1997年(平成9年)4月の「沖縄特措法」採決における、野中広務(のなか・ひろむ)氏(※お名前の漢字は正しくは「広務」となります)の「大政翼賛会」発言についてですね。
この出来事は、戦後の日本政治史、そして沖縄の基地問題を語る上で非常に象徴的であり、当時の国会の空気に強い警鐘を鳴らした場面として、今なお多くの政治家やジャーナリストによって語り継がれています。
当時の背景から、野中氏がなぜ苦言を呈したのか、そしてその発言がその後どうなったのかを詳しく解説いたします。
1. 時代背景:圧倒的多数での「沖縄特措法」の強行
1997年、沖縄の米軍用地の強制使用期限が迫る中、一部の地主が契約更新を拒否する事態が起きていました。これに対し、国が強制的に土地を使用し続けることができるようにするための法律が「沖縄駐留軍用地特措法改正案」でした。
この法案の採決において、与党であった自民党だけでなく、当時の最大野党であった新進党や旧民主党も賛成に回りました。結果として、衆参両院で約9割の議員が賛成するという、圧倒的多数での可決が確実な情勢となっていました。
2. 野中広務氏の「異例の委員長報告」
1997年4月11日、衆議院本会議。沖縄特別委員会の委員長を務めていた野中氏は、法案の審査経過を報告するため演壇に立ちました。
本来、委員長報告は手続きの経過を淡々と読み上げるのが国会のルールですが、野中氏は原稿の最後に、自らの個人的な思いを付け加えました。その際の要旨が以下の言葉です。
「この法律が、再び沖縄を軍靴で踏みにじるような結果にならないよう、心から祈らずにはいられません」 「国会の審議が、再び大政翼賛会的にならないよう、若い皆さんにお願いをしておきます」
3. なぜ「大政翼賛会」と苦言を呈したのか?
「大政翼賛会」とは、第二次世界大戦中に日本の全政党が解散・合流して作られた組織であり、「議会が政府の追認機関(イエスマン)になり下がり、一切の反対意見が封殺された状態」の象徴です。
野中氏が自陣営(与党)の決定事項に対してこのような強い言葉を使ったのには、以下の理由があります。
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「数の暴力」への強い危機感: 本来は政府権力をチェックする役割である野党までもが同調し、9割という圧倒的多数で「沖縄への負担の押し付け」を強行してしまう国会の同調圧力に、戦前の翼賛体制に通じる恐ろしさを感じたためです。
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戦争体験と沖縄への贖罪: 野中氏自身が戦争の悲惨さを経験しており、「国会での健全な議論が失われれば、再び弱い立場の者(=沖縄)が犠牲になる」という強い信念と、政治家としての深い自戒がありました。
4. その後:発言は「公式議事録から削除」された
この野中氏の魂の叫びとも言える発言は、議場に大きな波紋を呼びました。
特に激怒したのが、野党でありながら賛成に回っていた新進党でした。「自分たちの苦渋の賛成行動を、戦前の大政翼賛会と同じだと言うのか」と猛反発し、野中氏に発言の撤回を強く求めました。
前述の通り、国会のルール上、委員長が公式な報告の場で個人的な意見を述べることは本来禁じられています。そのため野中氏は最終的に野党からの抗議を受け入れ、この歴史的な警告は衆議院の公式議事録から削除されることになりました。現在、国会の検索システム等でこの発言の公式記録を直接確認できないのはこのためです。
自らが委員長として通さざるを得なかった法律の採決にあたり、「圧倒的多数で異論を封殺する政治の危うさ」を身を呈して若い政治家たちに警告した野中氏の言葉は、議事録から消されたことで、皮肉にもより深く人々の記憶に刻まれることになりました。
この出来事は、単なる法案の賛否を超えた、日本政治の大きな地殻変動と、一人の政治家の強烈な葛藤の物語でもありました。
1. 野党側の事情:なぜ「圧倒的多数の賛成」が生まれたのか?
当時、国会では野党第一党である「新進党(党首:小沢一郎氏)」や、「旧民主党(代表:菅直人氏・鳩山由紀夫氏)」が存在していました。通常であれば、政府が強制的に私有地(米軍用地)を取り上げるような法案には、野党は人権や地方自治の観点から猛反発するはずです。しかし、なぜ彼らは賛成に回ったのでしょうか。
① 新進党(小沢一郎氏)の「保保連合」構想
当時の新進党党首であった小沢一郎氏は、日米安全保障条約を最重視する現実主義者でした。沖縄の米軍基地が使用できなくなる(不法占拠状態になる)ことは、日米同盟の根幹を揺るがす危機であると考えました。 さらに裏の政治的な動きとして、自民党と新進党の保守系議員同士で連携を図る「保保連合(ほほれんごう)」の模索がありました。小沢氏は当時の橋本龍太郎首相(自民党)らと会談を行い、法案に賛成する代わりに沖縄の経済振興策を引き出すという「合意」を結びました。これにより、新進党は党を挙げて賛成に回ることになります。
② 民主党の苦悩と「安保」の壁
結党したばかりの旧民主党も、鳩山氏や菅氏を中心に「政権交代を担える現実的な政党」を目指していました。ここで反対に回れば「日米安保を軽視している無責任な政党」というレッテルを貼られることを恐れ、苦渋の決断として賛成に回りました(ただし、党内には反発も強く、一部議員は採決を棄権しました)。
③ 社民党の「ねじれ」現象
皮肉だったのは、当時自民党と連立政権(閣外協力)を組んでいた社民党(党首:土井たか子氏)の立場です。本来は与党側ですが、党の理念として基地の強制使用には賛成できず、社民党と共産党だけが法案に「反対」しました。
このように、「日米安保の維持」という大義名分の前に、主要政党が次々と「政府の法案に賛成する」という巨大な流れ(=翼賛体制的な空気)が出来上がってしまったのです。
2. 野中広務という政治家:沖縄への「贖罪」と葛藤
こうした圧倒的多数派を形成した与党・自民党のど真ん中にいながら、誰よりもこの状況に危機感を抱いていたのが、法案を通す責任者(特別委員長)であった野中広務氏でした。
① 戦争体験と「沖縄への負い目」
野中氏の政治行動の根底には、強烈な戦争体験があります。自身も召集され、多くの戦友を失いました。そして、太平洋戦争において、本土防衛の「捨て石(防波堤)」として沖縄が甚大な犠牲を払わされた歴史に対し、深い贖罪の意識を持っていました。 「本土の人間は、沖縄の犠牲の上に今日の平和と繁栄を享受している」という思いが、彼のライフワークとも言える沖縄支援の原動力でした。
② 政治家としての冷徹な責任と、個人としての涙
野中氏は、当時の大田昌秀・沖縄県知事と何度も膝を突き合わせて対話を重ね、沖縄の苦悩を誰よりも理解していました。しかし、政府・与党の重鎮としての立場上、どうしても「期限切れまでに強制使用の法的手続きを完了させる」という冷徹な国家の論理を遂行せざるを得ませんでした。
沖縄の心に寄り添いたいという「個人的な良心」と、国家の約束(日米安保)を守るために沖縄に負担を強いる法律を通さねばならない「政治家としての責任」。この引き裂かれるような葛藤が頂点に達したのが、あの「大政翼賛会」発言でした。
3. 歴史が示す「発言の真意」
野中氏が「大政翼賛会的にならないよう……」と若い議員たちに語りかけたのは、単に新進党などの野党を批判したかったからではありません。
「日米安保という『正論』や『国家の論理』を前にしたとき、日本の政治家はいとも簡単に思考停止に陥り、少数者(=沖縄)の痛みを切り捨てて、みんなで同じ方向に向かって突っ走ってしまう。その同調圧力こそが、かつて日本を戦争へと導いた『翼賛体制』の正体であり、絶対に繰り返してはならない過ちである」
という、自戒を込めた痛烈な警告でした。
現在でも沖縄の基地問題をめぐる議論が国会で紛糾するたびに、あるいは特定の問題で国会の意見が極端に一方へ傾きそうなときに、この野中氏の「議事録から消された言葉」がメディアや識者によって引き合いに出されます。
「多数派が物事を決める」という民主主義のルールの影で、「圧倒的多数が少数者の声を黙殺する暴力性」にいかに歯止めをかけるか。1997年のこの出来事は、現代の日本政治にも重い問いを投げかけ続けています。
