【コラム】郷土愛から始まる「歴史の再編集」という視点
先日、弥富市市民協働課主催の「地域づくり団体」の「ワークショップ」に参加しました。 そこで「郷土愛」や「弥富愛」が活動のスタートにあるというお話があったのですが、ふと思ったことがあります。
「愛」といっても、実際には身近なこどもたちや、様々な対象への愛着のことではないでしょうか。子ども食堂、地域猫活動、あるいは日本語教室を通じた外国人との交流。こうした活動の根底には、**「弥富の歴史を再編集すること」**がベースとしてあるのではないか、と新聞を読みながら考えました。
多様な視点で歴史を捉え直す
「弥富愛」と言ったとき、皆が持っている歴史のイメージや成り立ちはバラバラでいいし、むしろそうでなければいけません。そこには「多様性」や「包摂性」が大事だからです。 ただ、既存の『弥富町史』は平成6年に発行されたもので、当時の価値観で書かれています。それから30年が経ち、さらにその前の30年も含めると、今の若い人たちが郷土愛を持てるかどうかは、この歴史の「再編集」にかかっていると思うのです。
私は、郷土愛は無理に持たせるものではないと考えています。ですが、もし持っていただくのであれば、今の令和の価値観で歴史を捉え直す必要があります。昭和の価値観で見落としていたものが、今はたくさん見えてきているはずだからです。
変化する社会と「優秀さ」の定義
例えば、男女間の相互理解や家族観も変わりました。国籍の問題もそうです。 現在、弥富市の外国籍住民の比率は6%を超えているのではないでしょうか。学校現場でも外国にルーツを持つこどもたちが増えています。 実際に接してみると、彼らは非常に「優秀」だと感じます。日本語のハンデはあるかもしれませんが、キラキラとしていて、頑張っている。ニュースレターの配布で市内を歩いていても、新築の分譲住宅を外国籍の方が立派に購入されている姿をよく目にします。
一部で「外国人は危ない」と煽るような政党の声もありますが、実態は違います。母国で能力がありながら環境ゆえに日本を目指した人、一族でもっとも優秀でその期待を背負って借金をしてまで挑戦しに来た人……。日本で家を買い、こどもを学校に通わせている方々は、非常に高い志と「やる気」を持っています。
伝統とは、常に「再編集」の過程にある
LGBTQについても同様です。昭和の『弥富町史』にその言葉や概念は出てきませんが、今の弥富を語る上では欠かせません。 活気のある街は、無自覚であれ自覚的であれ、自分たちの魅力を再発見する過程で「歴史の再編集」を行っています。古びた家並み、料理、行事、獅子舞や神楽……。これらを昔の価値観のまま「引き継げ」と言っても、令和の若者には響きません。
実は伝統芸能も、江戸後期から明治、大正、昭和と、その時代ごとに新しいものを取り入れ、面白がって発展してきたはずです。つまり、伝統とは常に「再編集の過程」にあるものなのです。
自分たちのリズムを尊重し合う
郷土愛とは、例えば祭囃子のリズムのようなものです。 自分の地域の囃子に馴染んでいると、他所の地域のリズムには違和感を覚える。それは「おふくろの味」や「ソウルフード」にも似ています。浜松の人が浜松餃子を愛するように、自分たちの多様性を大事にする。それはメジャーである必要はなく、LGBTQや外国人の問題とも通底しています。
これからは外国人と共に暮らす時代です。生活習慣の違いで不愉快に感じることもあるかもしれませんが、お互いを認め合い、尊重していく。日本のカレーやラーメンが、元の形から独自の歴史を経て「日本の味」になったように、歴史は常にアップデートされていくべきです。
最後に
こうした再編集の場として、本来は歴史民俗資料館などが「市民の交流の場」として機能していくのが理想的でしょう。 今行われている「ヤトミーティング」なども、弥富の良いものを見つけて交流させる、一種の「歴史のアレンジメント」と言えるかもしれません。 オーケストラのように、様々な楽器やパートがあって、目立つ音も目立たない音も、すべてが合わさって街の豊かな響きを作る。
歴史とは単に「古いもの」を保存することではありません。今を生きる人たちのルーツや熱量をどう編集するか。 今ある新品も、50年経てば文化財になります。今の価値観で歴史を編集し続けることが、これからの街づくりには大切なのだと強く感じました。
