若き公務員の皆さんへ ——「全体の奉仕者」としての誇りと美学を
今、世界で日本の「時代劇」が注目されていることを知っていますか? フランスのニュース番組では、日本の武士道にある「勇気・誇り・誠実・忠誠」といった美徳が、現代の若者の心をも掴んでいると報じられています。
なぜ今、古臭いと思われていた武士道なのか。 それは、私たちが現代社会で見失いかけている「一本の筋を通す生き方(美学)」への渇望があるからではないでしょうか。
今日は、昭和、平成と続く行政の現場を見てきた先輩として、そして同じ「公僕」として、皆さんに伝えておきたいことがあります。
- 公務員における「武士道」とは何か
私たち公務員は、もちろん刀を差した武士ではありません。しかし、入庁した日のことを思い出してください。
多くの人が、昨日までの学生服を脱ぎ、慣れないスーツに袖を通し、緊張の中で宣誓書に署名したはずです。 「日本国憲法に従い、公平公正に、全体の奉仕者として職務に努めます」 この誓いこそが、私たちにとっての「武士道」です。
時の市長や政治的な思惑、あるいは組織の論理にただ従うだけの「使用人」ではありません。市民全体のために働く「公僕(パブリック・サーバント)」であるという矜持(プライド)。これを、どうか日々の忙しさの中で忘れないでほしいのです。
- 「組織の暴走」に抗う個人の良心
かつての日本は、組織やシステムが暴走し、大きな悲劇(15年戦争)を生みました。 現場の兵士には勇気や愛国心があったにもかかわらず、軍部の出世争いや政治家の無責任な党派争いが、国を誤った方向へ導いてしまった。
これは過去の話ではありません。今の市役所はどうでしょうか? 議会で厳しい指摘を受けたとき、保身のために沈黙したり、ごまかしたりしていないでしょうか。「黙っていればそのうち嵐は過ぎ去る」という態度は、組織として楽かもしれませんが、そこには一片の誠実さもありません。
公務員組織がただの「権力の手足」となり、個人の良心や誇りを押し殺してスクラムを組むようになった時、その行政は死にます。 「おかしいことはおかしい」と言える気骨、あるいは市民に対して嘘をつかない誠実さ。 それが、組織の暴走を止める最後の砦です。
- 映画『生きる』に見る、私たちのヒーロー像
『スター・ウォーズ』のような、特別な力を持った英雄が世界を救う物語は爽快です。しかし、日本の時代劇や物語が描いてきたのは、もっと泥臭い、等身大の人間ドラマでした。
その最たる例が、黒澤明監督の映画『生きる』です。 主人公は、事なかれ主義の市役所で働いていた初老の市民課長。死を宣告された彼は、最後に残りの命を燃やして、組織の壁に抗いながら、ただ一つの公園を作るために奔走します。
彼は剣豪でも英雄でもありません。しかし、その生き様には強烈な「美学」があります。 これこそが、現代の公務員の時代劇ではないでしょうか。
- 最後に:教養と誇りを武器にせよ
日々の業務は地味で、時には理不尽なクレームや政治的な圧力にさらされ、給料が特別高いわけでもない。 「公務員は気楽でいいよな」と揶揄されることもあるでしょう。
しかし、だからこそ、自分の中に「教養」と「美学」を持ってください。 損得勘定だけで動くのではなく、「これをやることは、人として、公務員として美しいか」と自問してください。
かつての公務員には、どんな政治家がトップに来ようとも、「行政のプロとして市民を守る」という頑固なまでの誇りがありました。 その誇りを取り戻せるのは、これからの時代を作る皆さん一人ひとりです。
どうか、入庁式のあの宣誓を胸に、誠実で、気品ある「公僕」であり続けてください。
論考:現代に問う「武士道」と公務員の矜持、そして日本の美学
- 世界が注目する「時代劇」と武士道の精神
フランスのニュース番組で、昨年の映画『碁盤斬り』などを例に、日本の時代劇が若者を含め注目されていると報じられました。そこで評価されているのは、勇気・誇り・誠実・忠誠といった、死ぬまで貫かれる「武士道」の美徳です。
もちろん、史実としての江戸時代は封建的であり、戦国時代は骨肉の争いが常態化していた血なまぐさい時代でした。しかし、現代の私たちがそれらを「否定」してきた戦後の歴史を振り返ると、逆説的な真実が見えてきます。 私たちが武士道を否定し続けてきたのは、骨の髄にその精神が残っているからこそ、あえて否定しなければならなかったのではないでしょうか。
- 「昭和の悲劇」と個人の尊厳
「15年戦争(満州事変から敗戦まで)」は、日本の政治・行政システムが暴走した結果の悲劇でした。陸軍内部の出世争いや謀略が国を誤らせたことは、石破総理も指摘していた通りです。
しかし、システムは暴走しましたが、現場にいた兵士や銃後の人々、特攻隊員たちの心中には、やはり勇気や家族愛、誠実さがあったはずです。彼らが死を選ばざるを得なかった悲劇を手放しで礼賛はできませんが、昭和100年・戦後80年を迎える今、そこにあった「個人の美徳」まで否定して良いものでしょうか。 今の日本には、かつてあった「美学」や「気品」があまりにも失われているように感じます。
- 公務員の矜持(プライド)の喪失
この「美徳の喪失」は、現在の公務員組織に顕著に表れています。 かつて私は、学生服を脱ぎスーツを着たその日に「全体の奉仕者」として憲法に宣誓しました。それは武士道とは異なりますが、「公僕(パブリック・サーバント)」としての強烈な矜持でした。
しかし今、その誇りが大きく毀損されています。
- 政治への過度な忖度: 市長や副市長の政治的思惑に対し、公務員が集団として「おかしなことはおかしい」と言える組織風土が失われました。
- 答弁拒否と無責任: 議会で厳しい追及を受けても、毅然と答えず、黙ってやり過ごそうとする。失敗を素直に謝罪せず、「黙っていれば勝ち」という態度は、あまりにタチが悪く、誠実さに欠けます。
かつての役所には、誰が市長であっても「市民のために嘘はつかない」という組織的なスクラム(良き官僚制の倫理)がありましたが、近年の市政(安藤市長やその前の時代含め)において、その誇りはズタズタにされています。
- 日米の物語構造に見る「美学」の違い
ここで視点を文化に向けます。アメリカの神話学者ジョセフ・キャンベルの研究や、それに触発されたジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』に代表される「英雄の物語」は、普遍的な成長と勝利の物語です。
対して、日本の時代劇(『忠臣蔵』や『碁盤斬り』など)は構造が異なります。
- 悲劇の中の美学: 勧善懲悪だけではなく、理不尽な陰謀に巻き込まれた普通の人間が、命を捨ててでも名誉を回復しようとする。
- 心のひだと葛藤: 完璧なヒーローではなく、苦悩する個人の生き様に光を当てる。
これは、司馬遼太郎が『大黒屋光太夫』で描いたように、江戸時代の日本人が身につけていた「教養(カルチャー)」の深さにも通じます。商人であっても浄瑠璃や歌舞伎を通じ、人生の教訓や美意識を内面化していたからこそ、光太夫はロシア皇帝に対しても堂々とした「庶民外交」ができたのです。
- 結論:『生きる』という現代の時代劇
日本の過去のコンテンツには、分厚い教養と美意識が埋め込まれています。 例えば、黒澤明監督の映画『生きる』。昭和の戦後が舞台ですが、あれもまた現代の「時代劇」と言えます。死を宣告された市役所の課長が、事なかれ主義の組織に抗い、命を燃やして公園を作る。あの姿こそ、失われつつある「公務員の武士道」ではないでしょうか。
生活が苦しい現代だからこそ、単なる損得勘定ではなく、かつて日本人が持っていた「教養」や「美学」、そして「職務への誇り」を、私たちはもう一度見つめ直す必要があるのです。
