るなど、自分の命や利益を犠牲にしてでも与える「狭い門」を通る覚悟を意味します。
🔥 地獄の炎は「脅し」ではない、「責任を取る」という宣言
イエスが「やらなかった者は地獄の炎に落ちる」とまで厳しく迫るのは、私たちが愛を完全に実行できない**「罪人」**であることを承知しているからです。
しかし、この厳しさの裏には、イエスの究極の決意が隠されています。
「お前の代わりに、私が全ての罪の罰を引き受けるから。安心して挑戦しろ」
使徒パウロのように「善をしようと思ってもできない」と嘆く私たちに、イエスは「もしもの時は、俺が全部責任を取る」と約束します。この無条件の愛と責任の引き受けがあるからこそ、私たちは自身の不完全さを認めながらも、臆病にならず**「やってやる」と立ち上がり、「最も小さくされた者」**と共に生きる道に踏み出すことができるのです。
シェアしたいことば
「『やったか』と問うイエスは覚悟を決めていた―ならば『やってやる』と臆病な私は答えた」マタイ25:31-46 奥田知志牧師 東八幡キリスト教会 主日礼拝
イエスの問いかけ:愛とは何か?
イエスが語った「飢えた人に食べさせたか」などの6つの行い。この言葉は、単なる善行を求めているのではありません。
イエスが十字架につけられた時、周りの人々は彼を**「他人は救ったが、自分は救わなかった」と嘲笑しました。この言葉は、イエスにとって最高の賛辞でした。なぜなら、イエスの十字架はまさに「自分を捨て、他人の十字架を背負う」**ことを体現していたからです。
「やったか?」という厳しい問いの真意
イエスは、私たちに**「やったか?やらなかったか?」**と厳しい選択を迫ります。
- 単なるお裾分けではない: 「飢えた人に食べさせたか」とは、冷蔵庫の余り物を分け与えることではありません。自分が食べるはずだったものを譲る、つまり**「身を削ってでも与える」**ことを意味します。
- 命をかけた愛: 「喉が渇いた人に飲ませたか」とは、自分が熱中症になるかもしれない状況で、相手に水を譲ることを指します。「着せたか」とは、自分の服を脱いで与えるほどの愛です。
- 「狭い門」を通る覚悟: このレベルの愛は、正直言って私たちには難しいでしょう。これは、自分の利益や欲望を捨て、他者のために生きる**「狭い門」**を通ることに他なりません。
「地獄の炎」という言葉の裏にあるもの
さらにイエスは、「やらなかった者は地獄の炎に落ちる」とまで言います。なぜこれほどまでに厳しいのでしょうか?
それは、イエスが**「自ら十字架にかかり、私たちの罪の罰を全て引き受ける」という覚悟**を決めていたからです。
イエスは、私たちが完全には愛を実行できない**「罪人」**であることを知っています。それでもなお、「やれ」と迫るのは、「お前の代わりに私が罰を受けるから、安心して挑戦しろ」というメッセージなのです。
「できない」という現実と向き合う
私たちには限界があり、善をしようと思っても、できないことがあります。使徒パウロも、自分の内に「善をしようとする意志はあっても、それをする力がない」と嘆いています。
しかし、イエスはそんな私たちを諦めさせません。
「もしもの時は、俺が全部責任を取るから。お前が負うべき十字架は、俺が代わりに負うから」
この無条件の愛があるからこそ、私たちは臆病にならず、不完全なままでも「やってみよう」と立ち上がることができるのです。
クリスチャンとしての生き方
バプテスマは、高みを目指すことではなく、自身の不完全さを認め、**「等身大の自分に戻る」**ことです。
イエスの愛に励まされ、**「最も小さくされた者」**と共に生きることを問い続け、挑戦していくこと。それが、キリスト者としての歩みであり、教会の役割なのです。
